「待ちくたびれたぞ、
そこにいたのは
縦に裂けた瞳孔。頬を覆う鱗のような皮膚。暴れ狂う怒りの神威。いずれも唯人でないことを示している。
だがそんなことよりも、かの男が地に突き立てその上に胡坐をかいた剣は、幾度も振ったことでその感触・わずかな凹凸でさえ手に残っている紅き剣、
「スサノヲはどこだ。」
スサノヲによって地の穴へと落とされたとき消え失せた愛刀を何故目の前の男が所持しているのか、ということも十分気にはなったが、それよりも優先しなければならない事柄があった。大和を覆う死の原因と目される、スサノヲの行方だ。
だが、その問いに彼はわずかに苛立ちを返す。
「知るか。奴のことなど。そんなことよりも、だ。」
瞬間、紅が目の前にあった。
「我はお前を殺したい」
比喩では無く一瞬のうちに目の前に現れた紅い一振りは私の命を刈り取るには十分な速さだっただろう。
だが、
「遅いッ!」
目の前のこいつも人ではないが、私の体とてつい先ほど人外となった身だ。どれだけ速くともその軌道、一から十まで読み取れた。振り下ろされる手首をつかみ取り、右後ろへ流しながら胴を打ち上げる。並の反応速度ならばそのまま地へと叩き伏せられただろうが、奴も奴とてそこまで甘くはない。
「なるほど、少しは良くなったようだ。」
投げ上げられた空中で倒立し、掴んだこちらの右手を器用に手首の動きだけで斬り落とそうとしてきた。それを左手の掌底で剣ごと弾き飛ばすと、空いた右手を肩へ、左腕を頸へと絡ませ頸骨を捻じ切らんと力が込められる。たまらず後ろへと倒れ込みそれを防ごうとするも、奴は着地した脚の力だけでその衝撃を吸収し、大きく開いた左足の支えと共に右へと吹っ飛ばされた。向こうが投げへと移行した瞬間にこちらも右腕を奴の首に引っ掛けようとしたがきれいに外されていた。
大きな音を立てて立ち枯れた巨木に激突する。
「新しい体に動きが追い付いていない。まだまだ馴染んでいないな。」
埃を払いながら立ち上がり、紅髪を正面に見据えた。
「その剣、そして以前までの私を知っているかのような口振り。お前まさか
その言葉に、縦に裂かれた瞳孔がさらに収縮する。
「そうとも!我は本来目覚めるはずの無かったこの剣の自我!我のような怒りそのものに自我を持たせようとするからこうなる!とりあえず貴様を殺し、我を目覚めさせた彼奴も殺す!!さっさと我に殺されろ、
空気を軋ませるほどの怒り。それは間違いなく己に向けたものであり、そしておそらく、あのスサノヲに向けたものでもあるのだろう。
だが、そんな怒りの覇気に負けてやる義理もない。一つ大きく息を吸い込み、叫ぶ。
「貴様の怒りなど知ったことか!私の肩には大和全ての民の命が乗っている!剣なんぞが邪魔をするな!!」
同時に大地を蹴った先で、二つの拳が交差する。
どちらとも狙いは顔。一発モロに喰らえば昏倒しかねない顎を狙った向こうの拳に、こちらの額を合わせ、双方の勢いつけた頭突きを奴の拳に喰らわせてやった。
だが一方こちらの放った拳もまたしゅるりと音をたてて奴の左腕に絡み取られ、あらぬ方向へと捻り曲げられようとする。相手がこちらの頭突きに数瞬怯んだのに合わせ大地を蹴り、右方向へ捻られようとしていた腕に沿うように小さく宙へと飛んだ。私の着地した足を払おうと仕掛けられた下刈りを空いた左腕で殴りつけ、首に引っ掛け直した右腕で奴を回すようにぶん投げる。だが、そこに想定していた手応えは無く、右腕には絡みついた奴の脚があった。
「うおおっ!?蛇か、こいつは!?」
「よく回る口だ。まずは顎を砕いてやろう!」
絡みつかれた右腕に膝蹴りを喰らわせようとするも即座に右腕の戒めがほどかれ、奴の両手が大地に着く。瞬間、左踵がさながら分銅鎖のようにしなって私の顎を襲う。振り上げられた左膝によって私の体勢は前傾しており、顎をそらしたくらいでは避けられようもなかった。
「ちっ」
後の追撃のことを考えれば必ずしも最良の選択肢ではないが、背に腹は代えられない、後ろへと倒れ込むような形で振るわれた鞭の範囲から抜け出る。
「甘いな」
だが、それすらも奴の思惑の範疇であった。
左踵が風切り音と共に目の前を通り過ぎたのち、その影から飛び出てきたのは右脚だった。
「ぶッ!?」
しなる右脚にしたたかに頬を打ち付けられる。後ろに倒れ込みつつあった体勢もあって一切の抵抗すら出来ずに私の体はまたも吹き飛ばされた。
「いまのは・・・効いたな。」
今度は枯れ木に衝突することもなく受け身を取りながら着地する。
「よくもまあさばくものだ。致命の技ばかり当たらない。」
「ハッ、殺したいのに殺せなくて怒ったか?怒りの化身殿。」
先ほどは少し言葉を交わしただけで怒りを
「───なるほど、貴様は強い。昨日までの貴様であったのなら十は屠っていたが、そうもいかないようだ。こちらは後が控える身だ。少し攻め方を変えてみるとしよう。」
「東への遠征から今日まで肌身離さず持ち歩いた剣の言うことだ。こちらの手の内は大体察していることだろう。私も攻め方を変えるべきかな?」
だがこの時点で私は、ある大きな勘違いをしていた。目の前の奴は
そもそも、私は
もしこの剣の本質に気付けていたら────きっと、大和を覆ったこの災厄の形そのものすら、変わっていたのだろう。
「東の遠征から。手の内。察する。なるほどなるほど。貴様が我のことを何も知らない、知ろうともしてこなかったのは改めて良く分かった。だがな、
朗々と語るように告げる目の前の男の言葉に、私は得も言われぬ奇怪な恐ろしさを感じ取った。目の前にいる一人の男の質量がみるみる内に一匹の巨大な大蛇となって私を睨め付けているかのような錯覚はあまりにも現実味を帯びていた。私に許されたのはただその前で気を張り続けることだけだった。
「貴様が何を思い、何を為し、何を見てきたのか。全て知っている。」
貴様が利己的な自己保存に走り肉親の想いを踏みにじったことも。
貴様が胸に抱き続けているあの女へのほの昏い独占欲も。
貴様が実の兄と育ての親と、どちらを選びたかったのか理解した上で世間体に駆られ両方を殺したことも。
そして、それら全てを過去のことと忘れた気になっていることも。
王になって忙しいなどと言い訳にもならない言い訳を重ねいまだ生きる父のを存在を忘却し、子を持つことは王の責務の一つだなどと嘯いて秘めたる想いを情欲で汚らしく上書きし、育ての親をその手で殺した感触を忘れたいがために墓へ赴くことさえしなかった貴様のことを、我は知っている。
「なあ?ヤマトタケル。偉大な王とやら。何故貴様はそんなにも汚泥に塗れた人生を歩んでいる?」
何故一介の王子として一生を終えなかった?
王の子の一人として一生を終えたのなら、満足いくものでなかったとしてもいまのような薄汚い一生ではなかっただろう。
全ての原因、始まりはどこにあった?
分かっているだろう、ヤマトタケル。
貴様が母の胎の中で開いてしまった
「なあ、ヤマトタケル。その瞳、
他方、地上・
連絡の取れなかった伊勢から大量の避難民が押し寄せ、さらに彼等の語った黒き死は大和各地の豪族やその代官たちにとってあまりにも恐ろしい話だったからだ。次は自分が治める土地がその黒に呑み込まれるかもしれないという危惧を、杞憂だと笑える者は誰一人としていなかった。数日の間を置いて到着した伊勢の巫女、
それがほとんど為す術無く粉砕された。都ですらそれに耐えうるか怪しいというのに地方諸都市が無事で済むはずがない。
伊勢の結界が破られたことで、都だけでなく各地の諸都市を護るため、その結界を作り出す陣の確認作業が始まった。
各地の街々は比較的新しいものはその街の形そのものが、あるいは最近掘られた水溝が陣を描くように作られており、その街々の陣が繋がりあって互いの街の陣の力を上昇させるよう造られていた。
あまりにも巨大な、日ノ本そのものを俯瞰できるような視点をもつ大王だからこそできた偉業であったが、当然そこにはからくりがある。この壮大な陣は、伊勢のものも含めその本質は龍脈ではなく人の営みに依存していた。人が不安に駆られれば弱くなり、恐怖に染まれば脆くなる、街を土台に敷かれた陣は、そこに住む人々の在り様如何によって強くもなれば弱くもなる、そんな特性をその強靭さの裏に持ち合わせていた。
龍脈の力を吸い出して人の意のままに加工し活用するには、この時代の龍脈は力に満ちすぎていたのだ。それは、以前大和を死が覆ったときまだ若かりしヤマトタケルが大地に直接陣を刻むことを諦めたことと同じ理由だ。より強力な陣を敷くためには龍脈の活用が不可欠だったが、そのためには龍脈という星の鼓動とでもいうべき存在を服させる必要があり、そこには有り体に言って不可能という壁が立ちはだかっていたのだった。
ともあれ、人の身で行える、人だからこそ造り上げることのできた偉大な陣と陣とをつないだこれには、中心とも結節点ともいうべき陣が存在していた。それが都であり、伊勢であった。この陣が人の営みに依存していることは先にも述べた通りであり、伊勢から人の営みが一掃されたいま、伊勢の陣は完全に機能停止に陥っていた。伊勢が落ちたことによって日ノ本を覆う陣と陣とのつながりが即座に崩壊するようなものではないが、それでも繋がりがいくつか寸断され機能不全となっている街の陣も存在していた。
都にて対応に追われる官吏たちの仕事はまず、そうした街々を繋ぐ陣の結び目をほどいては繋ぎ直し補強するの繰り返しだった。その間も避難の指示や受け入れの整理、各地への緊急事態への備えなどやらなければならないことは山積していた。
増強されたとはいえこのような任務の量。いくら人手があったとしても足りるものではない。現に廊下でぶっ倒れた者の数など数えてはいられないし、術を使いすぎて氣がもたず気絶した術師も、気絶していない術師を探す方が大変なほど多くいた。
何よりも、国の長であるヤマトタケルがここにいないことこそが、彼等を逼迫させている原因だった。
大丈夫。大王ならきっと原因を退治して帰ってきてくれる。
大王が戻ってくるまで日ノ本を守り抜く。
俺たちの国をいま守れるのは俺たちしかいないのだから。
だがそうは言っても疲労はたまるし精神は摩耗していく。もしかしたら、全てが爆発してどうにもならなくなっていたかもしれない。
しかしそうはならなかった。そこには、王はおらずとも支柱がいたからだ。
彼女こそ、后にして都にて知らぬ者のいない有名人。
「みんな、頑張って!ヲ・・・ヤマトタケルが戻ってくるまで、それまでの辛抱です!むしろ全部なんとかして王様を驚かせてやりましょう!」
「はい!」
「御后様!熊襲との連絡に問題が発生したとのことです!」
「分かった!いま行く!」
汗を振りまいて都を駆けまわる彼女の姿に多くの者が励まされた。王がいないいま国の頭である彼女が率先して対応に動くことで一般の民たちや避難してきた民たちの不安を慰撫し、対応に奔走する役人たちの心を大いに奮い立たせた。彼女の顔を知らない者はいなかったからこそその努力は最大限の効果を現し、わずか四日で崩れかけた防備を再び構築するに至った。
「姫様!
「あ、お葛!」
皆を支えるという重責にあえぐこの渦中で唯一気を置かず会話できるお葛は彼女の精神にとって一つの清涼剤の役割を果たしていた。
「すぐに行くよ。ごめんね、お葛の実家の離れ使わせちゃって。」
「いえいえ、あそこも母が亡くなってから誰も使っていませんでしたから。むしろ皇族の方が泊まったとあっては箔が付くってもんです。」
「そっか。よかった。」
この火急の事態の中では都でも指折りの変態として名をはせるお葛といえどもふざけてはいられない。その悪癖さえ無ければ非常に優秀な部類に入る彼女は橘姫からの深い信頼もあって他人には任せられない重要な役割を多く果たしていた。その一つが、大王と橘姫の九人の子供たちの安全を確保しその面倒を見ることだった。満足に一睡すらとることのできない橘姫がその役を行うことはできない。彼等は都の中でも最高の防護を誇る大王の屋敷にて暮らしている。普段は多くの侍女たちが世話を行っているが、この事態の最中なにかあってはとお葛がその世話をほぼ一手に引き受けていた。駆け込んできた
橘姫も大概な労働量だが、お葛のそれも劣らない。だがお葛は自らの疲労をおくびにも出さず自らの仕える相手の顔を覗き込んだ。
「・・・大丈夫ですか、姫様。」
「うん、大丈夫。それより子供たちの様子はどう?」
「皆元気にしてますよ。
「タケが・・・。目を離した隙にどんどん大きくなるなあ、子供って。」
「心配しなくても大丈夫ですよ。むしろ
「ふふっ、そうだね。あっ、もういかなきゃ。後でお葛の実家訪ねるから、よろしくね。」
「はい、お待ちしております。」
お葛と別れ、橘姫は駆ける。その小さな背中に大きすぎる責を載せて。それをただ見送ることしかできない彼女は、知らず、唇の端から赤い涙を流していた。
一つの事柄を片付け、さらに次へと向かう橘姫に、歩いている暇などない。脚を動かして小さな小道へと入った時、彼女の世界は廻った。
「あ・・・れ・・・?」
一瞬視界が黒に染まり、気づけば半身を誰かが包み込んでいる。
『無茶をしすぎだ、子よ。』
「あ・・・神、様。」
後ろへ倒れ込んだ彼女を支えたのは彼女の氏神、
「あ、ありがとうございます!なんかちょっとフラっとしたら支えてもらっちゃって、本当にありがとうございます。こんなところに出てきて大丈夫だったんですか?」
『それなら問題ない。少しの間こちらへ人が来ないようにした。それより、ほら。まだ頑張らねばいけないんだろう?』
きっと彼女は、もう疲れた、なんて言いそうにもないと都にいる誰より理解している
「あっ、本当に、重ね重ねありがとうございます!なんだかすっごく元気でました!」
『当たり前だ。私は子のように他者へ氣を分け与えることはできないが、血の繋がったものにくらいはできる。』
「はい!わたし、もっと頑張ります!」
大和はなんとか持ちこたえていた。だがそれは所詮薄氷の上のものに過ぎない。何かのきっかけ一つで容易く壊れるような、そんな脆い平穏が破られる時はきっと、そう遠くない。
ヤマトタケルの帰還まで、あと────