枯れた老人と別れ、進むことしばらく。彼の通り、根の国の道は思い描く先へと連れて行ってくれた。何となく誘われているような気分になりながら道を進んだ。
進むうち、人の痕跡のみしかうかがい知れない空虚な街並みからだんだんと人の暮らしていることがわかる土地へと変わっていった。それでも、人が暮らしてはいても暮らしを
どうしようもない違和感の中、道はやがて大きな大きな屋敷の前で止まった。ここが終点だというならば、いるのだろう。ここに。根の国の主が。
その屋敷はこの根の国にあってその薄暗い雰囲気の一切を感じさせない膨大な神気に満ちていた。伊勢の大神に比肩するほどの神気。尋常の存在でないことは間違いない。
守衛などはいない。この屋敷には必要ない。屋敷に一歩近づくと、屋敷の大きさに見劣りしない荘厳な造りの両開き門扉が音もたてずひとりでに開く。
「誘われている・・・。いや、予定調和、ということか?」
一体如何なる存在がこの先に待ち受けていようとも、引いた先には破滅しか待っていない。進むしかないし、進むためにここまで来た。
ゆっくりと閉じるその門扉、その先に私は足を踏み出した。
「────やあっと来たか。」
暗闇。左右上下の壁一面を覆う数えるのも馬鹿らしくなるほどの神字が刻まれた石室の中で、その神は居た。遅い、遅いと口癖のように唱えながら、長い時間の中で凝り固まった全身の凝りをほぐす。裸の上半身に白い外套だけを纏い、久方ぶりの灯りに目を慣らす。
苛立ちながら口角をにじり上げ、機嫌悪げに心躍る。
「遅い、遅いが、まァ。間に合った、か。」
勢い込んで突入した屋敷の中は、思いのほかというべきか、普通だった。いや、神域であることには間違いないのだが、それは地上で体験してきた感覚とほぼ同一で、根の国特有の不気味さがどこにも見当たらなったからだ。
脚を進めるたびぽつりぽつりと行き先を示す燈籠の小さな光に導かれるまま歩く。ゆらめく炎はまるで自身の足取りの不確かさを写しているかのようだと感じた。
「ここは・・・?」
たどり着いたのは、注連縄でぐるりと囲まれた清廉な氣の支配する領域。綯われた縄で区切られたそこは、人理覆う
「いよいよこれは罠だったか?」
「おいおい、人聞きの悪いこと言うぜ。」
「ッ!」
それを意識するより早く体が勝手に突き動かされた。地を蹴り反転しながら距離を取る。
顔を上げた先にいたのは────
「はじめましてだな、俺の、息子よぉ?」
どくりと、腰の剣が震えた気がした。
「はっ、はっ、はっ、はぁっ」
ところ変わり、日ノ本一の霊地である伊勢の中心点。ともすれば暴れだしかねない膨大な大地の氣の結節点ともいえるそこで、
『・・・ここに籠ってよりもう二月。いくら「私」が私であるといっても限界というものはあります。その身はいまだ
自らの崇める神であり、共にある神のその言に彼女は乾いた笑いをこぼすと、面だけは気丈な振りをして言う。
「まだまだ大丈夫ですよ。『私』に心配してもらえて元気でました。ありがとうございます。」
まだ、大丈夫。まだまだ負けるもんか。自分が生まれ育ったこの土地を、この国を殺させやしない。
「でも、やっぱりお姉さんちょっときつい、かな。だから────」
────早くしておくれ、ヤマトちゃん
「息子、だと。」
その苛立ちを隠しもせずにヤマトタケルは問いかける。その怒気は世界から切り離され不変となったはずの神域の大地を削りあげた。それでもなお余りある氣が巻き上げられた大地の欠片を粉にし、彼を中心とした渦巻く竜巻と化した。怒りに染め上げられたか淡く紅く色付いたそれはそのままヤマトタケルの領域となりて足を踏み入れた愚物を砂塵よりも紅く紅く染め上げることだろう。一歩を踏み出した彼に追い縋るように前に進んだ間合いがやがて目の前の下手人を呑み込むのは自明の理であった。
「私の父親はただ一人。断じてお前のような神ではない。────たとえ、お前の因子が我が身に宿っていたとしても。」
ヤマトタケルの言葉に神は上がっていた口角をさらににじり上げる。
「そうだ、知らないわけがない。気付かないわけがない。
ヤマトタケルが引き抜いていた剣。
根の国より帰還したイザナギの禊から生まれた三貴神が一柱。日ノ本最古にして最大の英雄神。
「お前が────スサノヲ。」
三貴神が一柱の血を引くとはいえ、成し得るはずのない神殺しを人間のお前が成せたのは何故か。
────それは、お前が天照大御神だけでなく、
自身の子孫への愛に溢れる天照(我が姉)の系譜に連なるお前の父があそこまでお前のことを認めなかったのは何故か。
────それは、歳を重ねるごとに強くなる、本来自身とは相容れぬ
歴代の天皇ですら手に負えず都での管理を諦めた
────それは、
「葦原の中ツ国は、地上は、俺が始めたクニだ。俺が始めた世界だ。まあ、その差配は大国主に任せたからな、
天照大御神の子孫たる天皇の系譜には、いずれスサノヲの因子を持つ者が現れる。そして、その者を、あるいはその者の子を王とすることで地上を治める王の系譜にスサノヲの因子を取り込む。それが、約定。どうしても、葦原の中ツ国にはスサノヲが必要だったから。神が最早出てはこれない時代だというならばせめてその因子を。さもなくば────
「スサノヲ、お前が、我が民を死に惹く犯人か?」
自身の人生を大きく歪めていた犯人を目の前にして、ヤマトタケルはいささかの動揺も焦りも、怒りすらも抱いてはいなかった。そこにあるのはひたすらに自身の民が不当に殺されたこの一大事を解決せんとする意志のみだった。無論、目の前の神に対し何も感じていないはずもない。いずれ、その真意を問いたださねばならないという意識はあるものの、そのようなものよりも優先すべき事柄がいまはある。それだけだった。
いまだ収まらぬ、その暴れ狂う気迫がいまにもスサノヲを呑み込まんとしたその時、スサノヲは剥き出しの手の平を、まるで世界を裂くように振り下ろすと、そう言った。
「答えて欲しかったら、とりあえず這い上がってきな。」
瞬間、ヤマトタケルの足元には大きく口を開けた縦穴が現出する。ここはスサノヲの神域をさらに世界から隔離させた異世界。スサノヲの手の平一つで如何様にも変質する。
咄嗟に術を用いて大気に踏み場としての性質を付与しようとするも、その大気もスサノヲの掌の上。即座に氣を搔き乱され、あえなくヤマトタケルは一寸先すらも見通せぬ闇の中へと落ちていった。全てが闇へと沈む直前、スサノヲの放った一言が、昏い昏い洞の中を反響した。
「精々気張れや、我が息子。大国主の奴は二日で上がってきたが、お前はどうかな?」
落ちる。落ちる。暗闇の中を。上下左右、どこを見やろうともそこにあるのはひたすらの闇。遠近の感覚が闇に飲み込まれ、果たして自分が本当に落ちているのかさえ分からなくなってくる。
ああ、これならばいっそ、災いでもよいから何かこの身に降りかかってきておくれ!
そう、思い始めた時。
いまにも牙を突き立てんとする毒蛇がいた。
「ッ!!」
咄嗟に腰の剣を抜き放とうとして、あるべき剣がそこに存在しないことに気付く。足元に大穴が開いたその時には確かにあったはずの剣は、その形を跡形もなく無くしていた。
「チッ」
一つ舌打ちをしながらも、顎の付け根を握り込んで下方へと受け流す。予想外の事態に危なげではあったがこれしきの事でやられるようなやわな鍛え方はしてこなかった。
だが、そうした安堵もつかの間のことだった。二匹目の気配を察し、今度は焦る必要もないとある程度慣れた自由落下の戦闘に気構えを固めた時、それを嘲笑うかのように全天を毒牙が覆った。
「ッ!!?」
掌底を、脚を、肘を、体のありとあらゆる武器を総動員してその牙を蹴散らさんとする。全周囲から大波が如く押し寄せるそれらに対処できたのも波が三度を数えるまでだった。
毒牙が振り切った太腿に突き立てられる。噛み付いた蛇を乱暴に取り払うも、既に右脚は痛み以外の感覚の脳髄に寄こさない。一切の感覚が消失していたのならその空白は生じなかったのかもしれない。だが、大腿骨を溶け出すようなどろどろの鉄に取り換えられたような壮絶な痛みは、たとえ瞬息のものであったとしても意識に空白を生じさせてしまう。
瞬息の空白の内に取り付いたのは二匹。取り払う間に十一匹。そこからは鼠算だった。
全身を埋め尽くす蛇の牙。血液は丸ごと毒液と言えるほどに致死のそれを打ち込まれ、体は目も当てられないほどに惨たらしく膨れ上がる。肉体を構成する蛋白質はばらばらに破壊され、鍛え上げられた筋繊維は壊死する。血液循環系はとうに意味をなさず、私はひたすらに痛みを受容するだけの機関と成り果てていた。
そう成り果ててもなお、この体は生命活動を諦めてはいなかった。
────死んで、たまるか。死んでなるものか。私にはなすべきことがある。救うべき民がいる。愛する人がいる。置いてはゆけぬ家族がいる。
「ぅ・・・ぅぁっ・・・・」
最早動きはしない喉を無理矢理に動かす。
そうだ、死ねない。毒に犯されきった体に熱を入れる。それは致命の傷に腕を突き入れてほじくり返すのと同義。
それでも、それでも見えない天に手を伸ばす。
体を犯す毒を、体を覆う蛇を、動かない体すらも、それら全ての無理と不可能を上から塗り固めて吹っ飛ばす。
「死んっ・・・で、たま、る・・かっ・・・」
死んだはずの細胞組織が再び生命活動を再開する。氣を生み出す炉が稼働する。毒にひたりきった、いや、毒そのものとすらいえる血液を支配下に置き、自身に益するものへと塗り替える。体内に向けた世界改変。肉体が自身の意志でもって改造される。肉の器が変質するのであればそれに注がれた魂もまた変質する。魂までもを犯していた毒を、洗い流すのではなく、取り込み吸収し、仇為す毒を活力へと変換する。それをなせるだけの魂に改造する。
「死んで、たまるかぁぁぁあああああッ!!!」
壊れた体を纏わりつく蛇の肉で代用し、形だけはなんとか整える。
いまは、動けばいい。動いて、あのくそったれの神をぶん殴れればそれでいい。
「・・・?・・・・・かふっ。」
だが。この蛇の毒は、そう甘いものでもなかったらしい。
抵抗は確かに、いっとき毒を押し返した。それすらも上回る力があった。ただ、それだけ。
────ここで、終わりかぁ。すまん、タツ。
意識が沈む。柔らかな眠りへといざなわれ、そうしてその瞼は二度と────
「ハッ!?」
沈んだはずの意識も、二度と開くはずの無かった瞳も、何故かしっかりと意識を保ってここにある。
しかし、あの感覚は。安らかでありながら途轍もなく不安な、あの感覚は。
私は確かに────
「────死んだはず。」
「死ぬわきゃあねぇだろう。ここがどこだか忘れたのかよ。」
果ての無い穴の上。見通せないはずの暗闇の先を見通すスサノヲは、一人穴のほとりであぐらをかいていた。
いくらここが隔離された異世界といえども、その法則は根の国のもの。根の国は死者の国。死者は死ぬことはない。一度死んだ者が再び死ぬなんてことは、ガラス瓶を割ってその破片を前にして再びガラス瓶を割ってくださいというようなものだ。そこにあるのは割れた破片であって、ガラス瓶ではない。
この国は死ぬことを許さない。摂理に反すものは、無理矢理に帳尻を合わせようとする。
すなわち、極めて限定的な死者の蘇生ともいうべき現象を発現させる。世界が斯くあろうとする力は容易に人や神の力を超えていく。
だが、ヤマトタケルが蘇るということは、その縦穴にいる限り、逃れられぬ運命の中にあるということ。
すなわち、永遠に殺され、蘇生され続ける。
その先に待ち受けるのはヤマトタケルという存在の崩壊か、それとも。
「はやくしろよ、ヤマトタケル。はやくしねえと本当に、地上の人間全部殺しちまうぞ?」
年末忙しすぎ・・・。
次回投稿来年になるかもです。楽しみにしてくださってる皆さんには本当に申し訳ございません。気長にお待ちください。