「ただいま」
感傷的になっていた俺たちの静寂を打ち破る、元気で甲高い子供の声が聞こえてきた。
たったったっ、と階段を弾むように上る音が聞こえてきて。
ドアを開けてぱっと笑顔を出したのは、まだほんの小さな子だった。
「ただいま。ママ」
「おかえり」
「この子は?」
幼子を見つめる母親の顔にも、ささやかな笑みが戻っていた。
「まだ言ってませんでしたね。ニコの妹、マコです」
「マコちゃんですか」
そうか。ニコが亡くなった後にできた妹というわけだ。
何となく背景も察せた。二人きりでいるのは辛かったんだろう。
「この娘は、病気にかからず健やかにあればと、願っているのですが」
「きっと大丈夫ですよ。ニコちゃんも見守っていますから」
「そうね」
大丈夫。ニザリーの依頼があったから会うことができた。
夢想病で死なせるなんてことは、俺がさせない。かかったとしてもすぐに治してみせる。
マコちゃんはきょとんとした瞳で、お客さんである俺を見つめている。
人見知りでもされてしまうのかな。
そんなことを思っていると、彼女はにぱっと天使のような笑顔を見せて、飛び付いてきた。
「ユウお兄ちゃん久しぶりっ!」
「ん!?」
どうして俺の名前を知っているんだ!?
「あら。マコ、お兄ちゃんを知っているの?」
「うん。いっしょに遊んだことあるよ」
いや。記憶にない。俺がこの子と会うのは初めてだ。
でも、まさか。そんなことがあるのか?
「どうも誰かと勘違いしてるみたいですけど」
「そうですよね。びっくりしたわ」
「べつにかんちがいじゃないもん。ユウお兄ちゃんでしょ?」
じーっとふくれっ面で見上げてくる。ごめんねと言いながら、続けた。
「せっかく懐いてくれてるみたいなので、少し遊んであげても構いませんか?」
「ええ。お願いします。マコも喜ぶわ」
「わー! お兄ちゃんまた遊んでくれるの? マコのおへやいこっ! ね、いこ!」
元気いっぱいのマコに引っ張られて、ぬいぐるみやおもちゃでいっぱいの可愛らしい空気に満ちた彼女のお部屋へと案内された。
与えられた物だけを見ても、よほど愛されているのが伺える。ニコがいない分の愛情を注がれて育ってきたのだろう。
「ねえユウお兄ちゃん。なにして遊ぼうか?」
「ちょっと、いいかな」
かがみこんで、彼女の小さな手を握る。彼女はきょとんとしたまま、俺を拒むことはしなかった。
幼子には警戒心というものが少ない。心も繋ぎやすいはず。しかもなぜか俺には懐いているから、なおのことだ。これで何かわかってくれれば。
予想通り、マコの心は開かれていた。
……そうか。そうだったのか。
わかったぞ。
俺は、実はもうこの家族とは出会っていたんだ。何気ない形で。
『アセッド』が軌道に乗り始めた頃だ。レジンバークのうちのお店に、仲睦まじい一家が依頼で訪ねてきた。情報都市ビゴールで暮らしている一家だ。
なんと言うことはない。ただ旅行に来たので、町の外を案内して欲しいといった内容だった。
ミッドオールには魔獣がうろついているから、一般人が何の対策もなしに観光するのは危険である。
俺はもちろん、快く引き受けた。
その一家の小さな娘の名が、マペリー。
――『心の世界』のような場所を介して繋がっている、もう一人の彼女の名だ。
「マペリーちゃんだね?」
「うんっ! お兄ちゃんおそい。やっと思い出してくれた。マコは、マペリーなの!」
幼い時分であれば、夢のことを鮮明に覚えていたり、夢と現実の境界が曖昧だったりすることがある。
だからマコは、マペリーとしての自分と、俺のことをしっかりと覚えていてくれたのか。
わずかな手掛かりから辿ってきた糸は、ようやく繋がった。
もう叶わないかもしれないと思っていた。
思いもかけず、この子のおかげで繋がった。俺にはこの小さな子が、救いに思えた。
「ありがとう。君がいなければ、すべては途切れてしまっていたかもしれない」
「どうしたの? きゅうに。へんなお兄ちゃん」
「……ねえ、マコ。君は、お姉ちゃんに会ってみたいかい?」
「うんー」
小さな頭をめいっぱいに悩ませて、マコは返事を考えてくれた。
「マコね、ニコお姉ちゃんのことは知らないけど、いっしょに遊んでみたいかな」
「もしかしたら、一緒に遊べるかもしれないよ」
「ほんと!? お姉ちゃんと遊べるの?」
「うん。お兄ちゃんから頼んでみようと思うんだ。だからちょっとこのままに待っててね」
「わかったー。待ってるね!」
「いい子だ。行ってくる」
俺は、マコの心を介して、ラナソールへ飛んだ。
〔トレヴァーク〕 → 〔ラナソール〕
***
飲み物とお菓子を運んできた母親は、お客さんの姿がどこにもないことに気付いて、眉をしかめた。
「あら。ユウくんは?」
「お兄ちゃん、どっかいっちゃった」
「えっ? どこに」
困惑する母親に、マコはにっと笑って答えた。
「たぶん、お姉ちゃんのとこ」
***
「――やあ。マペリー」
「あ、ユウお兄ちゃんだ! 久しぶりっ!」
飛び付かれる。この人懐っこいところは、どちらの世界でもまったく一緒か。
「また遊んでくれるの?」
「そのつもりだけど……その前に。マペリー、お姉ちゃんに会ってみたいか?」
「んー。うちにはお姉ちゃんなんて、いないよ? マペリー、一人っ子だもん」
「……ああ。わかってる。わかってるさ。でも、お姉ちゃんなんだ」
言葉の意味がわからなかったかもしれないが、幼いマペリーはうんと考えてくれた。
「もしかして、ユウお兄ちゃんみたいな人? 優しいお姉ちゃん?」
「きっと遊んでよかったって思うよ」
「じゃあ、遊んでみたい!」
「わかった。ちょっと行ってくるね」
「待ってるね。ユウお兄ちゃん」
死で分かたれた家族は、現実世界ではもう会えない。夢の世界で会ったとしても、互いのことを覚えていない。
真実はとても残酷だ。伝えない方がいいのかもしれない。このまま失敗したと言ってしまった方がいいのかもしれない。
それでも。君が本心で家族に会いたいと望むなら。
いや、二ザリーだけじゃない。
あなたたち家族が、家族に会いたいと心から望むなら。
俺のエゴかもしれない。でもやっぱり、会わせてあげたい。
夢と現実は繋がっている。
きっと何か、伝わるものがあるはずだ。感じるものがあるはずだ。そう信じている。
だからできる限りのことを。俺は、俺たちは、してあげたい。
『……ユイ』
『いいよ。来て』
『心の世界』を使って、ユイの元まで飛んだ。
ユイの隣には、焦燥し切った様子のニザリーがいた。
これでも慰めた方だと、ユイの悲し気な目が語っていた。
「ユウさん。教えて下さい。あの子に……私に、何があったんですか……?」
胸が詰ませられる。
俺が記憶の扉を開いてしまったことが、彼女に薄々真相を感付かせることになってしまった。
まさかあそこまで恐ろしい記憶に結び付くとは思わなかったんだ。
軽率な行動だったと、後悔してももう遅い。
もはや後戻りはできない地点に、彼女はいる。
「……この手を取れば。君が知りたいと望むなら、俺が知り得た真実を伝えることができます。家族にも会えることでしょう」
「……本当、ですか?」
「はい。ただ……望む形ではないかもしれません。君はそれを知ったことで、ひどく後悔するかもしれません。どうしますか?」
ニザリーの瞳に、興味の色と、恐怖の色が同時に映った。
しばし逡巡し、そして。
彼女は決断した。
「お願い……します」
「わかりました。……先に謝っておきます。記憶を抉るようなことをして、本当に申し訳ありませんでした」
深く頭を下げる。それで許されるわけはないのだけど、そうせずにはいられなかった。
手と手を繋いで。俺が知り得た真実を、彼女に伝える。
すべてを知った彼女は――
「そっか。そっかあ。やっぱり。私、もう死んじゃってたんだ……」
項垂れて、大粒の涙をぽろぽろと流した。
現実の自分がもう死んでしまっているという事実は、どれほど重いことだろうか。
慮ることはできても、当人にしかわからない苦しみだ。
ユイが彼女に寄り添って、頭を撫でる。ニザリーはユイの胸に顔を埋めて、静かに泣いた。泣き続けた。
何もできない俺は、その場に立ち尽くすしかなかった。
やがて、泣き止んだニザリーは。
「……会わせて下さい。お願いします」
凛とした瞳で。覚悟を決めた眼差しで。そう言った。
ユイの転移魔法を使って、情報都市ビゴールまではすぐだった。
家族のいる雑貨屋の前へ、ニザリーを連れて行く。
まず遠くから雑貨屋を伺った彼女が、ぽつりと呟いた。
「……あそこに。私の、家族が……」
ニザリーを待たせて、まず先に俺とユイが両親の元へと向かう。
前に依頼したことを覚えていて、温かくもてなしてもらった。
もし二人がニザリーのことを思い出してくれれば、感動の再会となるかもしれないと、一縷の望みを託して《マインドリンカー》を使おうとしてみた。
しかし、両親の方はニザリーやマペリーほど心を開いてくれず――やはり、死を忘れたい気持ちが強かったのだろうか――残念ながら、効果を発揮することはなかった。
やるせない気分で首を横に振り、用件を切り出すことにした。
「実は今日は、会わせたい人があって来たんです」
両親に、ニザリーを紹介した。
ニザリーとしても、どこか宙に浮いたような気持ちだったのかもしれない。両親の姿が記憶にあるものとかけ離れていて、何を言ったらいいのかわからないという顔だった。
「……はじめまして。私、ニザリーと申します。ナサドで雑貨屋を営んで、おります……」
「……あ、ああ。はじめまして」
主人と奥さんがそれぞれ名乗る。はたから見てもぎこちないもので、もう覚えていないことが明らかで、物悲しさが込み上げてくる。
「それで。ニザリーさんは、どのようなご用件で?」
「わた、私……は……」
言葉に窮する。本当はあなたたちの娘なんだと、言ってしまいたいのに。
それを言っても、二人にはわからない。届かない。
連れてきたのは俺だ。何かフォローしてあげないと。しかし何を言えば――
「……お姉、ちゃん?」
いつの間にか、うちに入ってきたマペリーが、ニザリーをきょとんと見ていた。
何かを感じたのだろうか。マペリーもマコも、彼女を知るはずはないのに。
「お姉ちゃん。わー、ほんとにお姉ちゃんだ! ユウお兄ちゃん、ちゃんと連れてきてくれたんだねっ!」
「あ、ああ……」
マペリーは子供ながらの勢いでニザリーに飛び込むと、強めに袖を引っ張った。
「マ、マペリー、ちゃん……?」
「お姉ちゃん。悲しい顔してるよ。遊ぼう? 遊んだらきっと、楽しいよ!」
「うん……ごめんね」
「ユウお兄ちゃんも、ユイお姉ちゃんも、いっしょに!」
「そうだね」
「一緒に遊ぼっか」
マペリーの誘いにしたがって、四人で遊ぶことになった。
この無邪気な妹に、どれほどか救われただろうか。
遊ぶうち、ニザリーの表情も、少しは晴れていたような気がする。
「……ねえ、マペリーちゃん。また遊びに来てもいいかな?」
「もっちろん。また遊ぼうね、ニコお姉ちゃん!」
「あ……」
不意に呼ばれたもう一つの名前に、ニザリーは心を打たれて立ち尽くしていた。
「娘と遊ぶ姿を見ていたのですが……。何だかあなたを見ていると……不思議ね。他人のような感じがしませんでした」
「もう一人、娘ができたみたいでした」
……娘なんだ。本当に。
「また、いつでも遊びに来て下さい。ニザリーさん」
「歓迎しますよ」
「……っ……はい。はい……!」
ニザリーは、とうとう我慢できなかった。感極まって、三人の目の前で嗚咽を上げた。
両親とマペリーが驚いて駆け寄り、彼女を温かく慰める。
確かにそこには、失われてしまったはずの家族の姿がある……ような気がした。
『これで、よかったのかな……』
『わからない……』
結局、真の意味で家族を再会させることはできなかった。
俺とユイは、すべてがどうにもならなかった事実に無力を感じながら、身を寄せ合う四人の姿を後ろから黙って見つめ続けていた。