「最早一刻の猶予もありません。都を脱出します。」
橘姫の言葉に、残された数少ない識者たちが集められた間は静寂が包み込む。
その沈黙を破ったのは声を荒げる初老の男だった。
「・・・っ、逃げてなんになる!さらに人数を減らし逃げた先で死ぬというのなら、愛する者の隣で死にたい・・・っ!」
都でも有数の重臣であった彼だが、この屋敷へ走る最中、最愛の妻と長男を目の前で失っている。一人残された娘と最後の時を迎えたいという彼の気持ちは、生き延びた生存者たちの多くが同意するだろうことだった。
「もうおしまいなんだ、また近くの奴が喰われんのを見ながら逃げたくなんてねえよ、俺」
「どうせ死ぬんじゃ、ここもそこも変わらんさ」
屋敷に生き延びた一千人。生き延びたが、その心にはもう生きようという燈火は灯されていなかった。愛する者を失い、帰るべき家は崩れ落ち、築き上げてきた何もかもは燃やされ、都の外に生者はいない。肉体が生きていようとも、精神は死んでいた。
なまじ屋敷という安全地帯にたどり着いてしまったからこそ、彼らはもう立ち上がれない。たとえその安全があといくらもしないうちに崩れ去るものだと知っていても、そんな現実に抗おうとできる人間はもういなかった。明確な死をその背に感じながら、わずかにつかんだ蜘蛛の糸をたどった先のここを、終着点としてしまった。
この間に集められたのは数少ない正気を持ち続けていた者達だ。一千人の内、あと半刻もしないうちにどれだけの人数が自死を選ぶだろうか。集められた者の正気すらいつまで持つか知れたものではない。
橘姫と共に都の防衛に尽力したオトタケルですら、その例外ではない。熊襲が堕ち、怒りに身を任せていた時はまだよかった。だが、こうしてその怒りすら過ぎ去った後、彼の体に残ったのは何も無かった。彼の故郷が跡形も残さなかったのと同じように。無気力に俯いた彼の瞳に光は無い。熊襲を束ねる者として都でも有数の頭脳を見込まれてこの場へと呼ばれていたが、最早彼の頭脳が再び輝く日は来ないと確信される瞳だった。
生に希望は残されていない。外を覆う死にも絶望しかない。ならば、ここでゆっくりと、まどろみと共に沈むことが残された我等にできる最後のことなのだ。
それでも。ただ一人瞳に光を灯す女がいた。
「じゃあっ!ここで死ぬのが最も良い事だっていうの!?」
全身を纏わりつくような疲労が覆い、がんがんとうるさい鈍痛が頭蓋を内側から打ち付ける。文字通り血を吐いて床を赤く染めながら、その女は耐え切れないように、抑えきれないように言葉を吐き出した。
「あきらめて、おしまいだからここで死ぬ!?惨めに震えて縮こまって、死んだように死ぬの!?」
彼等は、何も返さない。彼等の胸の裡に反論するような言葉は浮かんでこない。
「わたしはそんなの嫌だ!」
だってもう、死んでいるのだから。死んだ人間は反論しない。言葉を返さない。
「わたしたち、まだ生きているんだから!!!」
「・・・お葛、いま、いいかな」
「え?ああ、はい若様。作業中でよろしければ」
ワカタケヒコが声を掛けた時、お葛は布を切り裂いて傷を負った避難者たちの手当てに仕えるよう形を整えていた。
手際よく小さな小刀で襤褸切れのような布を均等に切り裂き、結い直して丁度よい長さに整えていく。そんな彼女の様子を、若き王子はただ黙って見つめていた。
「────相談したいことがあるのでしょう?言ったらどうです?」
「っ、ああ。」
それよりまた沈黙が続いた。手持無沙汰な彼の手に切り裂いた後の布をお葛が押し付けると、二人は静かに手を動かし続けた。
かき集めた襤褸布の山が大分減った頃、ワカタケヒコが口を開いた。
「────俺、悔しいんだ。友達が殺されるのを黙って見ていることしかできなかったことも、力の無い自分のことも。」
お葛は黙って聞いている。彼女とて大事な人を多く失っている。王に仕えると決め結婚をしていなかった彼女にとって、残された唯一の家族である兄も死んだ。ここにいないということは、そういうことだ。
いや違う。彼女は助けることのできた兄の命を見捨てて、彼等王の家族を守った。
屋敷を避難者たちに開放した時、実家へ走ったのなら兄の命は確実に救えたはずだった。だが、万一避難者が王の家族へと害を為したのなら、混乱した今、彼等を守れるのは彼女しかいなかった。
確実に救えた肉親の命を切り捨て、万が一に失われるかもしれない王の血族を取った。
お葛とはそういう人間だった。王夫妻へと謁見したあの日、彼女のあり方はそう決まった。そこにはもちろん彼女の母の教育などがあっただろうが、彼女は自らの手で、そうあろうと自らを規定したのだ。
何があろうとも王とそのご家族をお守りする。いっそ狂信的なまでの信念を、あの日、あの瞬間に作り上げたのだった。
無論、王の家族以外の一切を彼女の中から排した訳ではない。屋敷を開放したことは王の家族の安全を脅かしかねない判断だったが、屋敷の開放によって救える命を考え、またその行動の結果の王の家族の安否を考えた。確かに安全度は下がるだろうが、その程度で守り切ることの出来ぬような能力でこの役職を務めているわけはない。
ただ、兄の命まで救おうと考えたのなら、王の家族の安全は保障できなかった。だから見捨てた。所詮はそれだけの話で、それだけの話だったから肉親と仕える相手を掛けた天秤はその傾きをぴくりとも動かさなかった。
そして、ヤマトタケルによく似たワカタケヒコは、そうしたお葛の思考を容易く読み取った。
「親友一人助けられない俺のために、たくさんの人が死んだ。俺だって、それを嫌だとか認められないとか言うほど馬鹿じゃない。王の息子として、それらは全部背負わなくちゃいけないことだ。でもっ・・・」
結い合わせた布切れを、小さな雫が濡らしていく。
「俺がもし父上みたいに強かったら、みんな死なずにすんだんじゃないかってッ・・・。現実逃避だってことは分かってる。お葛みたいな人の迷惑になるってことも。でもッ、でももう嫌だ!門の内側でただ黙って人が殺されるのを見るのなんて嫌だ!」
あまりに未熟な感情の発露。理想と現実の違いすら満足に飲み込めない若さの生み出した言葉だったが、お葛が見せたのは溜息でも咎める言葉でもなく、笑顔だった。
「若様」
「お葛、俺に剣をくれ!俺も戦って、みんなを守りたいんだ!」
「若様、落ち着いてください」
静かで柔らかなお葛の言葉にようやくワカタケヒコの勢いが弱まる。
「ごめん・・・怒鳴ったりして」
「いいえ、若様のお気持ちは分かりました。少し待っていてください」
お葛は静かに立ち上がり、一人静まり返った廊下を歩く。
恐らくことはもう一度大きく動く。それは、お葛が推察した限りなく正確な予測だった。
いくら王の屋敷が物理的にも結界術的にも堅牢に作られているとはいえ、都の機能のほとんどが制圧されたいま、そう長くは持たないだろう。避難者全員で脱出するにせよ王の家族ら一部だけで脱出するにせよ制圧された都を突っ切る必要がある。脱出先はいくつか候補があるが、屋敷の位置関係的にも恐らくは一ヵ所だろう。
そうなった時、いまだ幼児を含む王の御子らを抱え逃げ切ることはできなくは無くとも大変な難行となることは目に見えている。僅かばかりであっても自衛の手段を持つ長男ワカタケヒコ様が武具を持つということは悪い事ではない。
自らの民を守ろうという気持ちは王にとり大事なことだ。少しばかり熱くなりすぎて向こう見ずなところがあるが、それも時間をかけて学んでいけばよいこと。
ここまで思考して初めて、お葛はこの絶望的という言葉すら生ぬるいこの状況で日ノ本という国が滅びることを一切想定していない自分自身に少々驚くことになるのだった。
民が千を残し死に絶えたことも、築き上げた都市という都市が無に帰したことも、あの大王が治める国が滅びる要因としては小さすぎる、と本気で思い込んでいる彼女の思想は、恐らく彼女の主の一人である橘姫を含めた千人の誰とも共感することはできなかっただろう。
「────そうさ、俺たちはまだ、生きてるんだ。」
静寂に包まれたその間でその男の声は、とてもよく響いた。
「────!!!??そんな────!?」
瞳を闇に閉ざしたはずのオトタケルが、目を見開く。
「もう終わり?諦めるだぁ?んなもん死んでから言いやがれ!!おめぇらまだ生きてんだろうが!!!!」
いっそ物理的な衝撃波を伴うほどの大声を張り上げたその男こそ、熊襲の頭領にしてオトタケルの兄、クマソタケルであった。
「兄・・・者・・・」
熊襲にて没したはずの兄。それが目の前にいる現実に、オトタケルは何度も何度も目を擦った。そうして赤くなった瞳から涙を流し、嗚咽に肩を震わせた。
「・・・ッ!だったらッ!だったら何になるってんだ!!?ああ!?生きてる!?俺たちゃまだ生きてるだけだろうが!」
一人の青年が叫び声をあげた。額の血管が千切れるほどの怒りが口を突いて出た。だがその実、彼は泣いているように見えた。怒りながら泣いていた。どうしようもない災厄に、抗えない現実に、どうか、どうか助けてくれと泣いていた。
「とっくにこの国は終わっちまってんだよ!どうしたって死ぬんだよ、俺たちは!だったらここで静かに死のうとする、それの何に文句付けッ・・・!」
胸倉を、絞り上げていた。宙に彷徨う脚がクマソタケルの腿を打つ。
「言いたいことは、それだけか?」
「てめッ、はなせッ!」
「
掴み上げていた手が緩められ青年が床へと落ちる。彼が顔を上げたその時、怒鳴りを上げていた男の頬に涙を、見た。
「現状、都の結界自体はまだ生きています。ならば、行く手を遮るのは先に侵入したあの黒い輩。撃破した分を差し引き、九体。残った戦士たちで何とか足止めを試みます。補強に費やした私の氣が効果を保っている内に、都を脱出しなければなりません。」
「しかし、都を脱出したところでどこへ・・・。都以上の結界を備えたところなど、伊勢ぐらいしか・・・」
屋敷の結界に残された僅かな時間。目減りしていくそれに募る焦りを懸命に抑え込みながら会議は続けられていた。
「いいえ。まだ
「御諸山!?しかし、あそこは神域です。人が立ち入ることが許されるとは思えません。」
そして、神代が終わったこの時代において尚、神の
神とはただそこにあるだけで世界のあり方を変容させる。神代が終わったこの時代、神の正体は目には見えぬ
そうした中で、現世の一部を切り取り異界と成しそこに本拠を構える神がいる。その神が御座すところこそ、
御諸山は古来より都に集った民たちの信仰を集め、都の傍にあって一番遠い神域として扱われてきた。美しい円錐を描くその山は数ある神域の中でも最も
伊勢が新興の莫大な潜在力を持った霊地だとするならば、御諸山は長い年月を経て大いなる力を湛えた巨人のような霊地だ。その格は伊勢にだって見劣りするものではない。
その神域はまぎれもなく異界である。
「いまはこれ以上ない非常事態です。きっとかの山の神も受け入れを拒みはしないと思います。無論、そこはわたしの交渉次第ともいえるのですが・・・」
オトタケルが橘姫の言葉を引き継ぐ。
「とはいえ、御諸山をおいて他に逃げ込める先などありません。あそこは結界が張られているというより異相に位置するひとつの世界ですから、彼の神が自ら世界を開くようなことが無ければ、たとえ世界のすべてが炎に沈んだとしても大丈夫でしょう。最も、あの小さな世界に逃げ込める人数だけは、と注釈は付くでしょうが」
元より御諸山の神は気難しい神だ。平時であれば何人たりとも立ち入ることは許されないだろう。この非常事態にあっても許されるかどうか。最も彼らにそれ以外の選択肢など存在しないのだが。
「とにかく、御諸山へ逃げ込むことの是非について論じている暇はありません。問題はいかにして御諸山にたどり着くか、です」
「あの黒いのなら行きがけに一体倒した。多分ありゃ雑魚だがな。あと何匹残ってる?」
「兄者が一匹倒してくれたのなら残りは八匹ということになります。奴らは人間を好んで襲う性質があるようだった。残された御馳走めがけて襲ってくることは間違いないでしょう」
ここで、顔色を悪くさせていた橘姫が幾らかましになった顔を上げ口を開く。
「わたしがお屋敷から御諸山の麓まで一直線の結界を引きます。戦うことのできる皆さんには足止めをお願いします。人の出入りは横からでも可能なように結界を引くので危なくなったらすぐに逃げ込んでください」
「おい、本気か?都の結界に氣を絞りつくしたばっかだろう。そこにあの黒い奴らに耐えられるような、しかも御諸山までの長い結界を張るだって?死ぬ気じゃねえだろうな」
クマソタケルの問いに橘姫はしかし、儚げながらも強い意志のこもった瞳で返す。
「大丈夫。ちょっと裏技もあるし、それにヲウス・・・ヤマトタケル大王が帰ってくるまで死ぬわけにはいかないしね」
なら、いいんだがとクマソタケルはらしくもなく切れが悪そうに呟いた。なにより、橘姫に負担を強いる以外の良い方法など彼等は持ち合わせてはいないのだから。
「それじゃあ、何とか戦える人たちを集めてください。彼等の取り纏めはクマソタケル、あなたに。指揮はオトタケルに任せます」
「応」「わかりました」
二人が仮の会議室を駆け足で退出すると、残った者達に橘姫は指示を下す。
「あなた方は避難の準備を。荷物を抱える必要はありません。身一つでいつでも駆けだせるよう準備を」
「はっ」「了解しました」「生き延びましょう」
口々に了解の意や自信を鼓舞する言葉を口にして彼らは自らの責務を果たしに行った。
全員が退出したのを確認すると、橘姫はドサリと音をたて前のめりに倒れ込んだ。
「姫様っ!」
部屋の外に待機していたお葛が慌てて駆け寄った。先ほどまで平静を何とか保っていた彼女の顔色は土気色を通り越し、死相すら垣間見えようとしていた。
「姫様、ひとまずいまは、いまはお休みになってください」
だが、お葛はそんな主にこの後ムチ打たねばならない。そうしなくては残された一千人皆が死ぬからだ。
だからせめて、皆が準備を整えるまでの僅かな時であろうとも、一時の休息を彼女に与えたかった。
「う、ん・・・。準備が、終わったら・・・起こして・・・」
「はい、必ず。だからそれまで、どうかお休みを」
日ノ本を覆い尽くした闇の終わりはいまだ見えず、残された千の命に光はまだ、遠かった。