うねる海の奏でる鳴き声は、いまにもこちらに襲いかからんとする獣の口。空を覆う雲は、すべてを呑み込まんとする沼の底。目に写るありとあらゆるものがこれより訪れる凶事を暗示しているかのようだった。
姉上のところで結局三日厄介になったのちに熊襲にほど近い豪族たちに協力を要請しながら熊襲への道を行くこと九日と少し。
後の世で関門海峡と呼ばれる地にて、私は立っていた。
姉上に頂いた礼装とでも言うべきこの服は、神の血でも引いていなければ七穴から血を噴出して死ぬという代わりに人の身に最下級の戦神に迫るほどの動きを可能とする。だからこそ使いこなすために三日という時間が必要で、姉上に実戦という形でしごかれながら少しずつ礼装が強要してくる動きに体を慣熟させた。
相も変わらず姉上と共にある神様はその姿を見せてはくれなかったが、旅立ちの日、背後に感じたあの神気は気のせいではなかっただろう。
そして、ここが境界線。ここより先は、大和での理は通じない。私が名乗ったヤマトオグナの名の通り、ここより先において私は、王子ではなくただの大和よりきた男である。まあ、もとより王子などという肩書きにそれほど魅力を感じていなかったところだ。いらぬ皮を脱いだ気分で行くとしよう。
しかし、ここからも見える対岸の景色は、この先に人が本当に住んでいるのか疑わしくなってくるほどの荒れようだ。ギラギラとした瞳を隠そうともしない妖に獣ども。ひどくねじ曲がりながら成長した木々。すべての生命が、自分以外のすべての命を付け狙っている。熊襲の地に踏み入れたが最後、一瞬たりとも気を抜ける時はこないだろう。いまのうちに氣を整え、万全の状態で海を渡らねばならない。
波が穏やかになった時を見計らい、舟を漕ぎ出す。
誰の見送りもない、淋しい船出だった。
ここらの豪族たちのもとを後々のため訪れたとはいえ、彼らは彼らで日々を生き残るのに必死だ。見送りなどしている暇があったら見回りの数を増やさねば、気付けば熊襲に襲われ村が全壊、などということになりかねない。各地を訪れたときに、そうした彼らの危機感をひしひしと感じた。
舟は進む。この海ですら、いまにも私を呑もうとしている。最早一瞬の油断が許されない。そうした緊張が功を奏したのか、気を張りつめたまま、岸にたどり着くことができた。
ここが、熊襲の地。遠景は大和のものと大して変わりないように見えるかもしれない。しかし、そこに生きるものどもの異形さと醜悪さは目を覆いたくなる。これらを醜悪と感じるのは、大和にてぬくぬくと生きてきた私だからこそなのかは分からない。いまも岸に上がろうとする私を喰らおうと、醜悪な獣たちが襲いかかってきた。それらを一刀のもと斬り捨てながら、舟を引き揚げ舫う。
上陸してみて分かった。この土地には全体に生きとし生けるもののあり方を凶暴に、相争うようになるような闘争心を煽るような氣が満ちている。それを発生させている原因までは分からないが、ともかくそれがこの地に生きるものどもの醜悪さを生んでいるのだろう。
私はといえば、タツのおかげでもらうことのできたタツのところの神様の加護の力により、その瘴気に身をさらさずに済んでいる。また、その加護は瘴気に反応して幾分か私の力も底上げしているようで、力加減を謝ったために斬り捨てた獣は内臓をぶちまけてしまい、おかげで食えない肉となってしまった。
ここに生きるものどもは喰らい喰らわれ互いを害することしか知らないかのようだ。こんなところに人が住んでいるのだろうか。信じられない思いを抱きつつも、まずは食糧の調達から始めねば。
簡易ながらも熊襲にて活動するための拠点のようなものを上陸した地点より少しばかり離れ、見つかりにくい地点に作成する。この手の作業はタツと作り上げた秘密基地のおかげで手馴れている。
ああ、タツは元気にしているだろうか。不意に思い出してしまったタツの顔に、郷愁の念を感じながら本日の獲物を調理する。火によって立つ煙をあらかじめ風下に敷いておいた陣で吸い取りつつ、得体のしれない獣から得た肉が焼けるのを待った。
ちなみに謎の肉は大層うまかった。
事前に得た情報をもとに、
「──あそこか。」
息をひそめながら集落を観察する。まず目につくのは大和と違いほとんど稲作のための田が無く、畑もごくわずか。代わりに多くの獣を狩って暮らしているようだ。小さいながらも獣を囲う柵のようなものも見える。大和にはいまだ伝わっていない獣を育てる技術を持っているらしい。
老人はもちろん女子供まで、この集落で生活しているすべての人間たちがいつでも武器を取り戦える闘士の顔をしていることも特徴的だ。
これは、一筋縄ではいかぬな。
また、男達のありあまる生命力を示すかのような筋肉は、大和の一兵卒を二対一でも余裕で殴り殺せるだろう。
最初から想定していなかったが、やはり正面からの殴り合いでは私一人ではとても勝てる気がしない。
その後、集落の情報をさらに七日かけて収集し、潜入に最適な瞬間とそのための仕草や動作を体に覚え込ませる。熊襲たちに完全に馴染めるという確信を抱くに至り、近く宴が開かれることを掴んだ。遠方の集落よりも人々が訪れるというので、またとない潜入の好機だろう。その宴を潜入実行日に定め、覚悟を固めた。
「あーっはっはっ、ええ、おい!飲んでるか、わけえの!足りねえぞ、おい!はっはっはっ!」
その日は、ここいらでも一番の大きさを誇る建物の竣工を祝った宴だった。荒くれものばかりの熊襲を束ねる頭領の住むことになる家というのもあって、普段は来られないような遠くの集落からも長が足を運んでいた。その参加者の多さに比例するかのように、今日の頭領の機嫌は大層良かった。
「最近のわけえのは根性ってもんが足りねえなあ、おい。そんなんじゃあそこらの獣にぶち殺されても知らねえぞ、ええ?いいか、強いやつだけが生き残るんだ。がっはっはっはっ!」
この日のため狩った大きな熊を大口開けながら食らう頭領は、盃が空になっているのに気付き大声を上げる。
「おぉおい!酒がもうねえぞ!酒持ってこい酒!酒がねえ宴なんぞ、おれぁ何楽しみゃいいってんだ!」
その、木に止まる鳥をも落としそうな大きな声に、しかしそんなことには慣れっこな彼らは肩を揺らせることもせずに笑い声をあげる。
「そりゃあ頭、さっきとまったくおんなじこと言ってますぜ!それでさっき弟さんが取りに行ったばっかりじゃねぇですか!」
「そうだったっけなあ?おおーい、弟よ!はやく持ってこーい!」
今度の大声は今度こそ肝の座った彼らの肩を震わせて、いっそう宴はその騒がしさを深めていった。
「どうも、頭領さま。はじめまして。東から来た流れ者ですが、本日の宴、非常に楽しませていただいております。」
少し短めの髪を後ろで結わえたその女は、子供から大人への過渡期の、儚い美しさをこれでもかと詰め込んで形を成したかのような美しい女だった。
「おお、遠くからはるばるご苦労!しっかし美しいおなごだなあ!ええ、おい!こっちきて酒、は無いんだった。しゃーねえ、ちょいとうちのとっておきでも持ってくっかなあ。」
上から下までその女を眺めた頭領は、女に労いと賛辞の言葉を送ると、立ち上がる。
「べっぴんさんよ、あんたもちょいと着いてこいや。」
頭領のその一言に周りの子分たちはこぞって冷やかしを投げ掛けた。
「頭ぁ!そんな言い訳しないでもいいっすよ!」
「変なところで恥ずかしがり屋なんだからなあ、はははは!」
「いいなあ、あんなキレーな子俺も抱きたかったっ!」
「うるっせぇぞ!おめえら!あと恥ずかしがり屋だとかいったコズヒコ!てめえ後で最近棲みついた南のデカいの狩ってこいよ!」
酔いがさせたのか、羞恥がさせたのか、顔を赤くさせながら頭領が吐いた言葉に顔を赤くさせながら青くして、コズヒコはうなだれた。
「そりゃねぇってもんだよ、頭ぁ。」
「はっはっはっ!がんばれよお!コズヒコ!」
周りの男達はそんな仲間の失態に、手を打ち合わせて笑い転げていた。
喧騒が遠ざかる。後ろ手に戸が閉められた。
「でえ?何しに来やがった。」
冷たい光を放つ双眸は、先ほど笑い声をあげていた男と同一の者か疑いを抱く。
「これでもこの変装にいくらかの自身を持っていたのだがな。」
「だてに頭領やってんじゃねぇんだ。そんぐらい勘で分かる。」
「勘、ね・・・。」
でたらめもあったものだ。そんなもので七日の修練が見破られるとは。
「しかし、みすみす自分から二人きりになるとは、死にたいのか?」
「いやあ、べっぴんさんが目の前にいるんだ。連れ込まねえ方が失礼ってもんさ。男が廃る。」
火も灯していない暗がりでは男の表情も分からないが、きっとあの、この男についていきたい、と思わせるにやりとした笑みを浮かべているのだろう。しかし、殺しにきたことを理解した上で話を聞きに来るとは、なかなか毛の生えた心臓を持っているようだ。その豪胆さ、敵ながらに感心する。
「名を名乗るつもりはなかったが、その男気を讃え名乗ろう。私は、ヤマトオグナというものだ。」
「ふんふん、ヤマトオグナね・・・。オグナ?男?男ぉ!?」
些か大袈裟に驚くと、クマソタケルが立てた音が暗がりに響いた。失礼なやつもいたものだ。やつの男気に関心したと言ったが、撤回するべきかもしれない。本当に組み伏せる気で連れ込んだのではあるまいな。
「そりゃあ詐欺じゃねえのか・・・。まあ、いい。本題に入ろうか。大和のべっぴんさん改めオグナくんは、こんなところまで何しに来た。」
先ほどまでの雰囲気を感じさせない低い調子でクマソタケルは問いかけてきた。答えは当然、決まっている。
「私は、熊襲を平定しに来た。私は、お前を、殺しに来た。」
私の宣言ののち、しばらく黙っていた男だったが、やがて堪えきれないように吹き出した。
「くっ、はっはっはっ、はははははーっ!」
静寂。
「・・・・あーあ。舐めてんのか、おめえは。俺たちを、俺を、熊襲を舐めてんだな、おめえよ。」
狭くもない部屋に満ちる男の覇気。ここで引いたら男が廃る。
「ああ、お前を殺しに来た。母のため、愛する者のため、私の欲のため殺されろ、熊襲の頭。」
男の覇気を、私の覇気で塗り潰す。そうして放った覇気はしかし、奴のものと拮抗し火花を散らせるに留まった。
その様子にクマソタケルは、目が見えずとも分かる喜色をにじませた。
「見た目通りじゃねえってことは認めてやるよ。だがよ、そいつは強くなくっちゃあ通らねえ欲だ。いつだって強いやつは我を通すし、弱いやつはなんにもできねえ。俺は誰より強かったからこうして熊襲の頭になった。てめえがてめえの欲を通したいってんならやってみな。俺より強かったらの話だがなあ!」
大振りの右手が空を切り、大気を震わせる。
暗闇での戦闘は、獣じみた体格と、同じく獣じみた直感をもつ奴相手には不利。
初手の右こぶしを後ろに跳んで躱すと、話しながら敷いておいた陣を起動させ、陣の端から火を噴かせる。瞬く間に燃え移った火は、辺りを煌々と照らし出した。奴の体躯もはっきりと視認できる。もういくらもしないうちに火は燃え広がり、やがて何人も出入りできなくなるだろう。時間制限付きの、邪魔者の介在しない勝負の場は整った。
「おもしれえ小細工するじゃねえか。外に逃げようとしたらそのままひっつかんでぶっ潰そうとおもってたのによ。」
目を慣らせる暇は与えない。壁を蹴りながら背に隠した剣を抜き、奴のうなじに斬りかかる。
「こっちこそお前に隙があればいつでも喉笛搔き斬ってやるところだったのにな。やはり私には暗殺などという猪口才なものは似合わない。正面堂々たたき斬るのが性に合っている。」
剣は何の仕込みもない、ただの腕で受け止められ、弾き返される。皮の下に何か仕込んでいると思いたいぐらいだが、濃密に練り上げられた氣がさせているのだろう。腕で受け止められるという思いもよらない対応をされたことで私が見せた数瞬にも満たないわずかな動揺に付け込まれる。鞭のようにしなる脚が、肋骨めがけて飛んできた。
「いいねいいね!面と向かってぶっとばすのが大好きな俺好みの言葉だ!やっぱりぶっ飛ばしたら抱くことにした!」
背筋に鳥肌が走りながらも、鞭じみた蹴りを剣の腹で受け止め弾き返す。見てしまった瞳はあきらか正気で、本気だということが嫌でもわかってしまった。
────火がまわる。炎は天井にまで燃え移り、倒壊までいくらもないだろう。
「これは、ますます負けられないな。」
とはいえ、先ほどからこちらの手が通じている様子はない。圧倒的に膂力が違うのだ。平時から常に周りの獣たちから命を狙われ続ける環境で育ったここ熊襲の民は、力がなければ生き残れない。それは、陣のようなものの発達ではなく、氣を高め自身の体を強化する方向へと進化していった。その進化の果て、研鑽の集大成のような男が、こいつだ。
火に炙られようとも、刃を受けようとも、何物をも通しはせず、ただただ硬く攻撃を受け止め続け、そして攻撃し続け疲弊し隙を晒した相手に、一撃必殺、渾身の一撃を見舞う。
その必殺の一撃とまではいかずとも、先ほどから振るわれる何気ない一撃一撃に、圧倒的な膂力が載せられている。まともに受けては一撃で吹き飛ぶだろう。ならば。
「おいおい、勝負を捨てる気でもねえだろう。どういうこった?」
剣は捨てる。いや、使っても長い棒としてしか使えないのなら、棒術を会得していない私からすればただの足手まといでしかない。ならば、心得があり、かつ奴に唯一通じるであろう体術で、奴と同じ土俵で戦うしかない。
それに、姉上から受け取ったこの礼装は体術にその真価を最も発揮するのだから。
拳をかまえ、腰を低く落とす。
「仕切り直しといこう、名も知らぬ熊襲の男よ。」
「おうおう、いくぜ、大和の男よぉ!」
もとより、名や肩書きを持ってこの地を踏んだ訳ではない。ただの大和からきた男なのだ、私は。相手も名を名乗っていない。
ならばこれは、ただの名もなき男と男の、互いの欲を満たさんがための意地の張り合いというわけだ。
「はぁっ!」
「おらぁっ!」
二人の男のこぶしが交差する。避けることなどそもそも眼中にない。ただ、ただ、相手をぶちのめすことだけを考える。
────火がまわる。無事に逃げ出せるような勢いでは最早ない。いますぐに逃げ出せば、あるいは命は保てるだろう。
が、お互いそれを許すつもりはない。相手が背を向けた瞬間、その背中を血祭りにあげるだろう。
目の前の男をぶちのめす。それだけが、生きて帰る唯一無二の方法だ。
そのためにも、回避などしている暇はない。一刻でも早く、一打でも多く叩き込み、相手を倒す。それに、避けるだけの隙間も最早火がまわり多くはない。
「おらおらおら!はやくしねぇと焼け死んじまうぞ!」
「それはこちらの台詞だ、体力馬鹿め!一体何打浴びせたと思っている!」
「効かないねえ!俺の方がつええからな!」
打ち込んだ回数は明らかにこちらの方が多い。しかし、奴からもらった拳は数発とはいえ、最早私の体は、本来ならろくに動かすことも叶わないだろう。それを姉上にもらった礼装で無理矢理に動かして、なんとかいまも戦い続けられている。
「どうした!もっと楽しもうぜ!軽いんだよ!そんなんがさっきの啖呵きった男の拳か!ああん!?」
殴る。殴る。殴る。殴られる。意識が飛ぶ。飛んだ先で火の熱さに炙られ、意識を引っ張り戻す。殴る。殴る。
服に引きずられるまま、目の前の男をぶちのめすという衝動のまま、ひたすらに殴り続ける。
くそっ、ダメだ。このままでは、私が先に倒れる。いくら服が私の体を動かそうとも、このままではいつか隙をさらし、あの致命的な一撃を見舞われる。
死ねない。母のため、タツのため、自分のため、負けられない。
動かせ、体を。服に任せるままで勝てるほど甘い相手ではない。自分の体の主は自分以外にいないのだ。
少しの間でいい、自分で自分の体を動かせ。陣を敷くなんて悠長なことをしている暇はない。
体を壊すとわかっているが、無理矢理に氣を傷口に叩き込んだ。折れた骨に硫酸を流し込んでいるかのような激痛が全身の打撲痕を襲う。それでも、体は動くようになった。
「はっはぁ!無理すんなあ!それでこそ、それでこそだ!もっと俺を楽しませろ!」
お前を楽しませるために戦っているのではない。私は、私の意地を貫くためこの拳を握るのだ。
氣を流し込んだことによる痛みで、わずかに私の殴打が止む。その隙は、奴の待ち望んでいたもので。大きすぎる氣が奴の右こぶしに集まっている。
思い出す。伊勢の三日で垣間見た、姉上の動きを。この礼装はいわば姉上の写し鏡。姉上の動きを完璧に私の体に落とし込む。
重なる。姉上と、私の動きが。私と姉上、二人分の力を拳に乗せて、目の前の男に叩き込む。
「これでっ・・・・落ちろォッ!!!」
二人の拳が交差する。
どこか遠くで、火に巻かれた家の崩れ落ちる音が響いた気がした。
ランキング4位に入らせていただき、本当にありがとうございます。
少しぶりの投稿でございます。
今後の投稿も奮起した次第です。
今週末投稿といいつつ、早めに仕上げることができたので投稿させていただきます。
余談ですが、始めは主人公が熊襲の頭領を暗殺する話を書きかけていたのですが、全然面白くなかったので全面的に書き直しました。
次回更新は今度こそ今週末を予定しています。