無職転生if ―強くてNew Game― 作:green-tea
今回の内容には多分にオリジナル設定が含まれます。
---賢明たれ。思い上がりを捨てよ。全ては既にある---
馬車の音は3つの音からなる。1つ目はカパ、カパという馬の
俺とナンシーが乗っているのは1頭の馬が曳く4輪の馬車に御者台が付いたものだ。馬車は所謂、箱型で屋根と扉が付いており、中には2人が並んで座るためのシートが1列設置されている。馬車の乗客部分に直接車軸の軸受けが付いているため車輪が地面から受けた振動をモロに
馬車の側面についた扉には戸板で作った窓がある。昼間でも暗くなる客室部に適度な明りを取り入れるために、この窓は機能する。その窓の先に馬に跨った剣士風の男2人が先行し、周囲を警戒している。見えないが後ろにも治癒魔術師と戦士がいて、そちらの馬には旅の荷物も乗っている。荷物は食料と野営のための道具だ。彼ら4人はB級の冒険者チームで、今回は片道3日の旅程の護衛を担当している。この馬車は往復してゼピュロス家へと帰って行くので馬車と御者を護衛する任務は復路も続くわけだ。
さて、赤竜山脈の重なるようにそびえる山々の稜線がはっきりと見えるようになる頃、その手前に国境を防衛するための長城が連なっているのもまた見えるようになった。既に旅は3日目に入り、今日の夕刻には俺とナンシーは目的地へと到着予定だが、北へと続く街道が小川に差し掛かったところで馬に水を飲ませるための休憩となった。旅の一行も馬に合わせて食事を摂る。摂り終えると、痛みが残る尻の筋肉を揉み解す。前方の視界がない馬車から降りたことで、石畳の先が国境を隔てる城門へと飲み込まれていくのが見えた。そして城門の上には石でできた頑丈な砦があり、両手を広げたように東西へ長城を延ばす。
「何事もなく旅が終わりそうですね」
治癒魔術師が呑気な声でそう誰にともなく言った。
「まだ帰りもある。気を抜かずに行こう」
剣士の1人、髭面の男がまじめさを示すように応える。
「そうだ。給金に見合った仕事をすべきだな」
戦士が同意した。そして、1人だけ休憩をとらずに先行していた剣士が戻ってくる。休憩のために作った簡易の野営地に彼が辿り着き、馬から降りるのに合わせるように髭面の剣士が立ち上がる。髭面の剣士は入れ替わるように馬の手綱を受け取り、馬を水辺へと寄せに行った。
「遠見をしてきましたが、砦まで特に危険なポイントもありません。後は目的地まで休憩なしで行けるでしょう」
戻って来た精悍な顔立ちの剣士の報告。
「行って帰ってきたらまたこの橋で野営する」
戦士風の男が予定を確認すると報告した剣士が頷く。そして髭面の剣士も休憩の輪へと帰って来た。
皆の心が弛緩する直前だった。不意にナンシーが立ち上がる。
「どうした? お嬢さま」
ナンシーの対面に座っていた治癒魔術師の男が彼女の動きを真っ先に不審がる。ナンシーは砦の方を見たまま、質問には答えずに指を一本、口元に立てて静かにと指示した。冒険者と俺と御者は視線を彷徨わせ、そして首を振り、彼女のやっている意図が分からないことを確認しあった。
「敵ではありませんが、一応皆さん戦闘態勢に入ってください」
安全だと報告があったそばから何を言っているのかと誰もが思った。お嬢様の
「早くしなさい」
命令口調になったことで俺と御者は立ち上がって、彼女の目線の先を追った。冒険者達にとっては信頼できるメンバーの報告こそが自分達の命綱である。依頼者の娘だからと媚びて自分達の行動順位を変えるようではなかった。面倒になったのか、ナンシーは荷物を積んでいた馬へと近づき、自分の荷物から剣を鞘ごと取り出すと、鞘に撒いてあるベルトを腰に巻き戦闘態勢を取った。
「なぁお嬢さん。何の冗談なんだ?」
戦士が聞いた。ナンシーは戦闘準備を整えながら至って冷静に警告する。
「砦から歓迎がきます。ですが様子がおかしい。対応を間違えば死にますよ」
「何?」
遠見を行って戻って来たはずの剣士が立ち上がり、街道へと戻っていく。
「来るぞ!」
街道で呼びかけた剣士の一言で残りの全員が戦闘態勢に入った。
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15の騎兵が小川を渡るための小さな橋の反対側に到着し、馬を降りて横一列の陣形を取った。中央に居る隊長格の男とは初対面ではあるが、見聞きした風貌からゼピュロス家の次男、パトリック・ゼピュロス・グレイラットだと思われる。とすれば、ここはナンシーに任せるべきことなのだろう。
「ナンシー、あれは君のお兄さんだと思うんだが対処を任せても?」
「そうね」
「頼む」
本来、北方軍司令長官になる俺がまずは交渉すべきだとも思うが、これが家族内のコミュニケーションエラーなら下手に手出ししない方が良いだろう。
「リック兄さん。これは現北方軍司令長官殿のご意向ですか? とてもそうとは思えませんが」
「ナンシー、これは私の独断だ。悪いがこのまま引き返してくれ」
やはり、左遷先から戻れるはずの長官がこのような横槍を入れるわけがない。ではなぜパトリック殿はこのようなことをするのだろうか。俺にはその理由が分からなかった。
「この異動はゼピュロス家が継承権争いに巻き込まれないためのお父さまの判断です。兄さんはゼピュロスに弓を引くつもりですか?」
「俺は砦を守る4つの部隊、その3番隊の隊長だ。お前らが来ることで砦が機能不全になることだけは容認できない。部下を守れない者が家のことを語る術をもつとは思えない」
「どうせお飾りのお役目です。誰がなろうと構わないではないですか」
俺もそう思ったからこそ、その草案を書き、ゼピュロス・エウロスの両家はそれを承認した。
「お前は俺の妹でハルファウスはこの国の第二王子だ。危険なときに見捨てられるこれまでのお飾りと同じ扱いはできん」
俺が解っていて黙っていたことが既に現場で危惧されている。ならばナンシーとはここでお別れになる流れに……。しかし会話の流れは俺が割って入ることを許さなかった。
「そういうことでしたか。つまり足手まといを増やしたくないということですね」
「そういう言い方は止めてくれ。これまでと優先順位を変えれば組織が効率的に動けなくなる。お前らにはそれだけの価値があるし、砦は常に緊張感を持った運用が必要だから甘い考えで来られても困るんだ」
「兄さん。先程、兄さんは独断だとおっしゃいましたが、どうやら他の隊長と議論した末の行動のようですね。長官の意向はともかく現場は私たちを歓迎していない。確かにここにいるハルファウスは砦の長官の任務については素人でしょう。それでも私が参事官として補佐すれば問題ありません。心配なら、緊急時は私が彼を守ります」
「お前のような女子供が物見遊山でくるところではないんだ。ナンシー、お前こそゼピュロスとしての使命を果たせ」
"使命を果たせ"、そう言われたナンシーの態度が急に変わった。隣にいる俺からしたら隣の空気だけ、雪積もる赤竜山脈からの風になったようだった。
「もういいから、かかって来なさい」
「なに?」
「兄さんでも誰でもいいから私が倒してさしあげる。別に1対1でなくても結構よ。何人でもいいから早く来なさい」
騎士たちの雰囲気も変わったのが橋の向うから伝わってくる。ここの砦を守る騎士たちはみな下級でも貴族として扱われる武人だ。ゼピュロスの娘だといって侮辱が許されるわけではない。先程からナンシーの言葉は固い。彼女は聡明でこのような事を言う女の子ではないのに。
「来ないの? 誰が一番槍になるかで迷っているのなら指名して差し上げるわ。ほら、兄さんの隣で剣を担いだ貴方。丁度良さそうね」
俺は疑問に思わなかったが後ろで髭面の剣士が驚いた。
「おい、そいつが一番……」
指名された騎士はパトリック殿の顔を窺った。
「オビ、責任は私が取る。家のじゃじゃ馬の相手を頼む」
「腕の1本くらいは授業料だと思ってもらいますよ」
そう言ってオビと呼ばれた剣士が剣を担いだままで前に出て橋を越えてきた。その間にナンシーは剣を抜き、構える。
「なかなか良い構えだな」
オビと呼ばれた騎士が言った。俺は剣術に詳しくない。その構えの良さとやらはピンとこなかった。
「ハル、少し離れていて」
ナンシーが真横に居た俺の方を向いてそう語りかけた瞬間、オビは肩に担いだ剣を構えもなしに繰り出した。
卑怯な!
ナンシーの注意が逸れているところを狙う。それが騎士のやることか。
そう思った瞬間、俺の目の前でおかしなことが起こった。俺にはオビが宙に浮いているように見えた。一瞬のその衝撃的な状況が時間の概念を越えて引き延ばされた。オビの焦った表情がはっきり見える。橋の向うの騎士連中も口を大きく開けている者や目を見開いている者が大半だ。
一拍の長さを感じた時間が動き出した。
ナンシーは視線の端でオビを見ていたのだろうか、自らの剣でオビの剣を受け止め、そしてはじき返した。オビは飛び掛かったわけではない。繰り出した剣がナンシーの剣にぶつかるとそのまま持ち上げられるようにはじき返され、その勢いで一瞬宙に浮いたのだ。俺に見えたのははじき返された瞬間だった。
「闘気」
驚愕の一言の後、オビはさらに呟いた。
「今のは水神流・流」
俺は真剣同士でやり合う熱気に後退りして、結果ナンシーから離れ、そして戦士にぶつかって止まった。戦士は俺を受け止めたまま、悪態もつかずに戦いを見守っている。誰もがナンシーから目が離せなかった。
「腕を失いたくないなら早く次の手をやって見なさい」
「くそっ」
今度はしっかりと構えてオビは剣を繰り出した。構えた分だけ剣速が鋭く、もはや俺の目で追うことは不可能だった。次々と来る剣を受けずに鮮やかに躱すナンシー。そしてオビの剣が振り切られた隙に間合いへと踏み込み、蹴り飛ばした。突っ込んできた男を後ろへと蹴り戻す。とても女の子の力とは思えない。
オビは情けなく転がって橋のこちら側の入り口まで戻された。そして諦めた表情でのそのそと立ち上がると言った。
「参りました」
その言葉を聞いて、ナンシーとオビを除く誰の顔にも目の前の状況を飲み込めないと書いてあった。
「貴方がこの隊で1番強そうだったから。御免なさいね。余り気を落とさずに精進してください」
今日のナンシーは口数が多い。それに今の語り掛けには本気の優しさが籠っている。オビからはスカした態度が消え、歩いてきた橋を戻って行く。
「隊長、あなたの妹さんはこの隊の誰よりも強い。彼女が王子を守るなら別に良いと私は愚考します」
オビの意見に反論できるものはいなかった。いや、ナンシーを止めることができる者はこの場に誰も居なかった。
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砦に無事到着した俺は前任者から北方軍司令長官を引き継ぎ、ナンシーは俺の任命権で参事官となった。今回のパトリック殿達、現場の独断先行を咎めぬ代わりに前任の貴族は俺が乗って来たゼピュロス家の馬車と冒険者をそのまま拝借してドナーティ領へ戻って行った。そこから中央へは適当に馬車を見繕って帰るのだろう。一瞬、この前任者の貴族のことをがめついなと思ってしまったが、元々、ここの砦の馬車を使うつもりだったと考えると合理的なだけだ。もしかしたら、この貴族は単に見て見ぬ振りをするというのが貴族らしくないので、どうでも良い理屈をつけたのかもしれない。
もうすぐ俺も15歳、大人の仲間入りだ。貴族、騎士、冒険者、王族、隊長、長官、色々な身分、色々な役職の考え方を理解していくべきだろう。そして俺は年齢だけは大人になっても実力はまだ半人前だ。多くの人の助けを得て生きて行かねばならない。ならば世話になる人達へ、いかにしてその恩義に報いるのかを身に付けていくべきだろう。
着任したその日、俺は長官室を手ずから掃除して前任者の残り香を消した。別に俺が綺麗好きだからと言う訳ではない。やる気に満ちているからという訳でもない。ただ良いかっこしたいだけだ。ナンシーと二人でこれから仕事をする場所が汚かったり、他人の物という感じだったらちょっとがっかりだろう? 俺に出来るのは雰囲気作りくらいしかない。
その後、俺はお茶を淹れて執務机で一服する。幽閉されていたゼピュロス家の屋敷ではほんのつい最近まで専属のメイドがいなかったから、俺は王族と言っても掃除くらいできるし、お茶くらい自分で準備する。
一息ついて振り返り、不透明なガラス越しに外を見遣ってドナーティ領が随分と遠くにあることを感慨深く見ていた。王都アルスは見ることさえできない。
扉が閉まる音がして振り返ると、ナンシーが大量の資料を自席に持ち込んだところだった。ナンシーのために長官室の端に取り急ぎ用意させた参事官席。彼女の席には大量の資料が置かれ、これから彼女が沢山の仕事をすることが窺えた。お飾りといっても事務仕事は多い。あの書類は俺が本来すべき仕事だ。それをしばらくは彼女が主体、俺はお手伝いでこなしていく予定になっている。
俺は彼女を目で追って、目が合ったせいで少し焦った。呑気にお茶を飲んでいる場合かと叱られるのではと思ったのだ。しかしそうではなかった。
「ハル、私が怖いですか?」
「いや頼もしいよ」
「そうですか」
なぜ彼女は俺が怖がるなんて思ったのだろうか。ナンシーは俺を補佐してくれる。旅の終りと新たな生活の始まり、ナンシーには色々と秘密がありそうだが別に無理に話してもらうこともない。俺が見ている彼女が俺の中の彼女の全てで構いはしない。彼女の知らない一面を見つけるのは案外楽しいのだから。
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俺はナンシーにまずこの砦の基礎的な知識を詰め込まれた。
話しに聞いていた通り長官職はお飾りで、騎士の指揮監督は4つの部隊の隊長がそれぞれ行っている。一方、騎士以外の一般スタッフの指揮命令権と監督権は司令長官にある。だが、一般スタッフとは軍務省から派遣された文官と砦を維持するための専門職だ。有事はともかく平時であっても、砦を守ることを生業とする騎士の指揮に従って行動せねば自分たちの命が危ないと誰もが判っている。
俺はお飾りの長官職の役割を変えようとは考えなかった。運用を変えることによる負担は現場の人員に
今の運用で上手くいくなら別に無理に変えなくて良いし、現場が変えたいと思ってなければ変える意味はない。だから最初に俺が着手したのは、この砦で共に暮らす60人の騎士と軍務省官僚および一般兵の顔と名前を覚え、彼らの家族構成、生きてきた人生、癖、趣味趣向、悩み、人間関係を理解することだった。
それから俺が取り組んだのが、この組織を理解して俺が出来る目標を考えることだった。俺のような若造に出来ることなんて基本的に無いので、ナンシーと相談して目標を達成するための成長戦略を立案した。ナンシーによる講義を元に座学を行いながら事務処理をする日々が続いた。
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雌伏2年、相変わらず俺はお飾りの長官を続けている。ナンシーと組み立てた成長戦略を実現していくために砦の運用を学び、兵站、戦闘教義、果ては騎士の真似事と揶揄されながらも剣術の基礎訓練を行っている。そんな折、軍務省から軍事物資の配給を確認する作業の現場監督を行った。担当の兵士が届いた目録と物品、その数量に相違がないことを確認していく。作業が規定の手順で進み、順調であることを確認した俺は、ここまで荷物を運んできた配送業者と物資の護衛を行った騎士を労った。この北の国境砦には独自の通行税や徴税権、販売する商品といった収入がない。そのため消耗品は全て軍務省からの補給品によって賄われている。さらに軍務省官僚および一般兵は軍務省からの派遣である。ただし、ここに詰める騎士たちは北側国境警備の任を負うゼピュロス家の私兵である。隊の編成はゼピュロス家が任命した各隊長によって為され、警備任務の指示は隊長が行う。つまり北方軍司令長官と言っても騎士に指令する権限は持っていない。長官の持つ権限は、隊長に状況を連絡して戦略や戦術について協議会を開くことと、現場から上がって来た状況報告を共有できることが主な権限となる。騎士に対する権限は殆ど無いが、軍務省の文官や料理人や補給物資の担当兵のような一般兵に対しては最高権限を有する。
さて、国内で最北である国境砦にいる以上、近場のドナーティ領の情報でさえもなかなか入ってこない。
「ルード鋼?」
「ええ。何でも出処不明の鋼材らしいですよ。それが行商人経由でアルス一番の鍛冶師の所に持ち込まれたらしいんですが、加工できなかったようですな。クエッタ課長がそれについて調査しようとしているそうです。ただ、入手ルートがフィットア領ということで、手出しがしにくいようです」
4大貴族の1つフィットア領の出物であれば、アスラ王領の役人が大っぴらに調査するわけにもいかないのは良く判る。話しに出て来たクエッタ課長とは、"軍務省補給部第三課課長のケルーマン・クエッタ"だろう。下級貴族クエッタ家では貴族の力も大したことはない。ボレアス家はグラーヴェル派であるが、同じグラーヴェル派の末席に位置するクエッタ家であっても調査は不可能だろう。少し気になるがこの砦に居る限り情報が回ってくるまで待つしかなかろう。
次の日、昼過ぎに補給隊は任務を終えて帰還の途に就いた。俺は彼らを見送ったが、空になった荷台には砦の参事官ナンシーがちょこんと座っているのが見えている。軽く溜息をついて俺は仕事に戻った。
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話は今日の午前に戻る。朝の事務仕事をこなしていると、ナンシーがパトリック殿を連れて長官室に現れた。何事かがあると判断した俺はすぐさま応接セットに移動し、応対した。
「昨日得た情報にルード鋼というものの話があったそうですね」
「ええ、パトリック殿。気付かなかったのですが、とても大事な話だったのですか?」
「ゼピュロスでは軍事バランスに影響を与えないように北の冒険者や傭兵に限定して、その武具の輸出を行っているのは長官もご存知ですよね。つまりドナーティ領は武器の生産関連の情報には敏感なんです」
「しかし、アルスの鍛冶師でも加工できないものらしいですが」
「それこそ手に入れて研究する必要性を感じます」
「ふむ。それでナンシーには案がありそうだね?」
俺はナンシーに話を向けた。
「はい。補給隊と共に一旦実家に帰り、ブラウンホーク家を通じてクエッタ家の調査に協力するようお父さまに具申してきます」
「ブラウンホーク家は一応グラーヴェル派の一員だけど、ゼピュロスにも情報を流してくれている家だね。判った。ナンシーが一時的に砦を離れることを許可します。でも気を付けて。なるべく早く戻ってくるように。パトリック殿、ナンシーが居ない間は私は貴方の指示で動きます。緊急の際はお願いします」
ゼピュロス家が俺を擁立したことを鑑みて、ナンシーからゼピュロス家が情報を入手する手段をいくつかは知らされている。しかし、それが全てではないと俺は理解している。俺が知る必要性がない配下については教えてはもらえないのだ。そして今回は俺の知っている
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長官室は部屋の片隅の席に彼女が居ないと急に広く感じた。今回、彼女は直ぐに帰って来る。だが少し離れたことで、いつまで一緒に居てくれるだろうかということがふと気になった。あまりにも近い存在だったせいでこれまで考えもしなかった。俺とずっと居る理由がなければゼピュロス家のためにいずれはだれか貴族のところに嫁ぐことになる。15歳で大人になったときは一つの節目だったがそうはならなかった。次の節目はいつだろうか。長官職は継承権争いの終結まで続く。継承権が決まるというのは大きな節目だがいつになるかは見当もつかない。自分本位で考えるのは止そう。彼女が俺の補佐役ならば俺が長官として一人でもやっていけるようになれば彼女はここを去る。いずれ別れは来る。悲しむことはない。今尚、彼女の存在は俺の人生の大きな部分を占めている。だが俺は独りでも歩けることを示さなければならない。出会った頃からそうだった。彼女と共に生きる人生は魅力的だが、彼女は目的をもって行動している。それを縛り付けることを俺は許せない、たとえ自分であったとしても。だからこそ、彼女が居なくても俺はここでやるべきことをやるのだ。そこまで考えた俺は休憩を終りにして、次回の補給隊の到着の際に渡す請求品目の目録案に目を通す作業に戻った。
ナンシーは数日後に砦に帰還した。それから数か月後の補給隊に随行したゼピュロス家の護衛によって情報がもたらされ、俺自身にはナンシーがルード鋼の調査結果として報告してくれた。これは参事官としての任務を離れてゼピュロス家の利益を優先させたことに対する補償のようなものだ。
次回予告
大暴走の余韻冷めやらぬ中、
転移災害の嵐が運命の小舟を翻弄する。
嵐過ぎ去りし後、
しかして波は収まる気配を見せぬまま。
次回『余波』
ルーデウスは動かない。