ー想い歌ー   作:土斑猫

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 本作はライトノベル「半分の月がのぼる空」の二次創作作品です。
 オリジナルキャラが登場し、重要な役割を占めます。
 オリキャラに拒否感を感じる方は、お気をつけください。

 また、今作はボーカロイドの曲、「悪ノ召使」関連に関係した表現が多く出ます。
 一連の曲を知っていると、より分かりやすく読めると思います。

 興味があれば、聞いてみてくださいな。


ー想い歌ー・⑲

                  ―19―

 

 

 闇の帳が降りた校舎。

 冷たい夜気が満ち始めた舎内。

 その中で、僕は熱に浮かされた様に里香を抱きしめていた。

 欲しかった。

 里香が、欲しかった。

 ここが学校だという事も。

 誰かに見られるかもしれないという懸念も。

 もう、どうでも良かった。

 僕は、貪りたかった。

 里香の身体を。

 里香の心を。

 里香の全てを。

 貪り尽くしたかった。

 里香の身体。

 細くて華奢な、精巧なガラス細工の様な身体。

 それが砕けんばかりの力で抱きしめ、白いうなじに唇を押し付ける。

 舌を這わせる度、腕の中で里香が震える。

 彼女の吐息が、耳に触れる。

 それだけで、ゾクゾクする様な快感が走った。

 もう、止める事は叶わなかった。

 

 

 闇に満たされた部屋。

 その中で、吉崎多香子は身動ぎする事もままならず、ただ“彼女”の言葉を聞いていた。

 「ねぇ、吉崎さん……」

 手にした遺影を愛しげに撫でながら、如月蓮華の母親は言う。

 「あなた、分かってるんじゃない?」

 「………」

 吉崎多香子は答えない。

 否、答えられない。

 如月蓮華の母親の目が、それまで遺影に落とされていた視線が、再び彼女の方を向く。

 「ねぇ、分かってるんでしょう……?」

 繰り返される言葉。

 その“答え”に行き着いてしまった事を、責める様に。

 その“答え”に怯える事を、嘲る様に。

 吉崎多香子は、大きく息を吸う。

 呼吸が、苦しかった。

 まるで、肺の中まで闇に満たされたかの様に。

 狭い鉢の中、空気を求める金魚の様に口をパクパクさせる彼女を見つめながら、如月蓮華の母親は、言葉を続ける。

 「……そうよ……」

 疲れたような、それでいてどこか高揚した様な、奇妙な声。

 吉崎多香子は、心の内で叫ぶ。

 聞きたくはなかった。

 もう、分かっている。

 もう、理解している。

 だから。

 だから、言わないで。

 だけどその叫びは、言葉の体を成しはしない。

 乾いた口が、ただパクパクと動くだけ。

 「この娘は……鈴華はね……」

 そして、“彼女”はゆっくりと、噛み締める様に言った。

 

 ――“自分で、死んだ”の――

 

 予想していた筈のその言葉は、酷くハッキリと耳へと突き刺さった。

 

 

 熱が冷めるのは、一瞬だった。

 滾る衝動のまま、右手を里香の服の中に潜り込ませようとしたその時、

 ポタン

 か細い音が、微かに響いた。

 ハッと我に返る。

 そこで、僕は初めて里香の顔を見た。

 綺麗な顔が、怯える様に震えていた。

 ギュッと閉じた目尻に涙が浮かび、床に滴っていた。

 瞬間、僕の内で猛犬の様に荒ぶっていた衝動が、それこそ水でもぶっかけられたみたいに静まった。

 何だ!?

 何をしようとしてたんだ!?

 熱を急激に冷やされた頭が混乱する。

 沸き起こる後悔と罪悪の念に引き剥がされる様に、僕は里香の身体を離していた。

 そのまま、里香の視線から逃れる様に後ろを向く。

 「裕一……?」

 身を起こす里香。

 戸惑う様な声で、訊いてくる。

 「どうしたの……?」

 問いかける声。

 答えなんか、出やしない。

 里香に背を向けたまま、「ごめん」と呟く。

 「……どうして、謝るの?」

 里香は言う。

 「いいって言ったのは、あたしだよ……?」

 「違う……」

 「裕一は、ああしたかったんでしょ……?」

 「違うんだ……」

 「だから……」

 「違うんだよ!!」

 思わず、大きな声が出た。

 背後で、里香がビクリと竦む気配がした。

 「………」

 「………」

 僕達の間に、沈黙が降りる。

 さっきまでの熱が嘘の様な、肌寒い沈黙。

 頭の中が、ぐるぐる回る。

 どうして、こんな事になったのだろう。

 こんな事、望んでいた筈じゃなかったのに。

 里香が、いいって言ったから?

 違う。

 僕が里香を。

 彼女を、そこまで追い込んでしまったのだ。

 蓮華なんか、関係ない。

 結局は、僕が弱かったから。

 その結果が、これ。

 二回も、里香を傷つけてしまった。

 心も。

 身体までも。

 馬鹿だ。

 本当の、本当に、大馬鹿だ。

 何だか、鼻の奥がツンとする。

 目頭が、熱くなってきた。

 気づくと、目から涙が溢れていた。

 ああ、何泣いてんだよ。

 そんな立場じゃないだろうが。

 こらえようとすればするほど、こみ上げてくるものが止まらなくなる。

 いっそ、舌でも噛んでしまおうかと思ったその時、

 ふわり

 温かい感触が、背中を包んだ。

 

 

 「抜け殻になる」という言葉がある。

 少年を亡くした後の如月鈴華が、まさにそんな状態だった。

 学校に行かなくなり、趣味だった歌や作曲にも興味を示さなくなり、一日中部屋に閉じ篭って虚空を見つめて過ごすようになった。

 それはまるで、心も、気力も、残りの人生も、その全てを少年に持っていかれた様な有様だった。

 そんな彼女を、周りの者も手をこまねいて見ていた訳ではない。

 特に、如月蓮華は必死だった。

 まるで鈴華自身が少年にそうした様に、毎日彼女の元に通ってはその隣に寄り添い続けた。

 幼い頃の思い出を話し、かつて共に思い描いた未来の夢を語った。時には二人で作った歌を歌って聞かせ、そして部屋には小さい頃に一緒に摘み遊んだ花を飾った。

 しかし、それでも如月鈴華の瞳に光が戻る事はなかった。

 もう、このまま時の流れがその傷を癒してくれるのを待つしかないのではと、皆が思い出した矢先――

 如月鈴華が、如月蓮華に家族一緒に遊びに行こうと誘いをかけた。

 その事に、如月蓮華はもちろん、二人の両親も喜びに沸いた。

 その日、昔家族で訪れた遊園地で、如月鈴華は久方ぶりの笑顔を見せた。

 それを見て、如月蓮華とその両親も心から喜んだ。

 この時、二つに解れていた家族の心は、如月鈴華を通して確かに繋がっていた。

 懐かしい、そして暖かい一日だった。

 

 ――そしてその夜、如月鈴華は己の命を絶った。

 冷たい浴槽の中。切り開いた手首に、真っ赤な華を咲かせて―

 

 

 その温もりの正体は、すぐに分かった。

 里香が、僕を背中から抱き包んでいた。

 「裕一」

 里香が、僕を呼ぶ。

 答える声は、出せなかった。

 「裕一」

 また、呼ばれた。

 でも、やっぱり声は出ない。

 答える術もないまま、垂れる鼻水を拭おうとしたその時、

 「裕一!!返事しろ!!」

 バンッ

 大きな声と一緒に、背中を思いっきり叩かれた。

 「イッテー!!」

 堪らず飛び上がる。

 「な、何すんだよ!?」

 怒鳴りながら振り返ると、こっちを見つめていた里香と目があった。

 思わず、固まってしまう。

 しばしの間。

 そして――

 「アハ、アハハハハ」

 里香が、笑いだした。

 「裕一、顔すごい。ぐちゃぐちゃ」

 言いながらハンカチを取り出すと、僕の顔を拭う。

 「ほら、これでよし」

 そう言って微笑む顔はとても綺麗で、思わずドキリと心臓が鳴った。

 「ほら、ハンカチ、ちゃんと洗って返してよね」

 里香の手が、ベトベトになったハンカチを握らせてくる。

 「わ、分かった……」

 ハンカチを受け取る瞬間、手が重なる。

 瞬間、

 クンッ

 そのまま、里香の手が僕の手に絡んできた。

 ハンカチが、床に落ちる。

 僕達は、自然と抱き合っていた。

 さっきの、荒々しい感情はもう湧かなかった。

 とても静かで、優しい抱擁。

 すぐ近くに、里香の鼓動を感じる。

 里香もきっと、僕を感じている筈だった。

 「……裕一」

 里香が言った。

 呟く様に。

 小さな声で。

 「……何だ?」

 「そんなに、長くはないよ……」

 その言葉を聞いたとき、僕はまたドキリとした。

 それは、あの夜の言葉。

 あの半月の下、暗い病室で交わした、あの言葉。

 「でも、短くもないよ……」

 僕の腕の中で、僕に身を委ねながら里香は続ける。

 「あたしのために、何もかも諦めなくちゃいけなくなるよ……」

 「………」

 「いいの?」

 それは何かを恐れる様な、そして何かに怯える様な、そんなか細い声だった。

 「本当に、いいの?」

 また、言った。

 細い肩が、震えていた。

 里香は屋上で、蓮華に何をされたのだろう。

 蓮華に、どんな言葉をぶつけられたのだろう。

 その心が、酷く傷ついている事がその肩の震えから察せられた。

 僕の心に、改めて怒りが湧き起こる。

 今すぐ蓮華のところに戻って、ぶん殴ってやりたい衝動に駆られる。

 だけど、今はその時じゃない。

 今しなきゃいけない事は、たった一つだった。

 里香を抱き締める腕に、もう一度力を込める。

 その肩が、ビクリと震えた。

 その耳元で、僕はささやく。

 「わかってる」

 里香と同じ様に、僕もあの時の言葉を繰り返す。

 「全部、わかってる」

 俯いていた里香の顔が、僕の方を見る。

 僕を見つめる目が、濡れていた。

 「ずっと、いっしょだろ。里香」

 「……うん」

 細い腕が、僕の背に回る。ギュッと抱きしめられる感覚。

 里香が目を閉じ、顔を寄せてくる。

 それに答える様に、僕も顔を寄せる。

 廊下の窓から差し込む月明かりの中で、僕らの影が重なる。

 いつの間にか、窓の外には大きな半月が浮かんでいた。

 

 

 秋庭里香と戎崎裕一は気付かない。

 自分達を包む月の光の外。

 廊下の端。階段。その、踊り場。

 暗い、暗い闇の澱み。

 その中から、自分達を見つめる目があった事を。

 如月蓮華。

 闇の中、彼女は光の中の秋庭里香と戎崎裕一を見つめていた。

 その目に、暗く冷たい炎を燻らせながら。

 ジッと。

 ジッと見つめていた。

 

 

 空には、大きな半月が浮かんでいた。

 月明かりの差し込む廊下。

 その光の中で、僕達は抱き合っていた。

 里香の細い腕が、僕の身体をギュウと抱き締めてくる。

 トクン

 トクン

 ピッタリとくっついた身体を通して、里香の鼓動が伝わってくる。

 さっきまで、千々に乱れ、早鐘の様に鳴っていたそれは、今はすっかり平穏を取り戻している。

 それを確かめる様に、僕もギュウと里香を抱き締める。

 「里香……大丈夫か?」

 さっきから何度もした問いを、僕はまた繰り返す。

 「……うん」

 里香も、何度も繰り返した答えを繰り返す。

 「裕一、少ししつこいよ?」

 半ば呆れた様な顔で、里香が言う。

 「だってさ……」

 僕の言いたい事を悟る様に、里香はコツンとおでこを僕の胸につけた。

 「ゴメンね……」

 「……お前があやまることじゃないだろ」

 「……そうかな?」

 「そうだろ」

 いつになくしおらしい里香。それがたまらなく愛おしくて、僕は彼女の頭をクシャクシャと撫でた。

 すると、里香がウフフ、と笑った。

 くすぐったかったのか、それとも別の理由なのかは分からないけれど、とにかく笑った。

 それは、ここしばらく見たことのなかった里香の笑顔。

 それが嬉しくて、僕もウハハ、と笑った。

 ウフフ、ウハハと僕達は笑い合う。

 笑いながら、僕は如月蓮華の事を考えていた。

 蓮華に対する怒りは、まだ胸の中でグラグラと滾っている。

 だけど、今はそれ以上に、勝ち誇る気持ちの方が強かった。

 ざまあみろと言う気持ちだった。

 これが、僕と里香だ。

 お前なんかの割り込む隙間なんか、ありゃしないんだ。

 ふと、僕に突き飛ばされた時の、あいつの顔が目に浮かぶ。

 親を見失った子供の様な、捨てられた子犬の様な、悲しげな顔。

 だけど、憐憫の情は少しも起きない。

 あいつは里香を傷つけた。

 あれくらい、当然の報いだ。

 そう言えば、あいつはまだ、ここにいるのだろうか。

 あいつの事だ。ひょっとしたら、またどこかで見ているかもしれない。

 構うもんかと思った。

 この様を見て、とことん思い知ればいいんだ。

 僕は、何処かにいる蓮華を思いっきり嘲笑った。

 

 

 「忘れ物、ないか?」

 「うん。大丈夫」

 教室から鞄を持って出てきた里香は、僕の問いにそう答えて頷いた。

 「じゃ、帰ろうぜ」

 そう言って、僕は手を差し出す。

 その手を、当たり前の様にとる里香。

 「暗いから、足元気をつけろよ」

 「分かってるよ」

 僕達の会話は、もうすっかりいつもの調子に戻っていた。

 それがたまらなく嬉しくて、僕は月明かりの差し込む廊下を里香の手を取り歩きながら、ニタニタとわらった。

 「裕一、何ニタニタしてるの?」

 そんな僕の顔を見て、里香が気味悪そうに言う。

 「そうか?ニタニタなんてしてたか?」

 しれっとしながら、そんな事を言ってみる。

 「してた。あ、ほら、またしてる。気持ち悪い」

 里香がそう言いながら、顔をしかめる。

 うん。いつもの里香だ。

 さっきまでのしおらしい里香もいいけど、里香はやっぱりこうでなくちゃ。

 僕はニタニタと笑いながら、気味悪がる里香の手を引いて歩いた。

 

 

 「………」

 「………」

 話し終わった如月蓮華の母親が、冷めたお茶で口を湿らした。

 「それ以来、蓮華もすっかり変ってしまった……」

 如月鈴華を、自分の半身を失った彼女は、次第に攻撃的になっていった。

 外界からの干渉を拒絶し、否定し、侮蔑した。

 そしてそれは、他人だけに納まらず、彼女自身の親、親類にさえも及んでいた。

 如月蓮華は孤立し、そしてその孤独の中で、心の刃をますます研ぎ澄ませていった。

 ……おそらく、と吉崎多香子は考える。

 今の如月蓮華にとっては、この世の全てが敵なのだろう。

 自分達姉妹を別った両親も。

 それを良しとした親類縁者も。

 如月鈴華の全てを持ち去った少年も。

 そして、愛する姉をこの世に繋ぎとめられなかった自身さえも。

 自分から如月鈴華を奪った世界の全てを、彼女は敵視し、拒絶しているのだ。

 孤独という、闇色の殻に閉じ篭りながら。

 「ねぇ、吉崎さん……」

 言いながら、如月蓮華の母親が、持っていた湯飲みをテーブルに置く。

 コトリ

 湯飲みがテーブルに置かれる音が、妙に大きく聞こえた。

 「わたし達は、一体何を間違っちゃったのかしら……?」

 問いかけてくる、闇色の言葉。

 「……あの夜、あの娘を一人にしてしまった事……?あの日、あの子の心を読み違えてしまった事……?あの娘が、“彼”を選んでしまうのを、止められなかった事……?あの娘を、あの学校に入れてしまった事……?あの娘達を、別けてしまった事……?両親(わたし達)が、別れてしまった事……?」

 そう。この(ひと)も同じ。

 己の娘を、救えなかった自分。

 もう一人の娘を、救えない自分。

 それを嫌悪し、呵責し、苦しんでいる。

 終わりのない自責と言う、闇の泥濘に溺れながら。

 「ねぇ、何?何かしら……?」

 続けられる問いかけ。

 答えはない。

 答えられる筈もない。

 吉崎多香子は思い知る。

 死に寄り添われる者と共に生きる。

 それが、何を意味するのか。

 その事を、自分がいかに安易に考えていたのか。

 吉崎多香子の前には、戎崎裕一と秋庭里香という存在がある。

 彼らの物語を知ってから、秋庭里香と近しい仲になってから、自分は“その事”に関して他の人間よりも理解があるつもりになっていた。

 しかし、それはただの幻想だったのかもしれない。

 丁度、世間を知らぬ小娘が、テレビの中のスターに憧れる様に。

 その表の眩さだけに魅せられて、その影にある闇から目を逸らしていたのかもしれない。

 そして、改めて認識する。

 この闇は、あの戎崎裕一と秋庭里香の影にも、確かに潜んでいるのだと。

 あの光の中にある様な輝きは、闇の上に置かれた平均台を、二人三脚で渡っている様なもの。

 一歩でも足を踏み外せば、闇は何の容赦もなく、“彼ら”を呑み込んでしまうのだろう。

 背筋が震えた。

 考えたくない。

 考えたくもない。

 けれど、それが事実なのだ。

 どうしようもなく冷酷な、だけど歴然たる事実なのだ。

 気付けば、如月蓮華の母親は泣いていた。

 如月鈴華の遺影を、赤ん坊でも抱くように腕に持ち、その上にポロポロと涙を落としながら。

 そこにあるのは、平均台から落ち、闇に呑まれた者達の姿。

 いつかは、“彼ら”がたどり着いてしまうだろう場所。

 “その時”が来た時、彼はどの道を辿るのだろう。

 如月鈴華の様に、全てを捨ててしまうのか。

 この母親の様に、ただ遺され、涙にくれるのか。

 それとも……

 そこで、吉崎多香子はある事に思い至る。

 「――っ!!おばさん!!」

 思わず、吉崎多香子は叫んでいた。

 「?」

 突然の呼びかけに、如月蓮華の母親が顔を上げる。

 「さっき、言ってましたよね!?如月さんは、心臓病の勉強もしてたって!!」

 「ええ……。鈴華に教えるために、それはもう、一生懸命……」

 「鈴華さんのお相手に、会った事は……!?」

 「何度かあるわ……。鈴華が、あの娘達を馴染ませようとして……」

 やっぱり。

 吉崎多香子は確信する。

 “彼女”は、学校の中では目立つ存在だ。

 他の生徒から、病気を持ってるらしい事や、体育関係の授業や行事はいつも見学している事ぐらい、聞きだすのは容易だろう。

 加えて。

 それほど知識があるのなら。

 それだけ近くで、実際の患者を見た事があるのなら。

 分かるのかもしれない。

 その所作から。

 そのそぶりから。

 そう。

 彼女は、如月蓮華は気付いたのだ。

 秋庭里香の病に。

 戎崎裕一が選んだ運命に。

 それが、意味するものに。

 たどり着いた。

 そう確信した。

 如月蓮華の想い。その、彼女の真意に。

 何故、あんなにも戎崎裕一に執着するのか。

 何故、あんなにも秋庭里香に敵意を持つのか。

 そう、彼女はやり直そうとしているのだ。

 あの時、渡りそこねた平均台。

 それをもう一度、たどり直すために。

 

 

 「すっかり遅くなっちゃったね」

 月明かりと外灯の光の中、自転車置場から自転車を引っ張り出す僕に向かって、里香がそう声をかけてきた。

 「そうだな」

 自販機で買ったパックのジュースを啜りながら、僕は答える。

 実際、全くもってその通りだった。いつもなら、そろそろ夕食の時間。さっきから、腹がグウグウ鳴っている。ジュースでも飲まなきゃ、やってられない。

 「叱られるかな」

 「適当に誤魔化しちゃえよ」

 ちょっと心配そうな里香に、僕はそう言った。

 「適当って?」

 「日直で先生に用事を頼まれたとか言ってさ」

 「嘘つくの?」

 里香が、少し嫌そうな顔をする。

 里香は、あまり嘘が好きじゃないのだ。

 「仕方ないだろ。本当の事なんて、説明のしようがないし」

 「そうでもないよ」

 僕の言葉に、里香がニヤリと笑ってそう言った。

 何か、嫌な笑いだ。

 「……何て言うんだよ?」

 「裕一に襲われてたって言う」

 ブッ

 思わず、含んでたジュースを噴出してしまう。

 って言うか、少し気管に入った。

 盛大にむせてしまう。

 そんな僕を見て、里香はケタケタと笑う。

 いやいや、笑い事じゃないぞ。

 せきが止まらない。

 マジで死にそうだ。

 「い……いや、お前、あれは……その……その……」

 涙目で弁解する僕に、里香が笑いながら言った。

 「ウソウソ、そんな事、言わないから」

 お前、嘘嫌いなんじゃなかったのかよ。

 心の中で抗議しながら、僕はもう一つ、ゲホリとせきをした。

 

 

 「遅くまで、お邪魔しました」

 玄関口まで送りに出てきた如月蓮華の母親に向かってそう言うと、吉崎多香子はペコリとお辞儀をした。

 「いいのよ。それよりも……」

 如月蓮華の母親はそこで言葉を区切り、吉崎多香子の顔をじっと見る。

 「わたしのお願い……聞いてくれる?」

 その言葉に吉崎多香子はしばし逡巡し、そしてこう答えた。

 「約束はできません……。でも、善処してみます……」

 まるで、何処ぞの官僚の様な、見方によっては無責任とも言える返答。

 しかし、その言葉に如月蓮華の母親はその表情を緩ませる。

 「……十分よ。ありがとう……」

 そうして、吉崎多香子の長い時間は終わりを告げた。

 

 

 「じゃ、行くぞ」

 「うん」

 荷台に乗った里香に、そう声をかける。

 しっくりと、落ち着く感触。

 ああ、やっぱりここは“里香の場所”だ。

 そんな事をしみじみと思いながら、こぎ出す前に僕はもう一度里香の方を確認した。

 里香は、じっと校舎の方を見ていた。

 夜闇の中、月明かりに浮かびあがるそのシルエットは、昼間とはまるで違う印象をうける。学校の怪談なんか信じるたちじゃないけど、なんて言うか気味が悪い。一階の、職員室の辺りはまだ灯りが点いているけれど、それ以外の場所はもう真っ暗だ。

 そんな校舎を、里香はじっと見つめていた。

 いや、見つめていたのは、校舎だろうか。

 僕には何となく、校舎のもっと上の方。そう、屋上の辺りを見つめている様に見えた。

 僕もつられて、目を凝らしてみる。

 月明かりの屋上。そこを覆う転落防止用のフェンス。その上に――

 ちょこんと座る、人影が見えた様な気がした。

 気付いた瞬間、その人影もこちらを見ている様な気がして、思わず総毛が立った。

 まさか。

 いくらなんでも。

 けれど――

 「里香、行くぞ!!」

 里香の答えを待たず、僕は勢いよくペダルをこぎ出した。

 驚いた里香が抗議の声を上げるが、それにも構わず無我夢中でペダルをこぐ。

 背中に感じる視線。

 それから逃げる様に、僕は必死にペダルをこぎ続けた。

 

 

 人気の失せた学校。

 月明かりに照らし出される、無人の屋上。

 「♪……君は王女 僕は召使い……♪」

 そこに、何処からともなく、たおやかな歌声が流れる。

 「♪……運命分かつ 哀れな双子……♪」

 青い月の下、白と黒の陰影だけに支配された世界。

 その中で、如月蓮華は一人フェンスに座り、“その歌”を歌っていた。

 「♪……君を守る そのためならば……♪」

 誰が聞くでもなく、誰に聞かせるでもなく、歌はただ、無人の屋上に流れては消える。

 「♪……僕は悪にだってなってやる……♪」

 無造作に投げ出された足が、テンポをとる様にカツンカツンとフェンスを鳴らす。

 「♪……もしも……♪」

 虚ろな眼差しが見つめるのは、“彼ら”が去っていったその方向。

 けれど、見つめるその場所に、もう求める人の姿はない。

 「♪……生まれ変われるならば……♪」

 虚空を見つめる瞳。

 一滴の雫が、その頬をすべる。

 「♪……その時はまた遊んでね……♪」

 言葉の結びと共に、こぼれた滴が闇の中へと落ちて消えた。

 

 

                                   続く


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