ご愁傷様です、霊夢さん   作:亜嵐隅石

4 / 5
4/4

 現在、博麗神社の境内は先刻までの騒乱が嘘のようにシンと静まり返っていた。

 というより、まるでお通夜のように重く息苦しい様相を呈していた。

 

 霊夢は拝殿へと続く階段に座り込み、一枚のスペルカードを握り締めながら、肩を落として荒い呼吸を繰り返していた。

 かたや、神社に集った人妖達は悪鬼羅刹と遭遇したかのように怯えた様子で顔を俯かせ、悪戯を叱られた子供のように境内の石畳の上で正座させられていた。

 また、その両者の中間点では、口の端から涎を垂れ流しながら倒れ付している小傘と並ぶ格好で――ボロ雑巾のように無惨な姿となった早苗が倒れていた。

 

 ――ひとりの修羅が現れた。

 この不可解な状況を端的に説明するとそういうことになる。

 

 とどのつまり、霊夢の堪忍袋の緒が遂に切れてしまい、その後、悪鬼羅刹の如き、世にもおぞましい怪物が博麗神社の境内に解き放たれたのである。

 その暴虐っぷりは地獄の女神でさえも「これは酷い……」と呟くほどの地獄絵図であったが――不幸中の幸いにして、件の怪物は直ぐ近くにいた早苗をほふるのみで去って行き、被害は意外にも最小限の域に留められた。

 これも夢想天生が耐久スペルであったお陰である。もしも、夢想天生のスペルカードに時間制限が設けられていなければ、いま頃、幻想郷は壊滅的な打撃を受けていたに違いない。怒り狂った博麗の巫女によって。

 

「――で、アンタ達は一体、私の許可もなく、人様の神社で何を勝手に騒いでいたのかしら? これは一体全体、何事なの? 誰か詳しく説明して頂戴な。ことと次第によっては、アンタら全員、この場でしばき倒すから」

 

 心底疲れたといった風に溜め息を吐いた後、ニコリとした笑みを顔に張り付かせながら、こめかみに青筋を立てながら霊夢は皆にそう質した。その背後には七方向へと延びる歪なオーラが見える――と、そんな錯覚を起こしてしまうほど、霊夢の怒りは静かな狂気を湛えていた。

 だが、そんな霊夢の問いに答える者は皆無だった。皆、下手なことを口にして霊夢の不興を買いたくなかったからだ。いまの霊夢は言わば、ニトログリセリンのようなもの。取り扱い注意であり、些細な刺激が大惨事を招き兼ねない。

 故に皆はただただ、項垂れたまま沈黙を守り続け、ひたすらに時の流れに身を任せ、この重苦しい空気が――あるいは緋色の悪夢と称するのが相応しい、この恐ろしい禍事が一刻も早く過ぎ去るのを切実に願うことしか出来なかった。

 酔いなど最早、疾うの昔に醒めている。

 

「ふーん、黙秘ってわけ。へーそういう態度を取るんだァ。それじゃあ仕方ないわね。アンタ達が少しでも喋りやすくなるよう、特別に私が便宜を図って上げるわ。――という訳でこれからアンタ達を使った射的ゲームを開始しまーす! 目玉に当たったら百点満点だから……そのつもりで」

 

 始めこそは至極穏やかそうな口調であったが、次第に心臓を鷲掴みにするかのような、おどろおどろしい声音へと変貌していった霊夢の言葉に背筋が凍り付き、皆は反射的に項垂れていた顔をスッと持ち上げた。

 見ると、いつの間に取り出したのか、霊夢の両手には数本の封魔針が。指の隙間から鋭く延びるそれの尖端は、まるで獲物を狙う肉食獣の目のようにギラついた光を放っていた。

 

 覚妖怪でなくとも、心など読めなくとも分かる。霊夢は本気である。本気で殺しに掛かってきている。肌をジリジリと焦がすような、有無を言わさぬ、霊夢の純化した怒りの圧倒的な威圧感がそれを確信させる。

 それと同時に皆は瞬時にこう悟った。これは私達に対する脅しであると。鳴かぬなら殺してしまおうホトトギスと霊夢は言外にそう語っているのだと。すなわち、このままだんまりを決め込むのはすこぶる不味いと。

 

「もう駄目だ! この船はもう沈むんだ! 船が沈んで私達はもうおしまいなんだ!」

 遂には恐怖に耐えきれず、ナズーリンが泣きながら発狂して、幻覚でも見ているかのようによく分からないことを喚き出した。それを寅丸が必死で落ち着かせようと宥めるが、直後にまた宝塔をなくしたことに気付き、どこか照れ臭そうな困り顔でナズーリンに宝塔の捜索を依頼した。途端にナズーリンは絶句して、なんかもう色々と限界だと思った。

 

 そんなふたりのやり取りなどは尻目にして、皆は恐怖に染まった瞳で霊夢をひとしきり凝視すると、暫くして、互いの気持ちを確認し合うようにアイコンタクトを取り、無言のままにゆっくりと一度だけ頷き合った。

 そして、まるで示し合わせたかの如く、そこで皆の視線が一斉に白黒の魔法使いへと注がれた。

 

 何も口には出さずとも皆の目は如実にこう語っていた。『このまま黙秘を続ければ、私達は怒り狂った霊夢によって射的のマトにされてしまうわ。だから、ここはひとつ貴女が代表して、霊夢の望むようにこうなった経緯を説明して差し上げるのよ』と。

 すると、魔理沙は身震いして嫌々とかぶりを振り、皆を恨めしそうに睨み付けるとこう反駁した。『ふざけんな! 私に人柱になれってのか!? 冗談じゃない、なんで私が!?』と。

 皆は慈悲のあるドヤ顔を浮かべ、魔理沙の反論にやれやれといった風に肩を竦めると、優しく目を細めて諭すように更にこう語った。『貴女以上の適任者は他にいないのよ。だってほら、確か貴女、霊夢の友人代表だった筈でしょう? となれば、ここは友人代表の貴女から霊夢に説明するのが筋であり、自然な流れであり、それは至極当然の摂理なのですわ。はい論破!』と。

 魔理沙はぐぬぬと一瞬だけ怯んだ様子を見せたが、直ぐさま目を見開いて尚もこう反駁した。『いやその理屈はおかしい! 罠だ! これは罠だ! 大体、霊夢は死んだ筈なのに生きているというのはおかしいじゃないか!?』と。

 

 結局、この双方のアイコンタクトのみで繰り広げられた静かな論争は、最終的に涙目の魔理沙が全面的に折れる形で決着がついた。金髪の子かわいそう。

 

 魔理沙は苦々しく小さな舌打ちをすると、諦観の念と共に重い腰を上げ、震えそうになる膝をなんとか抑えながら、断頭台へと赴くような足取りで霊夢のもとへゆっくりと進み出た。その時、霊夢の底知れない、深淵を思わせる黒々とした瞳が魔理沙をジッと捉える。

 途端、胃が捩じ切られるような痛みに襲われた魔理沙は苦悶の表情を浮かべ、傍らで無惨に倒れ伏している早苗をチラリと窺った後、助けを乞うような目をして皆の方へと振り返った。

 

 だが――次の瞬間。皆は一様に申し訳なさそうな、気不味そうな顔をして、無情にも魔理沙からそっと目を逸らした。誰も魔理沙と目を合わせようとしない。

 また、パチュリー・ノーレッジに至っては『魔理沙がどうなろうと知ったことか』と言わんばかりに平素通りの澄まし顔で手元の書物に目を落としている。また、その隣にいる小悪魔も主人に倣ってか、魔理沙のことなどアウトオブ眼中――といった様相でしきりに髪の枝毛を気にしていた。

 これも日頃の行いが災いした結果であろうか。

 

 紅魔館爆発しろ!――魔理沙は心の中でそんな悪態をつきつつ、またも小さく舌打ちをして、嫌々ながらも再び霊夢の方へと向き直った。

 

「わ、わた、私がみんなを代表して、こうなった経緯をお前に説明してやるよ。だ、だからその……そんな物騒なもんはあっちへポイしよう、な?」

 

 魔理沙が上擦った声で阿るように宥めるように懇願した。すると果たして、魔理沙の願いが晴れて受理されたのか、霊夢は一拍の間をおいた後、よろしいとばかりにゆっくりと首肯して、手にしていた封魔針をそっと袖の中へと収めた。

 

 皆は最悪の事態を免れたことに安堵の胸を撫で下ろしたが、その反面――これは所詮、仮初めの平和に過ぎないことを理解していた。

 何故ならば、地獄のような審議の時間はまだ終わってはいないからだ。霊夢がことの真相を全て知った後、果たして、どのような態度に打って出るのか、現状、まったくと予想がつかないのである。

 従って、なんの因果か、矢面に立たされてしまった魔理沙にとって、ここは正しく正念場、危険地帯の最前線――つまりは地獄の一丁目と言っても過言ではなかった。

 魔理沙の心はいまや、すっかりと鉛色に染まっていた。最早、紺魔理沙状態である。

 

「それでは魔理沙、アンタに改めて問うわ。この騒ぎは一体、何事なのかしら? キチンと筋道を立てて詳しく説明して頂戴な」

 

 霊夢にそう問われた魔理沙はグッと息を飲み込んだ。口の中が急速に酷く渇き始め、握り締めた拳にはじんわりと汗が滲み、不安と恐怖で動悸が早鐘を打ち始める。

 魔理沙の本音としてはいま直ぐにでもこの場から逃げ出したかった。だがしかし、衆目に晒されている、この現状に於いて、逃走の機会などは疾うに失われていた。最早、一歩たりとも後には引けない状況である。

 

 魔理沙は心を落ち着けようと深い呼吸を何度も繰り返した。それからやがて、覚悟を決めたように真っ直ぐと霊夢の顔を目で捉えると、おもむろに重い口を開き、今朝から現在へ至るまでの一連の出来事を訥々と語り始めた。

 

 今朝方、博麗神社へ遊びに来たら、大量の金で溢れ返っていた賽銭箱の側で霊夢が泡を吹いて倒れているのを発見したこと。

 それから華扇や早苗、文が次々と神社に顔を出してきて――ふと気が付けば、霊夢が死亡したという内容が書かれた、文々。新聞の号外が幻想郷中にばら撒かれていたこと。

 霊夢の突然の訃報を受けて、大勢の人妖達が博麗神社へ弔問に訪れ――なんやかんやの末、霊夢の為にみんなで宴会を開こうという話になったこと。

 そうしたら、宴会の最中に感極まって、みんながわんわんと泣き始めてしまい、更にはそこへ死んだ筈の霊夢が現れて、いまに至ることなどを――魔理沙は噺家さながらに表情をコロコロと変えながら、身振り手振りを交えて語った。それにしてもこの魔法使い、ノリノリである。

 

 そんな魔理沙の話に霊夢は始め、氷のような無表情を貫きながら耳を傾けていた。だが、魔理沙が話し始めて数分が経過した頃、その表情はにわかに雲行きがあやしくなり始めた。

 話のくだりで言えば、射命丸文が登場した辺りからである。霊夢の表情が突如、ムッとしたような険しいものへと変わった。しかし、それも束の間の話。そこから更に魔理沙の話が進んでいくと、今度は徐々に複雑そうな表情へと移り変わり、終いには困り果てたように頭を抱えて項垂れるまでに至った。

 その様相はあたかも、トイレで用を足したら紙がないことに気付いた時のそれに近い。霊夢は魔理沙の話をどう処理すれば良いのか思い悩んだ。

 

「――以上で私の話は終わりだ。後はもう、霊夢の判断で私達を煮るなり焼くなり好きにしてくれ……」

 

 フッと息を漏らした後、魔理沙は自暴自棄とも自殺志願とも取れる発言を残して、話の最後をそう締め括った。

 すると、それまで頭を抱えて項垂れていた霊夢がハッとしたように面を上げて口を開いた。

 

「ちょ、ちょっと待って……話がまだよく呑み込めない! はっ? えっ? そ、それじゃあ何、アンタ達はつまり――私が死んじゃったと思って、それでその……こんな騒ぎを起こしたって言うの?」

「――そうだ。みんなで楽しく宴会を開いて、霊夢の旅立ちを笑顔で見送ってやろうと――霊夢が安心して、笑顔であの世に旅立てるようにしてやろうと、そう思ってな」

「ここにいる奴ら全員が? そんなことの為にわざわざ?」

「まあな。みんな、幻想郷の住人らしく、ノリの良い連中ばかりなんでね」

 

 霊夢は信じられないといった様子で目を見開く。

 現在、博麗神社は境内を埋め尽くさんばかりの人妖達で犇めき合っている。その顔触れたるや錚々たるものであった。これから先、どのような有事があったとしても、これほどの面子が一堂に会することはないのではないかと、そう思えるほどの顔触れだった。

 

 ――こいつら全員が私の為に集まった? いやいや、そんなまさか!?

 霊夢の死を悲しんでこれだけ沢山の人妖達が集まった――魔理沙の話を要約すれば、そういうことになる。だが、霊夢はとても、そんな話はにわかに信じることが出来なかった。それだけ霊夢にとって、この事実は衝撃的で意外過ぎたからだ。

 しかし、その話を裏付けるかの如く、辺りには何やら宴会の残滓らしき物が散見される上、これまでの皆の奇妙な言動と照らし合わせてみても、色々と腑に落ちる部分があったのもまた確かな事実であった。つまり、否定し難いほどに魔理沙の話は辻褄が合っていたのだ。

 

 途端、霊夢は身体の芯が急速に熱くなっていくのを感じた。するとたちまち、皆からの視線が妙にこそばゆく感じ始め、霊夢は思わず、皆の視線から逃れるように顔を明後日の方向へと背けてしまった。そして、次の瞬間には不意な夜風が熱くなった頬を撫でていった。

 霊夢の心はまだ、この嘘みたいな現実を受け止めきれずにいた。

 

「な、何よそれ。全然、意味分かんないし。そんなことぐらいで大騒ぎしちゃって……。まったく、揃いも揃って大袈裟なのよ。大体、アンタらなんて普段、顔を会わせれば、憎まれ口しか叩かない癖に。それがなんでこんな……」

「みんなにとって、それだけ霊夢の死がショックだった。みんなにとって、それだけ霊夢の存在はかけがいのないものだった。――つまりはそういうことだろ?」

 

 魔理沙がそう言うと、その言葉を肯定するように皆は一斉にうんうんと頷いた。

 そんな皆の様子を横目でチラリと窺った霊夢は言葉にならない呻き声を上げる。

 

「――んもう! なんなのよ、アンタらはホント! 大体、私は死んでないし! いまもこうして、ピンピンして生きてるっつうの! 勝手に人を殺すな!」

 

 様々な感情が複雑に絡み合い、身悶えしそうになる衝動に駆られて、どうにも居ても立ってもいられなくなった霊夢は堪らず、敢然と立ち上がり、皆に向かって吠えるように捲し立てた。

 その顔が見事なほど真っ赤に染まっているのは果たして、怒りによるものなのか――はたまた別の要因によるものなのか。それは霊夢自身にも分からない。全ては神のみぞ知るである。神社なだけに。

 

「そう。そうだわ――射命丸文よ! そもそもがあいつの早とちり、あいつの流したデマがこうなった元凶なんでしょ!?」

「……有り体に言えば、そうなるかもな。まあ、デマに踊らされた私達も悪い気がするけど」

「まったく! 相変わらず、ろくでもない奴ね、あいつは! で――その文の馬鹿はどこにいるのかしら? どうせ大方、あいつもこのふざけた集まりに参加してるんでしょ!? ほら、隠れてないで出て来なさい!」

 

 霊夢の推察通り、確かに文も今回の宴会に参加していた。そもそも、常に幻想郷の少女達に対して興味津々な、あの射命丸文なのだ。何はなくとも、これほど沢山の少女達が集まる、こんな絶好の機会を逃す筈はない。

 ところが――待てど暮らせど当の鴉天狗は一向に姿を現さなかった。それどころか、境内のどこを見渡してもその姿を見付けることは出来なかった。

 

 皆はまるで狐に摘ままれたような心境となり、互いに顔を見合わせて怪訝な表情を浮かべている。霊夢も不思議そうにする皆の様子に眉根を寄せて小首を傾げた。

 終いには「おい誰か、スカートをたくし上げて、ドロワを見せるんだ! 良いか、目に涙を溜めて恥ずかしそうにスカートをたくし上げるんだぞ! 奴がどこかに隠れ潜んでいるのなら、それで誘き出すことが出来る筈だ!」、「いやいや。そんなものではあいつは釣られたりしないわ。ちょっとチルノ、それに大妖精! 貴女達、いま直ぐここで抱き合ってキスしなさい! キースーするのよ! キースー!」と、そんな言葉が飛び交う始末である。

 しかし、そこまでしてもまるで神隠しにでもあったかのように忽然と姿を消してしまった鴉天狗は姿を現さなかった。果たして、射命丸文はどこに消えてしまったのだろうか?――それは最早、誰にも分からないことである。結局のところ、大妖精が妙にご満悦の表情を浮かべて、チルノが赤面したまま地面に倒れ付した、という結果だけが残った。

 と、そんな折のことである――誰かが不意に恐々と手を挙げ、申し訳なさそうな声を上げた。

 

「あ、あのう、文さんでしたら先程、何やら特ダネの匂いがするとか言って、三途の川方面へと飛び去って行きました……けど」

「なん……だと……?」

 

 絞り出すような霊夢の呟きと共に皆の視線が一斉に犬走椛へと集まる。文と同じ鴉天狗のはたてに至っては「裏切ったってマジですか!?」とでも言いたげな鋭い視線を送っていた。

 一方、四方八方からの刺すような視線に晒されて恐縮したのか、椛は主人に叱られた犬のようにシュンとしてしまい、そんな椛の様子に心を痛めた、将棋仲間のにとりが慌てて椛のフォローに回った。

 また、周囲から聞こえる、「あいつ逃げやがった」「私達を裏切って逃げた」「ひとりだけ逃げた」という囁き声によって古傷が刺激され、鈴仙が錯乱状態に陥り、アラーの神に祈るかの如く、月に向かってブツブツと謝罪をし続ける場面もあった。

 

「ははっ……。流石は幻想郷最速。逃げ足の速さも最速ってことか」

 

 魔理沙が苦々しく笑い、そんな冗談めかした言葉を零すと、やがて、霊夢は渋面を浮かべながら、こめかみに指先を押し当て、疲れ果てたように溜息を吐いた。

 

「なんだかもう、怒る気力もなくなってきたわ……あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて」

「ゴメンな、霊夢。でも決して、みんな悪気があって、こんなことをした訳じゃないんだ。それだけは分かってくれよ」

「……もういいわよ、別に」

 

 霊夢が呆れたようにそう言うと、先程まで張り詰めていた緊張感はどこへやら、境内には途端に弛緩した空気が流れ始めた。魔理沙は苦笑いを浮かべて皆の方へ振り返る。見ると、皆も魔理沙と同様に苦笑いを浮かべていた。

 

 東風谷早苗という尊い犠牲はあったものの、諸悪の根源である射命丸文は取り逃がしたものの、なんだかんだでようやくと全てが丸く収まろうとしている――いま、この場を取り巻く弛緩した雰囲気から、皆はそんな希望に満ち溢れた気配の訪れを予感していた。

 我々は許されたのだ――皆の目にうっすらと安堵の光が灯った。

 

 だが、ここまでの騒動を起こして、ことがそう簡単に丸く収まる訳がなかった。

 地獄のような審議の時間はまだ終わってはいない。

 そう――皆はまだ完全には許されてはいなかったのだ。

 

「ところで魔理沙――アンタにひとつ訊きたいことがあるんだけど」

「――ん?」

「ほら、さっきアンタ、言ってたじゃない。神社の賽銭箱が大金で溢れ返ってたって」

 

 その時、魔理沙を含めた、皆の肩がビクリと跳ね上がった。

 その様はまるで悪戯がバレた子供、そのものだった。

 

「でね、確かにそう言われてみれば、私もぼんやりとだけど、そんなような記憶が微かにあるのよ。ねえ魔理沙――あのお金は一体、どこに消えちゃったのかしら?」

 

 霊夢は空の賽銭箱をチラリと一瞥した後、悪戯をした子供を叱る母親のような、穏やかさの中に僅かな冷たさを含んだ声音で魔理沙にそう尋ねた。

 魔理沙の額からドッと脂汗が流れ始める。

 

 誰もが言葉を発することが出来なかった。いや。そもそも発する言葉が見付からなかった。

 まさか――宴会費用の為に全部使ってしまいましたん!!――とはとてもではないが言えない。例え、口が裂けたとしてもそればかりは言えそうにない。そんなことを言えば、常に参拝客と賽銭に飢えていることでお馴染みの博麗霊夢が怒り狂わない訳がなかった。今度こそ本気で殺しに掛かってくるに違いない。すなわち、全世界ナイトメアの開幕である。

 それ故、神社に集った人妖達の心には激しい動揺が走り、その視線は焦点が定まらないように覚束なくなり始めた。魔理沙に至っては白目を剥き、膝がガクガクと震え始め、いまにも卒倒してしまいそうな有り様だった。

 

 そして、そんな皆の動揺ぶりとは相反して、霊夢は冷静にことを眺めながらも内心でほくそ笑んでいた。と言うのも、霊夢は元来、とても勘の鋭い女の子であり――空の酒瓶やら料理の残りカスやらで散らかった境内の惨状を見て、賽銭箱の大金がどこへ消えたのか、端からおおよその察しはついていたのだ。

 

「あ、あのな。いまから話すのは凄く言いにくいことで。……霊夢にはどうか落ち着いて、本当に落ち着いて聞いて欲しいんだが。実のところ、あの賽銭箱の大金は全部――」

「宴会の費用に使ってしまった――そうでしょう? そりゃあそうよねえ、なんだか随分と大掛かりな宴会を開いてたようだし。その費用も馬鹿にはならないわよねえ」

「――誠にすんませんしたっ!!」

 

 魔理沙が即座に土下座して謝辞を述べる。他の皆も魔理沙につられる格好で額を地面に擦り付け、思い思いに霊夢へ謝罪の言葉を述べ始めた。その反応に霊夢は思わず、口の端を引きつらせた。

 私は一体、こいつらからどんな人間だと思われてるんだろう?――そんな疑問がふと脳裏を過る。

 

「ちょっとアンタ達、土下座とか止めて頂戴! そんなのこっちが恥ずかしいだけだから本当に止めて! 別にお金のことなら、そんなに気にしてないから!」

「気にしてないって……そりゃあどういうことだ?」

「……だって、もう過ぎたことだし。それに――どういう経緯であんな大金が転がり込んできたのかは知らないけど、所詮は泡銭みたいなものでしょう? そういうのはパーっと派手に使ってしまうに限るわ」

「――えっ? 霊夢……もしかして、お前……まさかとは思うけど、怒ってないのか? 私達、博麗神社の賽銭を勝手に使っちまったんだぜ?」

 

 地面から顔を上げ、魔理沙が恐る恐る尋ねる。

 霊夢はそんな魔理沙からそっと視線を逸らすと、照れ臭そうに頬をポリポリと掻き始めた。

 

「怒ってないわよ。まあ、普段の私だったら、メチャメチャ怒ってるでしょうけど」

 

 霊夢がそう言うと神社に集った人妖達の間に別の意味で動揺が走った。

 あの常に参拝客と賽銭に飢えていることでお馴染みの博麗霊夢が、神社の賽銭を無断で使われて怒らないとかあり得ない。あれは本当に霊夢なのか。もしかすると、あれはやはり、マミゾウ辺りが悪戯で化けた、偽物の霊夢なのではなかろうか。

 ――皆は霊夢の不可解な態度を大いに訝しんだ。

 

 その一方で霊夢の心はかつてないほど温かいもので満たされていた。

 

 この場にいるのは人間や妖怪だけではない。それこそ妖精から神様まで。実に多種多様な人妖達が――例え、結果的に大きな勘違いであったことが判明したにせよ――博麗霊夢の死を嘆き悲しんでこうして神社に集っている。そして、それはとどのつまり――それだけ博麗霊夢という少女が実に沢山の人妖達から愛されていた――という何よりの証左と言っても良かった。

 

 賽銭箱から溢れるほどの大金が一夜にして失われてしまった。霊夢がそのことをまったくと悔やんでないと言えば、それは嘘になるだろう。事実、普段の霊夢ならば、ショックのあまりに数日間は寝込んでいてもおかしくはない。

 だが今宵、霊夢は賽銭箱の大金以上に価値のあるモノを得た、お金では決して手に入らない何か大事なモノを得たのだと強く感じていた。故に賽銭箱の大金が夢に消えても、不思議と怒りや悲しみといった負の感情は湧かなかった。むしろ、既に温かい感情で満たされた、いまの霊夢の心にそんな感情が入り込む余地などある筈もなかった。

 

「なんて言うか、その……よく分からんけど、霊夢が怒ってないなら良かったよ。いやはや、霊夢の寛大な心には感謝だな。それでこそ楽園の素敵な巫女様だぜ!」

「言っておくけど、今回は特別なんだからね。次、同じことしたら、今度は問答無用でしばき倒すわよ? 特に魔理沙、アンタは手癖が悪いんだから、よく肝に命じておきなさい」

 

 霊夢はそう言って魔理沙に睨みを利かせ、続けざまにこう語った。

 

「それと――アンタ達に忠告しておくけど。今回の件に関して、私がまったく怒ってないとか思ったら、それは大間違いなんだからね。現に私はいま、アンタ達に対して、ひとつだけ――どうにも腹が立って仕方ないことがあるわ!」

「――腹が立つこと? 腹が立つことってのはなんだ? すまん……生憎と身に覚えがあり過ぎて、もうどれのことを言ってるのか、さっぱり分からん」

「はっ! そんなの決まってるでしょ! 私を除け者にして、アンタ達だけで宴会を楽しんでたことよ! ちょっと魔理沙、私の分の料理とお酒、当然、まだ残ってるんでしょうねえ!? まさか、私を除け者にしたまま宴会を終わろうだなんて、そんな横暴が許されると思ってるんじゃないでしょうねえ!?」

 

 眉尻を吊り上げて、怒涛の勢いで霊夢が捲し立てる。

 すると魔理沙は暫しの間、何を言われてるのか分からぬ様子で口をポカンと開けて呆けていたが、やがて――口角をニヤリと吊り上げると急ぎ皆の方を振り返った。

 

「おい咲夜! まだ料理の材料は残ってるか? まさか……全部使っちまったとか言わないよな?」

「貴女、誰に向かって口を利いているのか分かっているのかしら? 日頃、我儘放題なお嬢様にお仕えし、お嬢様のどんな無茶な要求にもきちんと応えてきた、この私がいまさら――そんな不備をやらかすとでも思って? ありとあらゆる場面を想定して、常に備えや余力は残しておく――それが瀟洒なメイドの在り方というものですわ」

「ね、ねえ咲夜。その我儘放題なお嬢様って言うのは誰のことかしら?」

「まあ、種明かしをすれば――頃合いを見て、みんなにお夜食を振る舞おうと思ってたから、その為の材料がまだ残っているのよ。だから、こっちの方は心配いらないわ」

「咲夜、私の質問に答えて。さっきの我儘放題なお嬢様って誰のこと? もしかして――フラン? それってフランのことなんでしょう? ねえ、そうだと言って!」

 

 レミリアが咲夜に掴み掛かって、懇願するようにそう尋ねるが、当の咲夜はニコニコとした笑みを浮かべたまま、生暖かい眼差しでレミリアを見つめるばかりである。

 

「よし! 取り敢えず、料理の方は確保出来そうだな。次は肝心の酒だけど……」

「その点に関しては安心しなよ、魔理沙。今夜の為にと思って、私が持ってきた酒がまだまだ沢山ある。しかも、どいつもこいつも上玉の一級品さ」

「鬼のお墨付きってわけか。萃香がそう言うなら、確かにそれは良い酒に違いないな!」

 

 魔理沙の声音が少しずつ明るいものへと調子づく。

 そして、それと比例する格好で境内も少しずつ活気が戻りつつあった。

 

「よーしみんな! ここはひとつ、霊夢の為に宴会の仕切り直しといこうじゃないか! そして……今度こそ本当にただ楽しいだけの、この場にいる全員が笑い会える、そんな宴会にしようじゃないか!」

 

 魔理沙の号令が全ての合図だった。停滞していた時がゆるりと動き出したように、皆は嬉々として本日二度目となる宴会の準備に勤しみ出した。

 

 咲夜を筆頭にした調理班が再び神社の炊事場を占拠した。

 鬼の萃香や勇儀、華扇などの腕力に自慢がある者達は、どこにそんな隠し持っていたのか分からない、大量の酒をいそいそと宴会場に運び込み始めた。

 その他、手の空いている者達は宴会を仕切り直す為、食べ残しや空の酒瓶で散らかっていた境内を片付けたり、未だに倒れ付している小傘や早苗やチルノの介抱に向かったりした。

 

 また、境内の中央ではプリズムリバー楽団を中心にした演奏組、蛮奇や布都などの隠し芸組、アリスやこころなどの見世物組が大規模な円陣を組み、互いに檄を飛ばし合っていた。

「やっぱり、ライブにはアンコールがつきものだよね!」と、そんな台詞を合言葉にして。

 

 一方、そんな慌ただしくも賑やかな境内の、その熱気と活気で溢れる様相に霊夢は気圧されていた。だが、それから暫くすると、やれやれといった風に肩を竦めて、そっと静かに口を開いた。

 

「まったく。普段はのんびりとしてるクセして、みんな、こういう時だけは無駄に張り切るんだから。ホントこいつら、揃いも揃って、どうしようもない連中だわ。ええ。本当に――どうしようもないほど馬鹿な連中だわ」

 

 霊夢は誰に聞かれることもない小さな声でそうひとりごちると、夜空に浮かぶ丸い月を見上げて嬉しそうにその口元を綻ばせた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。