「はぁっ!!」
「ふっ!」
修練所にて小柄な少年と髭を蓄えた男との手合わせが響き渡らせる声は決して大きくはなかったが、両者の発する覇気は修練所の周りに立つ木々でさえも震わせていた。
「しっ!」
「っ!ぐっ!」
受け身をとりつつ、少年が倒れこむ。
「今日はここまでですな。皇子の動きが鈍っておられる。最後の一合など蝶が止まりそうでしたわ」
「ぬかせ、おいぼれじじい。明日は負かす。ぜってーじじいに井戸くみさせてやる」
「楽しみにしときましょう。では疾くくんできてはもらえませんかな?おいぼれに早く汗を拭かせてもらいたい」
少年は小さな悪態を返事にしつつ、少し離れたところにある井戸へと駆けて行った。
タツのお爺が死んでより、六年の歳月がたった。相も変わらず父からは疎まれているが、そのほかの人々からの態度はだいぶ軟化したといっていい。むしろ積極的に取り入ろうとすらしようとしてくる者もいる始末だ。
私がタツに出会ったことで変わったのち、初めての教育係がついてからだんだんと宮中での私の風向きはよくなっていった。相も変わらずほとんど思い出せない、いや年を経るごとに確実に少しずつ消えていっている未来の記憶はそれでも有用さを発揮してくれたようで、教育係は私に物を教えるごとに大層驚いていた。彼はそんな私の優秀さを吹聴して回ったようで、お陰さまで私を無下に扱うものはだんだんと減っていった。彼が私についてより四年目、つまり二年前に退職を願い出て、皇子から得た知見を世に広めるのです、などと言い出すのだから人の評価なんていうものは変われば変わるものだ。そのころにはその教育係以外にも宮中の理解者も増えてきていたのもあり、無理に引き留めることもしなかった。
彼はいったいどうしているのだろうか。野垂れ死んでいないことを祈るばかりだ。
「さて、皇子。体ばかり使って頭がひまでひまでしょうがなかったことでしょう。大変申し訳ございませぬ」
「じじいこそ体を休めてはどうだ?寄る年波には勝てんとみた。見ろ、私はこんなにも息が整っているというのにじじいはいつまでも息があがりっぱなしだぞ?そろそろ田舎に引っ込んで畑の世話でもしとったらどうだ?」
「これはこれは皇子さまは御冗談がお好きなようで。これは氣を整えるための呼吸であると分かったうえでおっしゃっているのでしょう?まったく意地が悪い。ちっとも面白くありませんな」
「(このくそじじい……)」
「(考えていることが透けて見えますぞ皇子)」
そう、この無駄に年ばかり食って、愛嬌などという言葉をどこかの沼の底にでも沈めてきたかのようなこのおいぼれこそ、いまの私の教育係である。
昔の教育係が野に下る前、いまから四年ほどまえに私の体を鍛えるためについた教育係その二だった。
体を鍛えるだけのものであったはずなのに、昔の教育係が辞めてよりは書の方まで面倒を見だした。理知的に嫌味を返してくるので頭が悪いわけではなかろうと踏んでいたが、まさか王家の教育係ができるほどの頭を持っていたとは思っていなかった。
いつのまにか根回しも終え、気づけばこのじじいは私の筆頭教育係の地位に収まっていたのである。
「しかし皇子はどのような頭をしておられるのやら。神の血はたびたび唯人にはなせぬことをなし得るものですがここまでの知見、寡聞にして存じませぬ」
「なんだ?それは。皮肉にしては賞賛が過ぎるぞじじい」
「いえいえ、皮肉など私が皇子に申し上げたことなど御座いませんよ」
「相変わらずよく廻る口だ、顎の付け根に毎朝油でも差しているのではあるまいな」
互いの口撃は留まるところを知らないが、それでも手は動かし続けている。このじじいは、私が課題をさっさと終わらせることで手習いを早く切り上げタツのもとへ駆けるのを見てより、手習いの時間一杯でなんとか終わらせることのできる量や質を正確に見極め、ちょうどその分だけの多さや難しさの課題を出してくるのだ。最近では実際の政務を想定したものまで出してくる。おかげで毎回頭を捻らなくてはならない。
私とてはやくタツに会いたいので早く終わらせるよう努力し、いたちごっこを続けていたらいつしか課題の量は初期の三倍にまで達している。
「……よしっ!終わったぞ!速く確めろ!」
「そう急ぐでありませぬ。老いぼれの時間はゆっくりと流れておりますゆえ」
口ではそうはいいつつも、速くなった私よりも素早く目を通していく。
「ふむ、算術などは全て誤答なし。では残りの添削などは後程部屋に置いておきますので、今日はここまでと致しましょう」
「ではな!今日もご苦労!」
じじいに背を向け走り出す。昔はタツと二人でひーこらいいながら登っていた塀も、いまでは地を蹴るだけで飛び越えられる。思えば体も大きくなったものだ。少し前まではタツに負けていた背丈も、いまではタツのつむじを見下ろせるほどになった。月に一度の背比べの時に私がタツの身長を抜かしたことが分かったときの顔はみものだった。
いつもの待ち合わせ場所である小川のふもとに着くと、そこにはタツと、もう一人。いるはずのない人物がいた。
「────兄上……。」
「や……やぁ……ヲウス」
「あっ、ヲウスやっときた!いまオオウスさまと話してたんだよー」
私がタツと出会い世界が開き性格を一変させたことで、兄上はそれまでのじめじめとした私とは違う私に子供らしい癇癪を起したらしく、ことあるごとに私に対し嫌味を吐いたりちょっかいを出したりしてきていた。私としてはそもそもその頃はタツ以外の人間になんら価値を見いだせていなかったので、ただうっとうしい蠅と同列に扱っていた。いまとなってはそんな私の傍若無人っぷりにあきれるばかりだが。
その後いくらか私の世界が広がり、私に大きな感情をそのままぶつけてくる兄上を好ましく感じだしてしばらくすると、兄上の暴言はだんだんと鳴りを潜めだし、やがて気まずそうに私から目をそらすようになった。
そのころには“自分はこんなことをしても王子として認められている”ということを見せつけたいがためのいたずらもだんだんとその回数を少なくし、兄上はやがてごく限られた少数の者以外とは話もしなくなっていた。兄上は頑なに私と目を合わせようとはせず、あいさつ程度なら返してくれるものの、ほとんど会話らしい会話をしたことがない。
おそらく兄上は、父から存在を認められぬ私を憐れに思ったのだろう。だからその自責の念で私を頑なに避けているのではないかと思う。
「それは違うと思うよ」
「それは、なぜ?」
兄上は私を認めると、数度口を開閉させたのちに何も言わずに去ってしまった。そんな彼についての話を聞いてもらっていると、タツがそんなことを言い出した。
「ああ、えーと、うーん。まるっきり違うってわけでも、ないのかな?でも、きっとオオウスさまはヲウスを憐れんでるだけじゃないと思うんだ」
「憐れんでいるだけでなく、どう思っていると感じた?」
そう聞くとタツはうんうん唸りながらしばらく首をひねらせ続け、やがて頭のてっぺんが地面に向こうかといったころにようやく口を開き、
「たぶんだけど、オオウスさまはヲウスのことが大好きで、羨ましくて、それでちょっぴりかわいそうだなって思ってるんだと、思う」
「よく……わからないな」
「わたしにもわかんなーい!」
生憎と私もタツも兄上のことを詳しく知っているわけではない。兄上がどんな環境で育ち、どんな教育を受け、どんな言葉を投げかけられて成長してきたのか、私たちはなにも知らない。だから、私は知りたい。人を知りたいと、タツに出会って思った。人の美しさを知り、人の力強さを知り、そんな人のことを知りたいと、タツに出会って思わされたのだ。
だから兄上のことも知りたいのだ。なにを思っているのか。私をどう思っているのか。父はどんな人なのか。聞きたいことは山とある。
差し当たっては、きちんと会話をしてもらえることを目指そう。そう、決意した。
今日も今日とて村々を散歩する。
私とタツがタツのジジババの社の裏の森に建てた秘密基地は三年かけて補強と増築を繰り返し、いまでは快適な生活が営めるまでになっていた。もっとも、精霊や祖霊が気軽に遊びに来れるように自然に満ちる氣を妨げない造りとなっているので、ただの人がここで暮らすとなったら多くの苦労に見舞われるだろうが。祖霊はまだしも、精霊などというものはいたずら好きと相場が決まっている。最近ではタツの家が祀る神様も、姿こそ見せてもらえないものの、よく足を延ばしてくるのでますますただの人が遊びに来るのは難しくなっていた。
今は秘密基地に行くまでの恒例の散歩中というわけだ。
「おおーい、王子さまー。こっち見ていってくんなせぇー」
「おう!今行く!」
こちらも恒例となった村人たちとの交流である。
あちらこちらで色々な村の人々と会話を交わす。なにやら作物の実りがあまりよろしくないらしい。神様への祈祷もかかさずにしており、むしろ神様の方が実りがよろしくないことに首を捻っているとか。
それに最近は妖や獣の害までも重なり、中々に大変なようだ。冬を越せぬほどの飢饉ではないものの、一昨年のような大きな実りは期待できないらしい。豊作は盛大な祭りを意味するので、ここらで一番の呑兵衛が肩を落としていた。
ちなみに彼らにとっての妖と獣の違いとは、食えるか食えないか、らしい。妖とは毒がある獣のことだそうだ。なにか違う気がするが、まあ彼らからすればこの分類でも間違いはないのだろう。
私がここらの顔役と話終わった後、ちらりとタツの様子を見ると、それはそれは大人気だった。
大勢の人々に群がられ困惑や恐怖でもしていればかわいげもあるが、生憎タツは遠慮とか自重とかいう精神を母の腹に置いてきた女なので、いまもまったいらな胸を張り鼻を高くさせながら、村人たちから平身低頭で崇められている。
助平な男どもがそろりと顔を上げようとしていたので二度とその顔上げれぬよう土の中に埋めておいた。ひんやりとして涼しかろう。夏真っ盛りのいま、人を気遣う自身の優しさに涙が出そうだ。
私はそこで満足してしまったのだが、村の女たちは私以上に思いやりに溢れていたようで、全身すっぽり冷たい土の下に埋めて差し上げていた。まあ、妖や獣どもとクワで闘い打ち倒すような猛者達だ。死にはしまい。
「なにかあったら私を頼れ。できることは少ないが、飢え死にを避けることぐらいはいまの私にもできるだろう」
「それじゃ、その時は頼らせてもらいます。いざとなったらそこいらの根っこでも食うだろうからそんなことにはならんとは思いますがね。お心遣い、ありがたく」
顔役と最後の言葉を交わすと、あっという間に行われた埋葬劇に口を半開きにしていたタツの手をとる。
「では、また近いうちにこの村にも寄るから、それまで達者でな!」
「じゃーねー、もう人を埋めたりしちゃダメだよー」
タツの言葉に村人たちが笑い声をあげるが、元気に手を振り替えしてくれる。
毎回のことではあるが、名残惜しいのを我慢して背を向け歩き出す。前にいつまでも手を振り続けてタツがタツのところで祀っている神様に怒られたことがあったのだ。私があとから様子を聞いた限りではどう聞いても拗ねているだけのようだったが。
いつものようにタツが神様に挨拶し、いつものように裏の森で秘密基地を増設する。ちなみに今日は二尺ほどの短さだが宙に浮く橋を掛けた。いつものように塀の前でタツと別れ、いつものように自室でじじいと朝方の続きをする。
いつものようだったのはここまでだった。
女中に夕餉の支度を頼むと、廊下に見覚えのない男がやってきた。
おかしい。そもそも私の住まう離れにやってくるのは大体が見知った顔であるし、このような時間にわざわざ訪ねてくるなど。
あまり特徴のない男であった。しかし体の芯がぶれないところを見るに、鍛練を積んでいるのだろう。負ける気はしないが。その男はやけにへりくだった態度で、
「
と、言った。
「父上が……?」
いままで一度も私を呼ぶことも、目に入れることもしなかった父上が私を呼び出すとはどういうことか。そのあまりの突拍子の無さに、しばらく立ち尽くすことしかできなかった。男の後をついて行けるようになるのに数瞬の時間が必要になったほどに。
殿に着いた後、いくらか待たされたようだったのだが、私にはどれほどにも感じられなかった。
気づけば、頭を上げたその先に父上がいる。この人生、ここまでに緊張したことはなかった。手や背中に不快な汗が滴る。
沈黙が場を支配した。
ゆっくりと、もったいぶるように父上がその唇を開いた。
「そなたには、
投稿して数時間でたくさんの感想と評価をいただき、とても舞い上がりました。
本当にありがとうございます。
おかげさまで寝る間もおしんで書き上げてしまいました。
少々短めですが、キリがいいのでここで一度切らせていただきます。
今後の更新はこのようなペースにはならないと思われます。
申し訳ございません。
ですが、引き続き書き続ける所存ですので次回更新も気長にお待ちくださいますと幸いです。