「なにを考えておられるのだ、
じじいのこぶしが板張りの床と鈍い音を立てる。
緊張しながらも、どこか頭の中でそんなことだろうと考えていた。父上は私が消え去ってしまうことを願っているのだ。おそらくは私がいくらか成長したことで私の噂でも耳に入ってしまったのではないだろうか。それを認めるわけにはいかぬから殺すことにした、といったところか。
名を、最後まで呼ばれなかったのは、分かってはいた、分かってはいたが、少し、悲しかった。
いやしかし、そこまで父上に嫌われていたとは思いもよらなんだ。年月の積み重ねとは斯くも恐ろしいものか。供一人つけることすら許さんとは。それで熊襲をまるごと平定してこいというのだから無理を言う。
熊襲とは、ここ大和より西に行った先にある地の名であり、そこに住む人々の名でもある。たびたびこちらへ侵入してきては地を荒らしていく蛮族だ、と教えられたが実際のところは分からない。この目で見ないことには彼らがどうして大和の地を脅かすのかは分からない。
しかしながら、いまのところ彼らが侵入してくる理由などに頭を割いている余裕は今の私にはなかった。
「じじい、ここで論じている暇はあるまい。それよりもいかにして父上の御命令を果たすかをまずは考えねば。」
「そう、でしたな・・・。では、まずは熊襲がいかなるものか知らなくてはなりますまい。いくら剛力を誇る皇子であっても、目も耳も聞こえぬとあっては容易く討ち果たされます。頭領は、有力士族は、歴史は、地理は、熊襲について知られているあらゆる情報を覚えるのです。しかるのちに戦略などについて練り、わずかでも皇子の生きて帰る可能性を上げねばなりませぬ。一度熊襲について軽くさらったとは言え、詳しくは教えておりませなんだ。時間もありませぬ。いつもより厳しくお教え差し上げるが、如何か。」
じじいはこれまでに見たことのない爛々とした灯をその目に灯していた。
「いままでの五倍でも十倍でも構わぬ。むしろじじいは私を侮っているきらいがあったからな、これを機に限界を見定めてみるというのも悪くない。まあ、じじいごときにこの私の限界など推し量れぬだろうがな。」
「それでは。」
その日の晩、私の部屋から火が消えることはなかった。
タツは本当にころころとよく表情を変える女だが、こんな表情のタツは見たことがなかった。
「ヲウス・・・。」
「なんだ、タツ。」
そんなタツを見ていられなくて、怒ってもいないのについ返事がぶっきらぼうなものになってしまう。
タツと私はしばらく黙っていた。
いつもの秘密基地には、普段とは違う雰囲気にあてられたのか、賑やかしの精霊も今日は来ていない。
しばらく口をつぐんていたタツだったが、やがておもむろに立ち上がり、ちょっと待ってて、とだけ告げると境内の方へと駆けていった。
まさか神様になにか頼みにいったのではあるまいな。あそこの神様は確かにタツを気に入っている。が、どこまでいこうとも神は神である。人の都合で振り回されることをよしとする神などいない。供え物に対する対価としてなにかをもたらすのではなく、供え物で気がよくなったからなにかをもたらすのだ。社の子であるタツがそこを勘違いしているとは思えないが。
タツのことだ、何をしでかすか。余計なことを言わないでいてくれ、と願わずにはいられなかった。
『いま、何と言った。我が子よ。』
神の社のなかはいまや、暴れ狂う神威に満ちていた。凡百の神とは隔絶した神威に、半径一里の動ける生命のことごとくは逃げ去っていた。
そんな神威の中心ほど近くにいる少女は、純白の穢れなき服を滝のような汗で滴らせながら伏していた。
「お願いします。お願いします、神さま。」
『いま、何と言ったか、と聞いている。』
「どうか、どうか、ヲウスに護りを授けてください。」
今一度繰り返されたその言に、神は声に苛立ちを顕にする。
『子よ、なぜ私が斯様なことをしなくてはならない。もう少し見処のある奴だと思っていたが。わざわざ我を敬うわけでもない、我が子でもない輩に我がそんなことをしなくてはならぬ。子よ、確かにお前のことは好ましく思っておる。だがな、それはお前であって奴ではない。』
「それでも、それでもお願いします。神さまの護りなくして旅立てば、ヲウスは必ず死んでしまいます。」
『だろうな。西とはそういう土地だ。いくら天照様の血を引く者とはいえ、何の手だてもなくあそこへ向かえば死ぬだろう。』
ただ、淡々と。神は事実を告げる。
「だから、だからお願いします。どうかヲウスに護りを授けて欲しいのです。」
『我が子よ、いまだその動機を聞いておらんな。何故、子はあの男を死から掬いたい?』
神の問いに、少女はそれまでの苦しげな表情を引き締めた。丹田に力を籠めると、大きく息を吸い、言い放つ。
「────ヲウスは、わたしの好きな人です。好きだから、死んでほしくないんです。だからヲウスに護りを授けて欲しいのです。」
その言葉を聞いた神は、しばらく声をあげなかった。
『・・・なるほど。なるほど、なるほど。そうか、想い人か。ならば否もあるまい。いいだろう。その男に加護をくれてやる。』
その言葉に少女は喜びの声をあげようとする。が。
『ただしな、子よ。お前のこれから先すべての未来と、死後をもらう。』
少女の時が止まる。
「それ、は。」
少女は、額をわずかに床から持ち上げた体勢のまま震えていた。いつのまにか口の中はカラカラに乾いていた。
ヲウスを助けたい。死なせたくない。
それでも。それでも。
「それでも、それはできま、せん。」
絞り出すように、それでも、はっきりとした意志を示しながら言った。
「わたしは、ヲウスと共に居たいのです。ヲウスと共に生きたいのです。神さまにこの身を捧げるなんてとっても光栄です。それでも、それだけはできません。」
その瞳は、それまでのようなただただ輝かしい光を放つそれではなく、大いなる光の中に確かに芯を持ったものだった。
『・・・そうか。その男を殺すとわかったうえで子は男と共にあるというのだな。』
「いいえ、ヲウスと一緒に生きられないぐらいだったら二人で他の方法を探します。ごめんなさい、神さま。不躾な話でお耳を汚してしまい、申し訳ありませんでした。失礼します。」
少女は言い切ると立ち去ろうとする。すると、それまで満ちていた神威がするすると納められ、清涼な空気が戻ってきた。
『・・・はぁ。わかった。わかったよ。加護でもなんでもくれてやる。くれてやるから戻ってこい、子よ。』
「ほんとですかっ!あっ。」
一転、希望が見えた喜びで少女は顔を上げてしまう。
『よい、いまさらお前に見られたところでどうとも思わん。初めからお前に見るなと言いつけたつもりはなかったしな。』
「っ!じゃあ、こんどから神さまのこと見ながら話してもいいってことですか!?」
『他の者の前以外ではな。それより、早くその坊主を連れてこい。護りをくれてやる。』
「はいっ!」
今度こそ勢いよく立ち上がると、少女は派手に音を立てながら社を出ていった。
『・・・はあ、天照様によろしくされておったことだし、はじめから奴に護りを授けようとは思っておったがな。我がこんなことで稚気を出すとは。あのころから何一つ変わっておらぬ、ということか。』
興奮に頬を染めたタツが帰ってきたのは幾分か後になってからだった。ここら一帯に嵐のような神気が満ちたときはタツの下へ飛び込むべきか悩んだが、その手段を取らなくて正解だったようだ。
身を清めた後に、少しばかり老けたお婆に社に上がらせてもらう。いままで私の入ったことのない清浄な部屋に軽く緊張を覚えていると、正座をして首を垂れるよう言われた。お婆のいうことに素直に従い首を垂れると、お婆の戸を閉ざす音がやけに響いた。
静寂が清浄な部屋に満ちる。私が体を清めている間にお婆が整えてくれたこの場は、すでに神域だ。不敬は許されぬ。
しばらくの後に、タツが入ってきた。神前で踊るタツの姿をこの目で見たい。見たい、が顔を上げてはならぬ。もどかしい。
踊りが始まる。数年前に田んぼの端で披露したような略式のものではない、本物の神楽舞。舞が進むにつれ、ゆっくりと、タツの踊りに変化を感じ取った。
いま、入った。いま、目の前にいるのは神様だ。
『○○○○○、○○○○○○○○○○。』
言葉は聞き取れない。だが、この身になにかが注がれているのは分かる。それも、とても力強いものが。
『○○、○○○○○○○。』
見ること能わぬ舞は進む。
響きわたるように奏でられる神気と、僅かな衣擦れの音のみが舞の様子を語ってくれた。舞と共に注がれる力は緩急をつけながらゆっくりと我が身へと染み渡っていった。
どんなものにも終わりがあるように、やがて舞も終局にさしかかった。静かに荘厳な空気が引いていく。
これで終わりか、と内心安堵を示していると、タツが口を寄せてきた。いや、いまはまだ神様か。
『伊勢へゆけ。その先に、ぬしの求めるものがあるやもしれぬ。』
驚いた。
神様が直接私に話しかけてくることなどないと思っていた。さすがに直答することは許されておらぬだろうから、頭を一度さらに低く下げるにとどめる。
今度こそ本当に舞が終わる。神様が帰り、タツが戻ってくる。タツは厳粛な体勢を崩さぬまま、部屋を去っていった。
「気を付けて、ヲウス。必ず絶対間違いなく帰ってきて。帰ってこなかったら許さないから。もし死んだりしたら追っかけて行ってぶちのめしてやるんだから。」
「それは怖いな。大丈夫だ、タツ。私は死なんよ。」
タツと最後になるかもしれない会話を交わす。無論、最後にするつもりはない。まだまだ生きねばならぬ理由がある。いまはまだ死ねない。
「お気をつけて。皇子さま。この老いぼれめがついてゆくことさえできればどうとでもやりようはあるというのに。本当に申し訳ありませぬ。」
「おいおい、いつもの調子はどうしたじじい。貴様には皮肉を叩いているのが似合っているぞ。まあ、神託の通り一度伊勢によるつもりだから、そう心配することもあるまい。神様がついているのだ。必ず生きて帰ってくるさ。」
最近のじじいは本当に珍しい顔ばかりを見せてくる。いつものじじいを知っている身としては、なにか悪い物でも食べたのかと心配になるくらいだ。
「そうですな。それでは一つ。皇子さま、旅先で名乗るお名前は考えておいでで?」
「・・・。」
考えていなかった。ヲウスという呼び名は真の名であるという以上に、タツにだけ許しているものだ。旅先で名乗りたくなどない。普段は王子だの皇子さまだの呼ばれていたから考えたこともなかった。
「先が思いやられますな。そんな調子で必ず生きて戻るといわれ、信用できるとでも?」
「そうだーそうだー!」
タツがなにやらいっているが無視する。
しかし、名前か。ひと時目を瞑り、顎に手を当てて考える。
「王にも親にも認められていないただの男の名だ。
「なんですか、それは。」
「それはないとおもうなー。」
残念ながら不評なようだ。
「名など思いつきでいいんだ。それより、もう心配はしてくれないのか?」
茶化すとまた二人して沈み込む。しまった。
「必ず、生きてお戻りください。それだけがこの老いぼれただひとつの願いにございます。」
歳に見合わぬ覇気を見せつつ、じじいが告げてくる。
「絶対!ぜーーーーーったいに、帰ってきて!約束して!」
タツが小指を差し出しながら相変わらずのその瞳で告げる。
「ああ、指切りだ。」
タツと私の小指を絡ませる。
「嘘ついたら針千本のーますっ!指切った!」
「それはまた、聞いたこともないなんとも物騒な約束ですな。」
「ああ、確かに物騒だな。でも、こうしたらいい、って昔、なんとなく浮かんだんだ。それ以来タツとはよくやっているけど、きっとそれは間違ってない、と思う。」
「なるほど。ではこのじじいともぜひ。」
「老いぼれと指を絡ませる趣味はないんだがなあ・・・。」
そういいつつ、じじいとも指切りを済ませる。
「ではな!いってくる!」
タツとじじいに別れを告げ、道をゆく。振り返ってはならぬ。振り返れば絶対に進めなくなってしまうだろうから。肩の震えを、私の怯えを背中を見ている二人に見せぬよう必死に抑え、歩き続けた。
これ以上なく、怖い。口では威勢のいいことばかりを言っていたが、その実あれらはすべて自分自身に言いつけていたようなものだ。
それでも、行く。行って、成し遂げ、父に私のことを認めさせる。死んでしまった母のことなど所詮は私の勝手な妄想だと言ってしまえばそれまでだが、それでも、私たちを産んで死んだ母のために、私は私のことを父に認めさせたいのだ。これは、タツに関すること以外で珍しく私の抱えた私欲だ。必ず。必ず成し遂げて見せる。
幸い、タツのおかげで神様からの加護をもらえた。現状私が望みうる最高の準備を整えられた。伊勢でなにかもらえるやもしれぬ。
なんだ、意外と私の道には希望があるではないか。そう、大丈夫だ。なんとかなる。
心を埋め尽くす不安を頼りない希望で塗りつぶし、ひたすらに脚を、前へ。
ひとまず目指すは、伊勢である。
ランキングに載せていただき、非常にうれしいです。まさか二話にしてランキング入りとは思いもしておりませんでした。これも読者の皆様のおかげでございます。
これを糧に次回の更新も頑張ります。