倭國の王、大和の皇   作:ナナナナナナシ

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第八話 変わった四年、変われなかった四年。

 

 光陰矢のごとし。

 激動の時代の、僅かな平和。終焉の前の、ほんのわずかな幸せの時間。

 

 

 この時代に生を受けてより、既に十八年の歳月が経過した。

 熊襲の併合より四年がたち、多くの物事が変わっていった。

 日々の鍛練によって苛め抜かれた私の体は、骨太な骨格にこれでもかと質のいい筋肉を積み込んだ、立派な男の体になっていた。一部どこかの伯母は女装が似合わなくなったと文句を垂れていたが、気にすることではない。最近ではじじいに打ち負かされることも少なくなり、訓練は技の練度を日々高めていくだけとなって久しい。

 一方頭の方は肉体よりも数年早くじじいを追い越し、意識しなくては最早思い出すこともできない未来の記憶を捻りだして有効活用するための方法を考えたりしている。

 私自身の肉体や精神などの内面に留まらず、私の外側、人々との関係性も大きく変わった。

 

 そのなかでもなによりもまず、私の人生においてもっとも関係性が変わった出来事、つまり、結婚があった。

 

 

 

 

 熊襲併合の功は、天皇(スメラミコト)にこそ認められなかったものの、万民すべからくに讃えられた。

 数えでわずか十五の若者が、積年の悩みの種を取り除き、この国にさらなる繁栄をもたらしたのだ。人々はこぞって偉大なる英雄を称え、熊襲からもたらされる交易品を買い求めた。

 街の方々では稀代の英雄を讃える唄が流行り、今を生きている偉大な英雄の名を知らないものなど大和の民には誰もいなかった。

 天皇(スメラミコト)と英雄が不仲であることなど知りもしない民たちは、英雄のもとでの、未来の大和のますますの発展を夢想した。

 

 そうした民たちの期待は、自然、宮中にも波及した。

 天皇(スメラミコト)がヤマトタケルを疎んでいることは宮中においては広く知られたことだったので、多くの臣たちは天皇のもとではなく、ヤマトタケルのもとを訪れた。

 天皇に功を認められぬヤマトタケルを慰め、熊襲を併合したヤマトタケルを称え、それを認めぬ天皇を貶め、そして次代の王となるのはあなただと囁いた。臣によっては王と兄を弑して王位につけ、とまで言う者もいた。

 ヤマトタケルはそれらをすべて退け、これ以上の宮中での立場の上昇を抑えようとした。

 しかしながら、ヤマトタケルに近づく者のうち、全員が全員こうした考えをもっていたわけでは当然ない。

 若くして熊襲を併合したヤマトタケルに感服し、ただヤマトタケルに付き従いたいという者も多くいた。

 ヤマトタケルとしてもこれは困った。なにせこいつらは心の底から自分に従おうという者たちだ。自身に好意を持つ者たちを理由なく遠ざけられるほど、ヤマトタケルは非情にはなれなかった。

 よって、彼らを抱えることとなったヤマトタケルの宮中の立場は、否応なく上がっていった。

 いまでこそ宮中の大勢は天皇の長子、大碓尊(オオウスのミコト)が王位を継ぐ、と考えられているものの、いずれヤマトタケルに王位をと考える者たちが広がっていくだろう、と思われた。

 そしてその広まりには熊襲併合の功を認めぬ天皇への不信感も相まり、宮中の動乱は静かにその種を芽吹かせようとしていた。

 

 これに歯止めをかけるため、ヤマトタケルはタツの父親へ協力を頼んだ。

 都の東に肥沃で広大な領地を持ち、天皇の重臣でもある彼がヤマトタケルと密約を交わし、長子大碓尊の立場を確かなものにすると、大きな立場を持つ臣が旗色を明確にしたことでだんだんと宮中の動乱は沈静化していった。

 

 だが、その時ヤマトタケルにはその重臣のそうした動きに見合うだけの代価も関係性も確約も無かったのである。

 それを満たす条件こそ、ヤマトタケルとその重臣の娘、橘姫の結婚であった。

 

 当人同士が深く想い合っていたのもあり、これらの動きは非常に素早く行われた。

 熊襲の併合より二月と経たない内に婚約が発表され、諸々の調整に半年ほどかけると、ヤマトタケルと橘姫は結婚の契りを交わした。

 天皇に疎まれていたことからヤマトタケルにはしっかりとした婚約者がいなかったものの、昔から両人が実質的な婚約者として扱われていたこともあって、二人の婚約から結婚まで半年という短い時間しかかからなかったのである。

 むしろ半年もかかった、といった方がいいのかもしれない。そこにはその重臣の家の氏神が関わっていたりするのだが、ここでは割愛する。

 

 

 

 

 いくらかの取り引きがあったとはいえ、私は正式にタツに結婚を申し込んだ。タツは宮中の静かな動乱の概要すら知らなかったため、私の結婚申込みはとてつもなく唐突なものに写ったようだった。

 しばらく音もなく口を開閉させ、うつむいてしばらく体を震わせていたが、やがて、

 

「うんっ!」

 

 真っ赤に泣き腫らした顔を上げ、そう、言ってくれた。タツがうつむいて震えている間、私はガラにもなく大いに不安を抱え、顔を真っ青にしていたものだから、青い顔をした男と赤い顔をした女の様は端から見ていた人がいたのならさぞかし可笑しかったことだろう。

 

 ともかく、私たち二人は夫婦となり、大きく関係性を変化させた。

 

 結婚の報告に方々を訪れたが、なかでも一番おおはしゃぎしていたのが、やはりというか伊勢の姉上だった。

 鎮守の森に住む神獣たちはもちろん、港街の人々まで巻き込んで宴を開いた。

 宴は三日三晩に渡り、お開きになった次の朝、立ち上がっていたのは酒を多く飲めない子供たちだけだったというのだから仕様が無い。

 老い若い男女に関わらず全員が口から酒の臭いを漂わせ、飲み食いのしすぎで食べるものがないからと千鳥足で船をこぎだした男たちは無事だっただろうか。

 

 そんな盛大な宴はともかく、あちらこちらで心から祝われた私たち二人の結婚はきっと、大和で一番幸せな結婚だった。

 

 そして、宮中でのごたごたもあり宮に住み続けるのが難しくなっていたため、よい機会だと新しく家を建てることにした。宮から離れるとはいえ、離れすぎるのもまた難しいのが政のややこしいところ。よって、都の外れに家を新築することにした。

 私の立場如何によっては私の家が狙われる可能性もあるので、タツの安全のためにも、どうしても神秘の馴染みやすい檜が欲しかった。そうなれば一番よいものを使いたいというのが(さが)というもの。姉上に無理言って伊勢の森から檜を拝借させていただき、それを使って家を建てた。タツには結婚と同時に新しい家を御披露目したかったので、当然屋敷の建設は結婚よりもいくらか前になる。姉上に結婚祝いの準備の時間を与えてしまったのがあの惨事に繋がったと言えなくもない。

 婚約の後の半年間というあまりにも短い間で秘密裏に屋敷を建てるのは非常に大変だった。

 都でも評判だという建築師と熊襲の鳶職を招き、そこにじじいと私を加えて建設計画を立てた。

 設計段階で建物そのものを防護と安全、病除けの陣として使うことを盛り込んだ。そのための陣の馴染みやすい、大和で一番の霊地で大和で一番の神気を受けて育った伊勢の鎮守の森の檜だ。

 三重の陣を敷き、さらに居住性を損ねることなく設計するのは至難の技であった。三重の陣を引くというそれだけでもひどく大変であるから、結局設計に二月も使い、実際の工事には三ヶ月もかけられなかった。

 秘密基地をタツと二人で頭を捻りながら作り上げた経験がなかったら、助っ人がいたとしてもこのような建設計画はとても立てられなかっただろう。

 設計が押した影響で実際の建設は毎日祭りでも開いてるかのような大騒ぎで、本当に目の回るような忙しさだった。最終的には雇った人足の他に、集まってくれた村人やら精霊やら祖霊やら付喪神やら総出で屋敷の組み立てにとりかかった。

 二徹三徹を乗り越え、工事が終わった時はみんな正気を失ったように躍り狂った。そしてみんなして気絶するように眠り、目が覚めたとき日は天辺をとうに過ぎていたという有り様であった。

 だがそんな苦労のおかげで、千年先でも建っていようという立派な屋敷を建てることができた。

 悪意持つ人間は絶対に入れず、あらゆる事故や災害を退け、どんな病魔もはね除ける、宮にだって劣るところは規模くらいのものだ、と自信をもって豪語できるほど。

 神前での結婚式の後に行われた竣工式は建設に関わったすべての人やら神様やらを集め、盛大に行った。いつかのように皆飲み過ぎたような気もしたが、これが宴の醍醐味だ、といえばそうかもしれない。

 

 そして、そんな素晴らしい屋敷に、素晴らしい人と二人で暮らす家はとてつもなく楽しく、騒がしく、幸せで、毎日が空に架かる虹よりも鮮やかに彩られていた。

 

 

 四年間にあったのはなにも結婚関連の事ばかりではない。

 四年間欠かさず通ったのが、かねてよりの約束の通り、稽古のため訪れた姉上のもとだった。本格的に手伝い始めた政務の合間合間を縫っては、伊勢を訪れた。

 伊勢への道は整備計画が進められているようだが、まだ影も形も無いし、それ以前に私の場合は山々を突っ切った方がうんと速い。タツもいない一人旅ならば気がねすることなく全力で走れる。最近では朝に出て日のあるうちに伊勢につけるほどになっている。一晩あるいは二晩ほど稽古をつけてもらうと、また都へと走る。そんな生活を四年間続けてきた。

 その道程は当然足腰のよい鍛練としたし、姉上のもとで多くの知恵や技術を教わった。姉上と共に在る神様が口や手を出せるようになったおかげで、人には無い、神の御技を授けて頂いた。この神の御技を伝えることがしがらみ云々で難しかったようで、それらをどうにかする以前の神様は、その振舞い一片からそれが漏れることを恐れたために私の前に長く立てなかったのだそう。

 なにせ天照大御神である。少しの動きに大きな神力が詰まっている。どれだけ拙くともそれらを神々の同意なく真似されるのは困る、という神々の意向がしがらみとなっていたらしい。

 何をどうしてそのしがらみを断ち切ったのかは聞いていないが、聞きたくないような気もする。

 ともあれ、大手を振って技術を知恵を伝えられるとなったので、いろいろと学ばせていただいた。姉上も神様もその教えは結構な難易度で、もしじじいにしごかれてこなかったらすがり付くこともできなかっただろうという速さ難しさだった。

 四年間の稽古はしっかりと実を結び、多くの知と技を手にすることができた。

 熊襲のときのような、あれもこれも貰い物、といった具合ではなく、きちんと型にのっとり修練を修めた力だ。

 姉上が神様と共に人が振るうに最適化された神様式の体の扱い方、古くからある神様の見聞きした多くの知恵、そして熊襲の時には摩訶不思議で理解できなかった陣の技術。特に最後のものについて教えてもらったときは驚いた。理解できないのもそのはず、あれは神様の文字を使って記された陣だったのだ。

 神々の使う、(まこと)を現す文字。神の血なくしては認識することもできない神の文字。姉上が私の礼装を縫ったとき、天照大御神の血を引く私だからこそ、あれを陣とまでは認識できたのだそうだ。

 そして、神様の文字にも数多種類があるそうなのだが、その中でも最も古く、最も力ある文字を教えていただいた。

 一回伊勢に通う度に一文字以上は覚えられないほど、その文字の取り扱いには注意と精神を要した。

 だが修練を重ねたおかげで、滝のように汗をかきながら一文字を記したのも今は昔。二年ほどかかったが、いまでは大分素早く記すことが出来るようになった。

 ちなみに、神様の文字に名前はないらしい。名前を付ける側なのだから当然のことなのだろうか。なんでも、私たち人間がそれをそれと認識するために共有している知識というかものに名を与えるのがこの文字の役割らしい。であるから、(まこと)を現す文字と呼ばれるのだ、とかなんとか。私にもはっきりと理解できた訳ではないが、とてつもない文字なのだなあ、とは理解できた。

 

 

 父上に見咎められぬよう、地方の細やかな政務を行い、合間を縫って姉上のもとへ通い、家へ帰りタツと共に過ごす。そんな毎日も気付けば四年間も積み重なってきた。

 

 そんな大きな変化のあった四年間の中でも、兄上や父上との関係は相変わらずだった。

 兄上があの日、父上に命を下される前、伝えたかったのは、おそらくは私の熊襲行きだったのだろうと思い、礼を述べに行ったのだが、兄上は結局言い出せなかったことを気にしてか、熊襲併合以前よりもまして、顔を合わせてもらえなくなった。

 父上は言わずもがな、だ。顔を見ることができたこともない。

 四年間の私の進歩の無さに呆れるばかりだ。

 図体ばかり大きくなっても、肉親一人とすら分かりあえない。二人ともと分かりあえる日は来るのだろうか。いや、手繰り寄せるのだ、その日を。

 待っていても兄上も父上も来てはくれない。私が近づくのだ。逃げられても、追い付けるほどに。

 

 

 決意を新たにした、十八度目の夏。

 

 しかし、「その日」は手繰り寄せることもできず、波間に揺れる泡沫の如く消え失せた。

 

 

 




熊襲併合の時、ヤマトタケルは14歳。数えで15歳。
四年たって18歳です。

祝日のおかげでだいぶ書き進めることができました。

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