森を突っ切ると、月の明かりに照らされた水面が眼前に広がった。そのことにほっと一息つこうと思った私だったのだけど、それは容易には叶わない。
魔物を蹴散らしてやっとのことで湖に辿り着いた私たちは、祠があったであろう湖のほとりにあった小山が崩れる場面に遭遇したのだ。そしてそこからのっそりと立ち上がった"それ"に、思わず気が遠くなる。
「でかい……」
「うっわ……引くわー」
前世基準で言うなら十階建てのビルくらいの大きさだろうか。私達の目の前、湖の対岸には、巨大な魔人が異様な存在感でもってそびえ立っていた。満月背負っている演出が無駄に格好良いのが腹立つ。
え、マジであれと戦う感じなの? 村人とっちめるどころじゃ無くなってるんだけど。
狼狽える私とは裏腹に、横に居るハウロさんは引いてはいるけど落ち着いていた。
「趣味悪ッ。なに、あの無駄な魔力の使い方。インフェルノパンテーラが配下に居るから見直したのに、こりゃあ火力はあっても大したこと無いなー」
「そうなんですか?」
「うん、あれと比べるならオレの知り合いの方が怖いよ。てかさぁ、エルもあれが怖いって思うー?」
言われてみれば、大きさに気圧されはしたけれど威圧感は大したことが無い。時間が経っているから感じ方は変わっているだろうけど、十二年前に出会った盗賊の方が私は怖いと思う。
じっと観察していると、巨大なのは体だけで魔力がそれに伴っていないことに気が付いた。
「あー……、何ですかね。中身、スカスカ?」
「そうそう。密度を保ってあの大きさならオレ、即逃げるから。でもあれは平気~」
じゃあサクっと終わらせて来ようぜ、と言うハウロさんが頼もしすぎた。本当にこの世界は侮れないな……。ハウロさん一見気さくな近所の兄ちゃんなのに凶悪な魔法使うし、あんな巨大生物相手でもちょっとそこまで、なノリで倒しに行こうとするし。
いくら強そうに見えなくたって、大きいってのはそれだけで脅威になりえると思いませんか? と聞いてみたい。……でも思ってないっぽいなぁこの人。むしろちょっと楽しそう。あれかな、怪獣にわくわくしちゃう男の子の心理的な?
でも冒険者ではないハウロさんがこの余裕なら、アルディラさんやポプラは心配無さそうだな。
だったらせめて私はコーラルとエキナセナの保護だけでもしなければ。
そう意気込むと、私もハウロさんの後を追って湖の対岸へ向かった。
思ったより苦戦していた件。
魔人の足元に到着した私が目にしたのは、コーラルを背に庇いながら頭から血を流すエキナセナと、膝をついて血の滲んだ脇腹を押さえているアルディラさん。仰向けになって倒れているポプラだった。
え、ポプラの手足が曲がっちゃいけない方向に曲がってるんだけど!?
「わあー!? ちょ、だいじょう……大丈夫じゃないですよね見ればわかれって奴ですよね!!待っててください、今どうにかしますから!!」
思わず叫びながら駆け寄った。
つーか先に行ったはずのハウロさん何処行った!? いつのまにか居ないんだけど! 私一人でどうしろって!?
『オヤ、新しいお友達デスかぁ?』
何か聞こえた。鼓膜がビリビリする。…………いや、今は無視しとこう。
私は久しぶりに使用する蒼黎術の
かろうじて意識を保っていただけなのか、アルディラさんとエキナセナは
「うっわ、酷いなこれ……」
『ワタクシの話し、聞いていまス?』
「あ、すいません。取り込み中なので少々お待ちいただけますか」
『ホホう、なかなか丁寧な方デスね。いいでショウ、お待ちします』
マジか。ダメもとでお願いしたらこの魔人きいてくれたよ。
多分いつでもぺちって潰せちゃうぜっていう余裕からなんだろうけど、今はありがたくその傲慢に甘えておこう。今最優先すべきはアルディラさん達の治療だ。
魔人が待ってくれるようなので、私は彼女たちの治療に取り掛かった。
もちろん不意打ちに備えて意識の根は周囲に巡らせてあるので、魔人が攻撃してきても
まずは、ポプラか。血はあまり流してないけど、これ全身の骨ぐっしゃぐしゃだよ多分。えぐい。下手したら折れたあばらが内臓に突き刺さってる。えぐい。
一か八かで悪いけれど、私の白霊術じゃとても治せそうにないので賭けに出た。
『
蒼黎術に属するこの魔法は、対象を数分前の状態まで戻すものだ。
発揮される効果は魔法の練度と、使用した魔力量からランダム。私だったら五~十分圏内か。生き物、それも人間でためすのは初めてだけど、これが駄目だったら白霊術を魔力切れするまでかけ続けるしかない。
効果時間圏内よりも前にこの状況になったのだったら無意味だけど、術を施したポプラの体は蒼銀の光を発して正常な状態に戻って行った。私はそれに安心するが、ふと思い至る。…………ちょっと待て。巻き戻される速度からしてこの傷今から二分以内にやられたってことになりそうなんだが。…………この怪我全部? 二分以内?
チラっと後ろを振り返る。
『?』
にこって巨大な男に微笑まれた。何これシュール。
やっべぇぇぇぇッ。やっぱこいつ強いかも!
これ傷を治しても、やっぱり詰むんじゃない? ハウロさんに言われて大したことないかもって思ってたけど、あの人やっぱり近くで見たらヤバそうだからって逃げたんじゃ……。
と、とりあえず先に治療だ治療。
アルディラさんとエキナセナは目立った外傷はそれぞれ額と脇腹で、あとは多少の切り傷と打ち身ばかりのようだ。
回復を促す刺繍布が無いのが悔やまれたが、そう思っていた私の視界にアルディラさんの手が映った。そこには私が彼女専用に作った魔纏刺繍を施した長手袋がはめられている。
海の女神を古代魔法言語で、その周りに水滴と魚、花を象った刺繍。付与した魔法効果は「水の魔力の浸透、循環をスムーズにする」ことと、「筋力増加」「滑り止め」。
(水……)
ふっと思い立ち、実行してみることにした。
アルディラさんから手袋を一枚引き抜き、エキナセナにはめる。両者の手袋のはまった方の手をとると、黒霊術の水の属性術を展開し始めた。
効果を顕現させずに魔力を流すだけなら「水水水」と心の中で古代魔法言語で唱えているだけでも事足りるので試してみたけど、刺繍の付与効果が私の魔力を弊害なく彼女たちに注いでくれる。私はそこで魔法の質を変換するイメージを組み立てて、浸透した水の魔力を白霊術に置き換えて発動させる。
どうやら成功したみたいだ。
私が安心して胸をなでおろしていると、ぶわっと生暖かい風に包まれた。うわなにこれ臭ッ!
『ホウ、異なる術の途中変換トハ、器用な事をするものデスねぇ』
「わあ!?」
先ほどは天からスピーカーを使ったように響いていた声が、すぐ間近で聞こえてビビる私。耳を塞いだけれどすでに遅く、きーんと耳鳴りしている。……今の生暖かい風ってもしかしてコイツの息か。うわ最悪だ気持ち悪い。
魔人は天にそびえていた巨体を膝を折り曲げて屈ませていた。所謂ウンコ座りである。巨大な顔が間近に迫ったことで、ある意味よりその威圧感を増していた。
つーかこいつ顔濃ゆいな! 眼が大きい割に白目無いし改めて見たら真っ赤な唇が光って見えるのはラメラメな口紅っぽいし、口の中歯赤黒くてお歯黒みたいになってるし、何よりにんまり笑う表情がとてつもなく気持ち悪い! あと息臭ッ! めっちゃ生臭いんだけどコイツ何食ってんの!?
あまりの迫力と臭さに、反射的に目潰しした私は悪くない。
『グぎゃ!?』
「あ、」
『き、キサまぁぁぁあああああぁぁぁぁぁ!!』
ちょうどいい感じに近くの地面に手をついていた魔人の腕に凶器(爪)があったから、思わずそれを指から引きはがして魔人の目に突き刺してしまった。反省はしていない後悔もしていないが、なんとなく感じるやっちゃった感。
でもやっちゃった私も私だけど、魔人なら避けてみろよ! 小さい敵のスピードに対応出来ないのに図体だけでかくなるとか完全なる悪手じゃねーか! だから逆切れとかすんじゃねーぞ!
『許さない、許さナイ!! ワタクシの美しい顔に傷ヲ、』
無理だった。そら、普通に怒るわな……。
そして私の口は更に余計な言葉まで吐き出した。
「え、美しい? いや~、無理あるでしょ。せめてその趣味悪い口紅やめてから言えば?」
『ぬがぁぁぁぁぁぁ! これはワタクシの流行最先端んんんんんんんんんんッッッ!!』
余計に怒らせた! ですよね!
私の馬鹿! つい突っ込んじゃうのとかやめよう!? 後ろに気絶した怪我人居るのに!
それにしてもナルシストみたいだけどお前の顔初めて見た時の感想「グレイ?」だったからなッ!! 断じてバンド名では無い。宇宙人の方だから! 白目無い眼が大きさといい形といいそっくりなんだよ!!
「ん……」
「え」
狂ったように叫ぶ魔人の耳触りな声の中、その可愛らしい声が妙にはっきりと聞き取れた。それを辿って後ろを振り返れば、チェリーレッドの前髪の下で空色の瞳がうっすらと開かれようとしている。
このタイミングで、よりによってコーラルちゃんが起きる……だと!?
「ぅ……あ、ああ!?」
予想通り魔人を見たコーラルちゃんは、恐怖に顔を歪ませた。しかし懸念していたパニックよりも先に、少女は魔人に怯えながらも声を張って何事かを問いかける。
「みんな、みんなをどうしたの! あ、あたしの、お友達、だったのに! うあ、」
お友達? まさかコーラルちゃん達を攫った村人じゃないよねと怪訝な顔をする私が目に入っていないのか、コーラルちゃんは魔人の臭い息をものともせずに更に言葉を続けた。
私はとっくに口呼吸だっていうのに、強い。
「えき、ナセナさんや、アルデ、ラさん、ポプラさんまで、酷い酷い酷い! あたしの友達も返して! もとに、戻してよォ!!」
『はァん? 羽虫が煩いですネ。弱い方が悪いのデス。それよりも、ワタクシを傷つけた貴様はヨリ惨めに痛めつけてサシアゲマショウ!!』
言うなり、魔人の残された片側の瞳が緑に輝いた。
「ヤバっ」
焦った私だったけど、その効果は私だけに集中しているようだ。後ろに攻撃が届いていないことに安心しつつ、自身の体を取り巻いた魔人の魔法に目を向ける。
蛍光色に点滅する文字は全て
『皮フを酸で焼け爛れサセ、醜いサマを晒すがイイ! そうしたら、ワタクシのお人形にしてさしあげマスよ! そこのボウヤのように一瞬で終わらせまセン。体中のホネを一本一本砕いていきましショウ。嗚呼、ああ、いいですねぇェえ!』
聞く限り
けどこういう場合の対処法は、過去にカフカの洞窟でアゾットワームという魔物相手に学習済みなので問題無い。
私は体の周囲に蒼黎術、
『な!? 何故、何故溶けない!』
答える義理も無いので
魔人は自分の思い通りにならなかったのが悔しいのか赤黒い歯をギリギリと噛みしめるが、すぐに何か思いついたのかニヤリと笑って見せた。
『ハハハハハ、セッカクデス。喰らった精霊ヲ試してみまショウ!』
「え、精霊を食べた?」
「!」
それに強く反応したのはコーラルちゃんだった。涙で潤んだ瞳を恐怖以上に怒りで染めて、喉が裂けてしまいそうな声で叫ぶ。
「ヤメてェェェェ!! みんなを、悪いことに使わないで!!」
魔人はコーラルちゃんの叫びなど聞こえていないように、赤い口をカパっとあけた。するとその喉の奥から色とりどりの光の玉が複数飛び出してくる。その玉自体は美しいのに、それには脈打つ黒い根が這っていた。
『陽だまりの精霊、水の精霊、風の精霊、樹木の精霊、花の妖精、石の妖精、水草の妖精、ナドナド。フハハ、種類と数だけは多かったですからね、楽しい花火が見られますよォォ』
魔人が光る玉のひとつを操るように腕を振るうと、その風圧が体を襲う。舞い上がった砂に目を細めると、その隙に光球が私の眼前に迫っていた。
すぐに撃退しようと魔法を放つために腕を前へ伸ばした私だったけど、それを止める悲痛な声がした。
「お願いやめてぇ! あたしのお友達なの!」
「!」
思わず一瞬動きが止まる。その機会を魔人が見逃すはずも無く、魔人の男は親指と人差し指を打ち鳴らした。
「わっ!」
光球が強烈な熱とオレンジ色の閃光を放ちながら弾け飛び、私を襲う。とっさに腕を前で交差させて塞いだけれど、肉を焼かれる痛みと共に後ろへ吹き飛ばされた。藪につっこんで、細い枝を折りながら進みようやく途中で止まる。
「いてて……」
まともな痛みを感じて怪我するのって、もしかすると十二年ぶりかもしれない。なんか似たような痛さに覚えがあるなと思ったら、ドラゴンの息で焼かれてぶっ飛ばされた時もこんな感じだった。懐かしい。
「エルさん!」
コーラルちゃんが吹き飛ばされた私に駆け寄ってきて、ボロボロと涙をこぼして縋りついてくる。
「ごめ、ごめんなさい、あたしがとめたから、ひ、ひどい、けが。うあ、ああ、ごめ、なさいごめんなさいごめんなさい……!」
「あ、いやいや、大丈夫大丈夫。これは俺の判断ミスだから。受けないで逃げればよかったのにねー」
酷い怪我ってこの火傷かな? まあまあ痛いけど、私意外としぶといからこれくらい平気だって! 後で治してもらったけど、幼女時代に一回骨見えるくらい肉焼かれたことあるから!
……いや、嘘だけどね。超痛いけどね。でも年下の女の子の前でこれ以上醜態晒せないって言うか不安にさせちゃいけないっていうか。
だからとりあえず我慢だよ! 超痛いけど!
「それより、今のがコーラルちゃんのお友達で、その、精霊なの?」
「……う゛ん」
鼻水をすすりながら頷くコーラルちゃんに、そっかと返す。
でも今のを見ると、もう魔人の力の一部になっているってことかな? コーラルちゃんには悪いけど、次は潰させてもらわないとこちらが危うい。
「コーラルちゃん。ごめん、次は……」
「わかて、ます……」
「辛い?」
「…………ひとりぼっちだった、あたしの、おとぼだち、だた、から」
嗚咽まじりの言葉は聞き取りづらかったけど、その心境は容易に伝わってきた。きっとコーラルちゃんにとっては、精霊は私にとってのルーカスのみんなのような存在なんだろう。非常にやり辛い。
でもさ、あれだ。精霊爆弾ぶつけられる前に奴の本体メッタメタにしてやればいいんだよね。むしろお姉ちゃんがアイツの胃の中身全部吐き出させてやんよ。
(最悪一寸法師方式で内側からぐちゃぐちゃにしてやっからな!)
さっきの怪我が思った以上に痛くてちょっとキレてきた。よっしゃ、これなら行ける、これならビビらずに行ける。
だんだんアドレナリン大量分泌でふっきれてきた私は、コーラルちゃんを安心させたくて目線を合わせて笑って見せた。
「俺じゃ頼りないけど、守るから。待ってて」
絶対守ると言えないあたり残念だけど、ここで逃げてもあの巨体じゃすぐに追いつかれてしまう。正面から戦って勝利を収めるほかない。
私が立ち上がり徐々に魔人に近づいていくと、余裕の態度で私たちのやり取りを傍観していた魔人が光球を手で遊ばせながら言葉を発した。
『守るマモル護る……美しいですねェ美談ですねェ、でもワタクシ、虫とはいえ足手まといで守ってもらうダケノ役立たずってキライなんですよねぇ。見ていて苛々しまして』
言うなり、魔人の手元から光が浮かび上がる。そして。
「あ!?」
『というわ・け・デ。先にそちらの赤い虫から駆除しましょうか!』
止める間もなく、光球がコーラルへ向かった。すぐに
「コーラル!」
夜の闇を切り裂いて、光が空間を満たした。