お久しぶりです
『お、来たみたいだ』
熱湯の洗礼をなんとか耐え切った私たちは体中から蒸気を立ち昇らせながら、
『獣臭い方は随分ましになったけど、そっちの瘴気臭い方は全然とれてないな。
「…………。」
「ああっ、ヲウスがいままでに見たこともないような顔してる!」
「抑えろ抑えろー。ここ以外逃げる場所ねーんだからよ」
「……自制ぐらいできる。ガキじゃないんだ」
仕方なく顔を向けないようにして言葉をこぼすと、二人にはまるでその様がそっぽを向いていじけているように写ったようで二人は同時に噴き出すと腹を抱えて笑いだした。
……。不服だ。
『二人の容態はいまのところ安定してる。若い方、あー、ワカタケヒコだったっけ?は降ろした神のおかげでやや荒っぽくはあったが傷が塞がれてたから大事じゃなかった。気絶していた主な原因はいきなり氣を大出力で扱ったから体がびっくりしたことと、あと氣がほとんど空っぽになったからだな。氣が空になったぐらいなら僕の薬ですぐ全快さ。そっちの女みたいにさっさと回復して歩き回る奴もいるし。』
ワカタケヒコが無事であるという言葉に思わず息が漏れる。よかった。本当に。
しかし、本当に神降ろしを成功させたのだろうか。ついこの間までタツの腕に抱かれていたあのワカタケヒコが……。しかも、ワカタケヒコが降ろした神はおそらく
『問題はもう一人の女だったけど、空いた穴を聖土で埋めてから肉に変化させて代替することでなんとかした。こんな力技好きじゃないが、まあ今回限りだ、大目に見よう』
「はぁ……よかったお葛……」
タツが涙ぐんでいる。
「本当にありがとうございます────
私とタツが頭を下げると小さな神────
『本当だよまったく。せいぜい感謝して信仰を捧げることだ。こんな大盤振る舞い、常だったらどんなに機嫌がよくたってしやしないよ。正直いえば何だって僕がこんなに骨を折らなきゃならないのさっていまも思ってる。
それと、ここの主にはきちんと挨拶をしておけよ。あいつがその気になってなかったらお前たちを受け入れたり治療したりなんかしなかったんだから』
小さな神はそれだけ言いきると、鬱蒼と生い茂る緑に溶けるようにして消えていった。
何一つ無かったこの
その国津神たちの中でも、特に国造りの最初期に関わり、いまある国の礎を作り上げた小さな神がいた。それが
その体はガガイモの実を浮かべた舟に乗るほどに小さきものだった。
そんな小さな体に数多くの権能を有していたという。
作物の実り、温泉の湧出、そしてありとあらゆる薬の調合。
彼はそれらの権能をもってこの葦原の中ツ国に文明を築き上げた。
初めて見る権能の凄まじさ、別の言葉で言うならば、その歪さは想像の遥か上をいっていた。
世界とは、斯く在るべきだとそう在り、それが揺らぐことはない。りんごはいつどこで落としても地面に対し垂直に落下し、天を運行する太陽と月とが軌道を変えることはない。それは当たり前の事実であり、私達が立脚している世界の法則だ。
だが、神の権能はそうした世界の法則を易々と改変していく。いや、そもそも彼らにとって世界の法則とは既に在ってそれを改変するものではなく、自分自身の心持ちによって形作られているものでしかない。神代の神々にとって、世界の在り方とは自身の思い一つで書き変わり、好きなように変容させられるものである。
なるほど外の世界から彼らが場所を追われた理由もむべなるかな。神の気分なんて不安定な土台の上に人の理など怖くて敷けなかったのだろう。そうして神々が
小さな神の言う通り、私はここの主たる神へと御礼を申し上げにいかなくてはならない。
────しかしその前に、私には会わなくてはならない人がいる。
「────────来たか」
「お久しぶりです────────父よ」
ああ、幾年ぶりか。私が王の位を奪ったあの日。兄と養父を死なせたあの時から私と父との間の時は止まったままだった。いや、そもそも私が産まれたあの日から、私と父との時は動いていなかったのかもしれない。
父は随分と、萎びて見えた。黒々としていた髪は白く染まり、肉は削げ、骨の
父の目を見る。
いままで何度も見た、いままさに消えゆく
「──────ありがとうございました。父が訴えてくれなかったら、我々はここへ入ることもできなかった」
都から脱出する時、最後尾につかなくてはならなかったタツが避難民を神域へ受け入れてもらえるよう上奏する役に任じたのが、屋敷へと避難していた病床の父だった。
二人の間でどのような会話があったのかは知らない。それでも父はその役目を請け負い、病をおしてここの主へと直訴し、残された最後の一千人を見事護りきってくれた。
父が死病に侵されていたことは知っていた。死の瘴気が日ノ本を覆ったとき、父もまた病に倒れたのだ。
だが私には父を見舞う時間など有りはしなかった。日ノ本の危機を、取り除かなくてはならなかった。
生気の引いた顔で、父は黙って私の目を見つめていた。
私は何も言えなかった。今更私に何が言えるだろうか。こんな不孝者に。
ゆっくりと、父の口が開く。
「────────夢を、見ていた」
「…………」
幸せな夢だった。
妻が隣に座っていた。大きなお腹を抱えて笑っていた。
いま、君は幸せか?
私は問うた。
はい。あなたがいますから
妻は答えた。
でも────この子たちが産まれたら、もっと幸せになります
妻は笑っていた。私は泣いていた。
妻が産気付いたと知らせが入ったのは真夜中だった。私は跳ね起きて、妻の過ごす邸へと向かった。
難産だった。妻のお腹の中には二人の赤子がいたのだ。真夜中に始まった出産は、日が明けても続いていた。
祈祷師を呼んで、神々に妻と子の安全を祈り続けた。
何かないかと祈祷師を怒鳴りつければ、片親が赤子の様な重い物を背負いながら祈れば或いは
祭事に使う大きな臼があるというのでそれを背負って祈祷を続けた。
大きな大きな臼を背負う私の姿はさぞや滑稽なものだっただろう。
その後に赤子が二人いると伝わって私は更にもう一個の臼を持ってこさせてそれを背負った。流石に大きな臼は一つしか無く、いくらか小さな臼を上に重ねて祈った。
これのせいで生まれた子らの名前が
私は祈った。妻の無事を。子らの無事を。肩にかかる重荷など痛痒にも感じなかった。
ああ、天と地に在る神々よ、どうか、どうか彼等の無事を────────
出産は日が天頂を過ぎても続いた。
二人の赤子の泣く声がする。
幸せの象徴たるはずのそれが通り過ぎてゆく。
掴む手に力は亡い。
暖かだった体に熱は亡い。
柔らかな笑みはどこにも亡い。
妻は死んだ。
私は神々を恨んだ。祈祷師を憎んだ。産婆を憎悪した。妻が遺した二つの命にすら怨みを向けようとした。
だが何より、そんなことしかできない自分を呪った。
一人になって過ごす日々を送った。
時間は何よりも無情で、私から妻を奪った怨みすら奪っていった。
何もかもを奪われた私の心に残ったのは子どもたちのことだけだった。
私は怖かった。
私は妻が命をかけて遺した子どもたちを恨んでしまうのではないか。それだけが怖かった。
子らを恨んでしまえば、その時こそ私は生きる意味と価値を永遠に失う。妻の献身を無に帰すことは、私自身の死に等しかった。
私は臆病者だった。
二人のうち一人はどうにも少し様子が変らしい。その少しの違いが私の心に恨みを持ち上げるのではないか、と恐ろしかった。
私は愚か者だった。
結局会えたのはオオウスだけで、ヲウスには会えなかった。
様々理由をつけても結局のところ、私は妻がいなくては一歩も踏みだすことのできない半人前だったというだけだった。
ヲウスと対面したのは彼が十二になった時のことだった。それも、彼に死を命じるために。
もう一人の息子と対面し、その瞳を御簾越しに見たとき、私は父親でなかったことを知った。彼の瞳には不安と不審だけがあった。
ならば、私は父親ではなくなろう。
熊襲の討伐などという不可能を与えれば、どこかで神々の託宣を受けるだろう。その血をひく私が大神天照に頼めば、どこかの神を通じてヲウスを私の妹のところへと導いてくれるはずだ。
不肖な妹だが、大神天照と共にある彼女ならばきっとヲウスをここではないどこかへ、彼の望むままに導いてくれるだろう。ヲウスが父なんてものに未練を残さないように、私はヲウスの名を呼ぶことはしなかった。
オオウスが死んだときのことはあまり語りたくはない。ヲウスにも随分と酷いことを言ってしまった。
王位を退き、都の端に佇む御所で後悔ばかりしていた。
ただ一言、頑張れとだけ伝えたかった。
病を得て、都が沈み、逃げ込んだ屋敷でヲウスの妻と出会った。
瞳の美しい女性であった。かつての妻と同じく
その笑みが陰っていた。理由はいうまでもなかった。
何かが、こんな私にも、死の前に何かができるのでは、と。
病に臥してなおみっともなく生にしがみついていたのは、最後に成すべき何かがあったからではないのか。
神との交渉役としては私以上の者はその場に生きてはいなかった。
ならば、私がやろう。後悔に
「────────夢を、見ていた」
「…………」
「夢のように過ぎ去った一生だった。沢山の後悔があったが────────」
「────────愛する息子に看取られて逝く、良い生涯であったな」
お父さんが全然出てこなかったのは作者忘れてたわけではなく伏線だったからです。本当です。
(結局戦闘に入ってない……)