無職転生if ―強くてNew Game― 作:green-tea
--- 変数が3つになっている可能性を考慮せよ ---
一行はドナーティ領を抜けて小さな川を渡り、昼過ぎには関所を訪れた。
関所の向こうには森があり、うねった道を通り抜けると
その先はしばらく無法地帯だ。山は赤竜が支配し、平地や森は魔物が跋扈する。
アスラ王国内の道程に比べると危険は段違いに増す。
といっても魔物はせいぜいBランク。
群れる習性を持たないのでAランク以上の冒険者チームを護衛に雇えば危険な目に遭う心配は不要だ。
剣士だけでも聖級の闘気を扱えるパウロとエリス、帝級扱いの俺、元中級剣士のリーリャ。
さらに中級治癒師のゼニスと水王級魔術師のロキシー。魔物相手に娘2人を守って旅をするにしてもお釣りがくるほどの戦力だ。
ただし、森の中や一本道の逃げ場のない渓谷は待ち伏せに適していること。
ブエナ村の襲撃者が告げたアスラ王国を離れるなら追手を出さないという条件が満たされたことによる油断。
それらを勘案すると待ち伏せている可能性はアスラ王国を抜けた後の方が高くなる。
とにかく、これからが旅の本番ということだ。
気を引き締め直そう。
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城門とその上に築かれた石の砦、城門の両手には城壁が連なる。
城門の左手前には木の柵で囲われた練兵場があり、数人の騎士風の男たちが汗を流しているのが見えた。
城門の前まで馬車で辿り着くと中から守衛の兵士が2人、彼らに守られるように役人が1人出てきて、パウロと言葉を交わしている。
俺はその光景を目立たないように荷車から窺った。
「食事も休む場所も提供させていただきますので1日程滞在していただき、司令長官との面談を受けていただけないでしょうか」
「なんだって?」
パウロの声がひと際大きくなったので荷車の中の他の家族も不穏な雰囲気を感じ、耳をそばだてる。
語気は荒くないが、それはパウロ自身がそれを隠しているだけだ。
役人はそんなパウロの隠された気持ちに屈せずに話を続けた。
「ですから目ぼしい冒険者の方や商人の方には情報収集にご協力頂いているのです。
それともラノア王国に一刻も早くいかねばならぬ用事があるのでしょうか?
その場合は理由をご説明頂くことでお手続きすることも可能です」
毎回同じことを説明しているのだろう。役人が立て板に水の如くスラスラと説明した。
その説明は、こちらにやましいところがなければ断りにくい形をとったものだ。
そして理由があるなら正式な手続きを経て断ることもできるという逃げ道を用意して、役人特有の無理強いを感じさせない配慮がある。
「しかしな……」
「どちらにせよ。物や人の密輸入、犯罪者の取り締まりのために荷物とお連れの方の確認をさせていただきますから、お待ちしている間だけでももう少しお話をお聞き入れ頂けませんか?」
「……いいだろう」
渋るパウロに妥協点を示す役人。
手慣れたものだ。
その手並みを
しかし前世にこのような運用ルールは無かった。
パウロが承諾するのを待ってから、衛兵に手招きされて家族は荷車からゾロゾロと連なって降りる。
先頭を役人が務め、後ろ側を兵士が固めて、俺達をどこか待合室に案内してくれるらしい。
俺以外の家族と俺達夫婦の2つの塊が形成され、歩いて行く。
「なんか1日泊っていけって話みたいだぞ」
「足止めですか?」
「そういう訳ではないようだがな」
「また何かあるのかしら?」
「一応、用心しておいた方が良いでしょう」
パウロ達の言葉は役人にも聞こえているだろう。
家族が話している内容は不審がられるかもしれないような口ぶりだ。
それでも俺の名前がアルスで有名人になりつつあると知れば、不審は解けるだろう。
別の勘違いが増えそうではあるが。
まぁそんなに心配することでもないだろう。
冒険者や旅人は慎重なものだ。むしろ家族で旅しているのにやたらと油断している方が奇異に映るかもしれない。
「トラブルなの?」
「さてどうでしょうか。油断はできませんが全てを悪く捉えるのは危険ですね。
どう思いますか? ルディ」
「捻じ曲げられた悪意を感じません。変に構えると逆に隠し事を疑われるでしょう」
「なら違うってことね!」
「そうだね。ただ別の点が気になるよ」
「それは客室についたら相談しましょう」
「そうね」
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まず案内されたのは長官室の前、つまりこの砦で最も偉い人物の待つ部屋だった。
ここに案内してきた役人に促されて大人3人が部屋へと入っていく。
残された5人は廊下で待つことになった。
ロキシーは年長だが見た目がアレなので、こういう時はこちらの枠に入るのは仕方ない。
本人も気にしていない様子だ。
扉が閉まると廊下に置かれた長椅子に5人で座った。
ノルンもアイシャもお行儀よく座っている。両親が見えなくなって不安かもしれないが、それを表情に出した様子もない。
そしてそれだけ静かにしていても砦の造りは頑丈らしく、部屋の中の会話は聞こえてはこない。
しばらく待つと平気な顔の大人組3人が部屋から出てきた。
何を話したのだろうか。
「次はお前ら3人だと」
パウロが短く告げて親指で部屋を指す。
その言葉に疑問は湧かなかった。本来なら、少年少女の俺達3人が長官と面談する理由を訝しむこともあり得ただろうが、俺は王宮に連行された身で、エリスも四大貴族の一員としてそれなりの有名人であることを勘案すれば正しい対応だと思える。
エリスが一早く立ち上がり、遅れて俺とロキシーも立ち上がる。
そうして2人を連れて部屋をノックしてから行儀よく入室した。
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入った先で最初に目に入ったのは、先程の案内をした役人で、彼は隣の部屋に続く扉を開けてティーセットを片付けていた。
きっと、パウロ達にもてなしたものだろう。
彼から視線を戻して部屋の中に残った男に意識が向かう。
官僚服を着た男が部屋の奥に立ち、部屋の奥にあるおそらく当人の執務机の上に載った書類を確認している。
俺は部屋の入口側にある受付のような机の横をすり抜け、中央にある応接セットのソファの脇に立ち止まった。
部屋の主は数枚の書類を手に取ると俺達の向かい側のソファで立ち止まる。
手足はスラっと伸びていて、均整の取れた顔立ちに短いサラサラの少し暗めの金髪をした好青年。
先程の役人と比べて身なりがより良く見えるのは官僚服に皺がないからだろう。
だがそう言った違いがなくてもこの青年と先程の役人を同一視することはおそらく難しい。
彼の肩の隆起や胸筋の張り出し、そして身のこなし。どれもが普通の文官としての雰囲気とはかけ離れた印象を与え、どちらかというとサウロスやパウロに近い野性味さえ感じる。
それも荒事向けの北方砦の長官であればきっと周りの雰囲気とマッチしていると感じるべきなのだろうが、長官職が閑職であるとか彼が王族で継承権第二位を持った男であるという余計な知識のせいで、この青年に俺は強烈な怪しさを感じた。
王族らしさではなく、軽業師や踊り子のような軽妙さ。それでいて重厚で巨大な存在感。
ジェイムズから聞いた彼の人生を推察するならば、彼に王族らしさがなくとも下級の貴族らしさ程度はあってしかるべきだ。
ならばこの違和感は本人の性格的なものか、それともこの北方砦での生活によって失われたものか。
人間観察が出来たのはそこまでだった。
「手間を取らせて申し訳ないね。
私はハルファウス・アシンカ・アスラ。ここの長官をしている一番偉い人だよ」
彼は第二王子だとは言わなかった。
「司令長官殿、お初にお目にかかります。
私はルーデウス・グレイラットです。
隣におりますのは我妻のロキシー・ミグルディア・グレイラットとエリス・グレイラットです」
俺が紹介したのでロキシーとエリスがそれぞれお辞儀する。
挨拶が終わるとソファへ座るように促され、3人で座った。
ハルファウスが遅れて座る。
「ははぁ、同姓同名の別人かとも考えたけれど。
君は本当に
「『あの』と申しますのがフィットア領の災害の件のことで、王の御前にまで連行されたというお話ならば、その通りです」
「じゃぁルード鋼を販売しているのも君ということで良いのかな?」
「そうですね。ですが王領への納品は契約の本数になりましたので今は販売はしておりません」
「僕は君に興味がある。差し支えなければいくつか質問させてもらっても良いかな?」
「商品の秘密に関しては別ですが、それ以外では隠し立てするようなことは何一つありません」
「よろしい。では聞かせてもらおう。
今回はラノアへ転居するそうだね。
その理由は?」
「我が父パウロからお聞きになったかもしれませんが、アスラ王国で悪目立ちしたために恨みを買ったようでして。
アスラに住み続けることは危険と判断しました」
「村に暗殺者が現れたそうだね。どこの手の者かというのは?」
「判りません。
大した情報網を持っているわけではありませんので想像でしかありませんが、暗殺者本人から感じた印象を言葉にするなら、国内の敵対的な貴族によるものというよりは国家の仕切りを意に介さない勢力によるものかと思います」
「国家横断的な暗殺部隊。例えばミリス教団の異端者掃討部隊のような?」
「私はミリス教にちょっかいを出したりはしませんが、似たようなものを想定しています」
「そういった独立部隊を編制・運用するのは余程の資金力と人望が必要だと思うし、存在すら秘匿し続けることが可能とは思えない。
「ハルファウス様がそう仰るなら私共の意見は間違いで、偽装した国内の勢力なのかもしれません。
どちらにせよ家族を守るためにもより安全で出来れば彼らの手が届かない所に行く必要があります」
「アンも君のことを高く評価していた。
そうか。ずっと前から君に興味を持っていた理由は良く判らない。でも結果だけ見れば私にも納得いく。
君には価値が有り過ぎる。だからこそアスラ王国には置いておけない。
置いておけないと思ったのは誰か。
私はそれがアスラ王国だと考え、君は世界だと考えているわけだ」
「世界。そう言われてしまうと気後れします。
私には世界を動かすような価値もなければ他人に脅威を与えるような野心もありません」
「野心なぞ持っていようが持っていなかろうが人を疑うことはできる」
「そうですか。
なら、そういった組織からみれば高い評価を得てしまったのかもしれません。
ジェイムズ様も似たことを仰っていました」
「ジェイムズ? ジェイムズ・ボレアス・グレイラットがそう言ったのか」
「はい」
俺が肯定するとハルファウスの瞳はエリスを捉える。エリスは気を利かせて頷いたりしなかったが、真ん中に座ったロキシーが代わりに頷く。
「良いだろう。
では次の質問にいこう。
そうだな。君はアン・ゼピュロス・グレイラットという人物を知っているのかな?」
「知っています。アスラ王に対してフィットア領の事件のあらましを伝えた人物です。
僕に対して幾人かの貴族勢力があの事件で好意的な印象を感じてくれたのは、彼女の報告書があればこそでしょう」
「事件の前には知らなかったのかな?」
?
ジェイムズは秘匿された人物であるアンが俺を助けた理由について、俺と彼女が知り合いだったという線が一番わかりやすいという話をしていた。
ハルファウスはアンと同じ屋敷で過ごしていて、北方砦でも長官と参事官として同じ職場で暮らしていた人物だ。
俺とアンが知り合いでないことも知っているのではないか。
「存じません。なぜそのような事をお尋ねになるのでしょうか」
「彼女は君を知っていたようだけどね」
「事件の前からということですか?」
「そうだね。
彼女は『君が大災害を防ぐはずだ』と言っていた」
「そうですか……不思議ですね」
その後も魔法大学の話や妹達の事の質問を受けたが、本題ではないという気配を感じた。
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朝ようやく東の空が紫の雲をたなびかせる頃、パウロとエリスと連れ立って練兵場へと赴き、朝の鍛錬を始める。
前日の夕食のときに利用の許可はとってあるが、まだ兵士たちの姿は無い。
俺は3つの基礎の内の『足捌き』の鍛錬メニューを行って、それから前前世で言えば太極拳のような軽やかでそれでいてゆっくりとしたリズムで動く。その動きの中で闘気を自在に操る訓練をこなす。
一方、パウロは隻腕で木剣を腰の位置から引き抜くように動かす。想定しているのは鞘から剣を抜いた動作だ。
そのまま素早く振り抜き一閃。
僅かな間をあけて、今度は闘気を乗せた刃で虚空を切り裂いていく。
一刀一刀に無駄がないように斬りつけ、瞬間瞬間には無音の太刀や光の太刀に近い所作が見える。
そこからの剣の軌道は個性的な動きが混じり、最速最短では決してない。
冒険者として築いてきた経験値が生み出す相手に損をさせる太刀筋。
だが隻腕になったために剣先は揺らぎ、全盛期の肉体ならば生み出されたはずの力強さと比べれば翳りが見える。
パウロもそれを理解し、取り戻すべく鍛錬に余念はない。
そしてエリス。彼女も無駄の少ない上段からの打ち下ろし、打ち下ろしきるとまたスッと剣を持ち上げる。上がったと同時に間断なく打ち下ろす。剣神流の最速の軌跡。話に聞いた通り騎士団や冒険者活動をしつつ、ギレーヌとの鍛錬は続けていたと見える。
しばらくして三者三様の基礎訓練が終わる。
「エリス。来な」
旅が始まった時点ではお互いに遠慮があった2人。だがドナーティ領に入る頃からパウロがエリスに挑発的な言葉を投げかけるのは毎朝のことになっている。
不敵な笑みを浮かべるパウロに野獣の笑みで応えるエリス。
案外この2人は気が合う。
パウロが左手だけで持った木剣をさらに外側に広げて構えたところに、真正面から突っ込むエリス。
エリスもパウロを見くびってはいない。これまでの対戦で得た最も有効な一撃を選択する。
失った右手。エリスから見て左側へと僅かにステップし、対応される間を与えずに剣を突き出す。
突き出される瞬前に木剣の先がエリスの鼻っ面を掠める。
パウロの誘導によってコントロールされた攻撃。
最も回避が難しいタイミングで攻撃経路に滑り込む木剣。大した振りかぶりがなくても人間程度には有効打となる。
それをパウロは理解し実践できる。
木剣でも直撃すれば鼻の骨くらいは折れてしまうだろう。
だが絶妙のタイミングであってもエリスは態勢を捻り、鼻の頭を擦り剥く程度で躱しきる。
密着した状態でもエリスが突き出した剣は既に引き戻され、次の軌道を走り出している。回避もそのために最小限だった。
最初の一撃の頭を押さえられてしまったのに切り替えは早い。
回避してからの次の選択までにほとんどのタイムラグはない。
考えて動いているわけではないのだろう。剣士の勘というやつか。
だが北神流にはもっと速い攻撃手段がある。
エリスよ。その選択では勝てない。
パウロの予備動作として左手が少しだけ戻され、代わりに右足がエリスの回避不能な胴体へと吸い込まれる。
パウロの蹴りがスマッシュヒットして吹っ飛んでいくエリス。
剣が手から離れ、エリスと木剣が別々に転がっていく。
勝負あり……と言っても良かったがエリスの瞳が死んでいなかった。
彼女はまだ別の攻撃手段を残している。
そもそも剣から手を離すのがおかしい所ではあった。
両手を使って綺麗に受け身を取ると転がった勢いのままに立ち上がったのだ。
俺が止めないでいると、立ち上がったエリスが木剣を手早く拾い直す。
そのままの勢いで円弧上に走った彼女は、パウロを間合いに納めると同時に剣を振り下ろす。
今度は水神流・流で受けたパウロ。
受け流された剣から無駄を削ぎ落し、次の剣に繋いでいくエリス。
木剣同士が奏でる音だけが何度も繰り返される。
そしてパウロの闘気がエリスの闘気を掌握しきると、エリスは自分の攻撃の威力をその身にカウンターされて大きく吹き飛んだ。
宙を舞うエリス。
しかして流によるカウンターは不完全。
空中で態勢を立て直したエリスはダメージを最小限に抑えた受け身を取って軟着陸。
エリスは止まらない。
助走付きジャンプから荷重の乗った大上段斬りを打ち込む。
汗が弾ける。
渾身の打撃は鋭い。パウロはまたも流で受けようとして。
そのいなしが僅かに甘かった。
万全な態勢を得たエリスは力強く踏み込み、再度、上段から振り下ろされる剣はさらなる加速を得た。
光の太刀。
その一閃が虚しく空を斬り、地面に突き刺さる。
2人の荒い息が練兵場に流れる。
「そこまでにしましょう」
俺の一声でパウロとエリスは直立して木剣を納める動作をした。
そしてお互い別々の柵まで歩いてドカッと地面に腰を下ろす。
勝ち名乗りも敗北宣言もない。
お互いが今の打ち合いの振り返りをする。
それが彼らの日課だ。
そして俺から見た2人の戦いの意味。エリスはパウロが得意とする『わざと隙を見せて誘い込む』戦い方を研究しているようだった。それに北神流や水神流との戦い方をどんどんと吸収している。
対するパウロもエリスを強くしようという意図で打ち合いをしているわけではない。
闘気を扱いながら攻防を判断するとき、北神流や剣神流の動きは前から良かった。だが水神流に重きを置いた鍛錬をシルフィにした結果、水神流を磨く相手が居なかった。そこに現れた練習の相手として丁度良いエリス。隻腕になった損失もあって模擬戦をするのにうってつけの相手となった。
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「お2人とも朝から凄いですね」
背中越しの声。ハルファウスだ。耳からの声でそう認識しつつ振り返る。
司令長官が早朝の練兵場に来る。その意図は全く以って不明だった。
何かを画策したり、情報交換したいとしても自分の手下を使えば良い。
そして彼の手に木剣が握られており、その出で立ちも薄手の長袖に動きやすい布の長ズボン。
昨日見た官僚然とした格好ではない。
だとすれば彼がここに来たのは俺達のためではなく、純粋に鍛錬をしようとしてこの場に居合わせたということになる。
「はい。あの2人はいつもあれくらいの打ち合いをしています」
「私が師から課せられた鍛錬とは全く違いますね」
「まさかとは思いますが、王子様も剣の訓練ですか?」
「そのまさかですよ。才能の無い私が騎士の真似事とはお恥ずかしいのですけどね」
ハルファウスの口ぶりからは本当に恥ずかしそうな気持ちが垣間見えた。
だから
兵士達に混ざって訓練をしようとすればお互いに居心地の悪い状況になるのかもしれない。
そして才能の無い剣士か。
俺も長らくそうだった。
「王子様のする剣の鍛錬。興味深いですね」
「水帝剣士たる貴方がですか?」
「ええ。
「私が師より受けた教えは剣の鍛錬というよりも足捌きに重点を置いたもので、どちらかというと自分の身を護るための護身術になります」
「ほう」
「相手の攻撃を読んだ上で左右に躱すか後ろに引くか、はたまた掻い潜るか。
他にも剣士として過ごすことで勤めている騎士の気持ちを解するということもあります」
足捌き。
ハルファウスの語った剣術の観点。
3流派のどれにも似ている観点はある。ただし、それだけに重点を置いたものはないはず。
魔法剣士の立ち回り、重力魔術を操るサラディンは少し違った考えを持っているようだったので違うだろう。
まさかこんなところで、それを耳にするとは思わなかった。
彼の言はアルビレオの考え方に近い。
アルビレオ本人から通ずるものか。アルビレオも誰かに教わったということならその教わった師匠に通じたものか。
ハルファウスの師が独自に編み出したものという可能性も残っている。
「今の2人の攻防において、エリスさんのダッシュジャンプからの大上段、その直前で私はこれまでにない強い打撃が来ると予測できました。
そしてパウロさんはそれを流でいなし、いなしが甘くなったためにその後の光の太刀へと繋げられてしまったように思います。
もし私ならその後の光の太刀で負けが確定したでしょう。
ですから自分ならあの攻撃は受けずに躱します」
「あの速さの飛び込み斬りを見てから対応するのは難しいのでは」
「いえ、ジャンプするより前に右足に青白い炎を纏うのが見えました。
だからそのタイミングで回避する程度ならば私にも出来たでしょう。
加えて何度かの切り結びの中にも同じように右足に炎を纏った場合があり、その時には剣筋に一定の方向性がありました。
その方向性とは上段やや左からの斜めの振り下ろしです。
だからエリスさんの左、自分の右に逃げ場を求めます。
エリスさんの大上段を右に回避すれば、その場でいなすよりもずっと楽だったと考えます」
「聞き間違えでなければ『青白い炎を纏う』のが見えた。そうおっしゃったように思うのですが」
「はい。師が課した鍛錬方法の1つによって私は6年かけて他人の闘気を察知することができるようになりました」
「それは凄い。失礼ですが、師匠のお名前は?」
「元参事官であったアンです」
またその名前か。少しアンに興味が湧いてきた。
「……それではアン殿の師はどなたでしょうか?」
「アンの師匠ですか?
確か……誰にも教わらずに独自に剣の鍛錬をしていた。そういう話であったかと思います。
よくよく思い返してみても彼女が誰かに師事していたという話を聞いたことはありませんね。
小さい頃から一緒に住んでいましたが、彼女がやっているのは歴史の研究が主だったものでした」
オルステッドからは『王の器ではない』と評されていた人物のはずの第二王子ハルファウスとその剣の師アン。
アン・ゼピュロス・グレイラットは独自の闘気修得法を編み出し、さらに水神流奥義としてのみ存在し、明確な方法が確立されていないはずの五感認識へと昇華した。
俺は前世のハルファウスに会ったことはないから、彼が剣術の才が高い人物であったかどうかは知る由もない。
『王の器でない』ことと高い剣士の才能があることは矛盾しない。
が、オルステッドが彼の情報を開示しなかった理由にはならない。
アリエルの王位簒奪の話の中でこの北方の関所の間近まで来ていた。いくら『彼を王にしたいと思っている者がいない』といっても当時の北方砦の長官が彼なら話の中にもっと出てきても良い気はする。
それに長年にわたり闘気の修得方法を研究していた俺に対して、効率よく仕事ができるように彼女の存在やその修得方法の情報を秘匿し続ける理由にはならない。
いや……
様々な可能性について考えるべきだ。何かを決めつけてはいないか?
例えば『前世の北方軍司令長官がハルファウス』だったとは限らないし、『これほどの剣術の才能を開花させた』ことが無いのかもしれない。オルステッドが知り得るのは彼が経験した事象だけだ。
そう。今回初めてアンとハルファウスは出会い、アンに出会ったことでハルファウスが北方軍司令長官になった、アンを師と仰いだことで1人の平凡な人間が聖級剣士並みの闘気を操作できるようになった、とするならば?
これまで彼らは出会わず、今回彼らが出会ったのはなぜか。
なぜ彼女は前世で頭角を現さなかったのか。
前世で表舞台に現れなかった理由。
現世で表舞台に現れた理由。
ハルファウスとアン。
年齢的にみて、少なくともこの差異は俺が生まれるより前に起こっている。
俺と関係ないところで運命が大きく変化した。
ヒトガミの関与ならアン・ゼピュロス・グレイラットはヒトガミの使徒だ。
その所業は既に起こった何かのマイルストーンかこれから必要になるマイルストーンへの布石となる。
オルステッドがこれを関知しているならば彼女が生き残っているのは理に適わない。
ならばこの件はオルステッドの
もしヒトガミの関与でないとするなら、変化した運命は取るに足らないもので僅かな違いで起こるものかもしれない。
一方で本来は変わるはずのない強固な運命が変わっているとしたら、アンという人物は運命力の強い者という可能性を捨てきれない。どんな者か。オルステッドに相談した後に会ってみて確かめるのも良いだろう。
この広い世界に散在する運命力の強い者たち。
眠れる獅子。
大きな目覚ましのベルが、フィットア領で鳴り響いたのかもしれない。
-10歳と9か月
母達がエリスとロキシーと何かを話し合う
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