異世界ウェスタン ~Man With Gray Eyes~   作:せるじお

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第5話 汝等ここに入るもの一切の望みを棄てよ

 

 

 

 

 ――身に纏わり付く、ミルクのような濃く白い霧の彼方の気配を探る。

 

 おれは目も良いが負けずに耳も良い。そもそも、エルフは押しなべて耳が良いのだが、おれのは一際だ。例え視界を遮られようとも闇のなかにあろうとも、四方へと警戒の糸を張り巡らせて、蜘蛛のように獲物は逃さない。肩に負ったエンフィールド、すぐ抜けるように腰帯に差した歯輪点火式短銃(ホイールロック・ピストル)二丁は準備万端で、いつでもぶっ放せる構えだ。

 

 まるで視界が効かないなかでも、ゴーレムの回す外輪が、規則的なテンポで水面を叩く音が淡々と響く。それに和すように添えられるのは、ギターの弦が等間隔に爪弾かれる低音だ。ここからは見えぬ船の反対側の船縁で、フィエロもまたおれ同様に辺りを窺っている証だった。いや、野郎だけじゃなくてクルスにフェルナンもノストローモ号の各所で周囲を張っているのだ。お嬢様のアントニアや、魔女に学者のアルカボンヌにパラシオス師、舵を取るエステバンたちは船室に籠もって、この前も見えない状況のあって尚少しでも目的地へと近づくべく、魔導と技巧を用いて船を前へ進めている筈だ。

 

 ノストローモ号は昨日と今日の境目、ちょうど真夜中頃にコスタグアナとバンダ・オリエンタルの国境を超えていた。こうして夜が明ける頃には、すっかり朝霧に囲まれていた。普通ならばこういう場合、船をどこかに停めて霧が晴れるのを待つべきであるが、しかし実際にはノストローモ号は、速度こそ絞っているものの、前進を続けている。

 

 理由は大きく2つ。

 

 ひとつは、終着点であるトラパランダへと一刻も早く辿り着くため。今はまだ川幅も広く航行も容易な『大河』の上だが、目的地に通じる支流へと入れば、こうも順調には進めないだろう。手早く越えられる場所は、さっさと通り過ぎてしまうに限る。

 

 そしてもうひとつは、このバンダ・オリエンタルで夜中に船を岸に停めるようなことをするのは、自殺志願者以外はまずしない振る舞いだからだ。地に落ちた腐肉に蟻集り蛆湧くように、人面獣心の匪賊(カンガセイロ)どもが群れ成してやって来るは必定だからだ。

 

 バンダ・オリエンタルは混沌の地獄だ。

 安住の地など猫の額程もなく、隈なく悪鬼羅刹のごとき輩が跳梁跋扈する修羅の地だ。何もかもが崩壊したこの地では、人は凡そ常に皆飢えている。そんな場所で迂闊に船を停めるなど、人喰い魚の巣食う池に生肉を投げ込むようなものだろう。

 

 

 ――『「水鳥飛び舞う川面(ユール・グア・イ)」……そんな風に呼ばれる、楽園のような地が海の彼方にあると聞く』

 

 

 サルマンティカの薔薇十字会大学が教授にして、同大学きっての碩学と名高き魔女、おれのもうひとりの先生(・・・・・・・・)、リノア=グラウコピス=コルヴォがそんなことを呟いていたのを、ふと思い出す。

 

 ――『いまだ知り得ぬこと、いまだ見得ぬもの、いまだ聞き得ぬ調べ、いまだ味わい得ぬ果実、いまだ触れ得ぬ全てが、この地には残っているから、大洋を渡るは後回し……なに、その時が来れば、君も連れて行こうじゃあないか』

 

 遂に果たされることのなかった空約束。

 その中にあって想起されたのは、今や使うものも絶えたバンダ・オリエンタルの雅名。

 かつてはこの地も、この世の楽園のような、豊かなる国と謳われた時代もあったのだ。

 

 大河の水運と、大地の恵みに満ちた、祝福されし土地。

 だがそれが故に、北東のサンタクルスと南西のパタゴニアとの争奪の地となってきたのだ。

 

 今度の内戦の発端も、サンタクルスが裏で糸を引く深紅党(コロラドス)と、それに対抗するパタゴニアの支援を受けた白亜党(ブランコス)の、もう何度目になるかも解らない小競り合いだったと聞くが、今や真相は藪の中だ。切っ掛けだなんて、そんな些細なことは今やどうでも良い程に、バンダ・オリエンタルは乱れ、ただ血は流れ続けている。もう何年になるかすら、定かでないほどに――。

 

 だが内乱に悶える深紅の大地にあっても、大河の流れは恐らく、はるか嘗てからそうであったように、人の世の営みなどとは無関係に、悠々として揺るぎない。この手の大きな川がおおよそそうであるように、バンダ・オリエンタルとパタゴニアとを隔て、また同様にコスタグアナと繋ぐ大河の流れは緩慢で、従って流水の立てる音も静かなものだった。 

 だからおれの耳は確かに、川面の下を走る魚を、空高く霧の上を飛ぶ鳥を、対岸の木々に蠢く獣共の存在を感じる。回る外輪が水を打つ音のみならず、外輪を回す歯車と歯車が噛み合い軋む音も、クランクハンドルの微妙なガタツキ、ゴーレムならではの独特の駆動音もがハッキリと聞こえてくる。

 

 そして、それら以外の音も。

 

「!」

 

 おれはその音が(かい)の音だと気がついた。

 複数の櫂が水を切る音だと。

 

 静かに立ち上がり、エンフィールドを構えつつ、耳をそばだてる。

 恐らくは底の浅いカヌーの類。ヒトやエルフなら5、6人は乗り込める程度のものだろう。数は……複数だ。四方より、このノストローモ号へと近づいてくる!

 

 歌唄い(パジャドール)だけあって耳が利くのか、フィエロも同じ音に気づいたらしく、ギターを爪弾く低音が止まる。かと思えば、急に激しいダンス用の激しい調べが奏でられたのだ。

 

 静かな朝だ。音は当然、操舵室まで響いていることだろう。

 フィエロのギターの意味をアントニアたちも理解したのか、ノストローモ号の速度が上がる。この霧の中では危険な速度だが、しかしそんな霧を縫ってこそこそ迫りくるのはより危うい連中なのは見ずとも明らかなことだった。

 

「――チィィッ!」

 

 思わず舌打ちしたのは、霧の向こうの連中もまたバレたことに気づいたが為に、一挙に迫り包囲を狭めてきたのが解ったからだ。跳ねる水しぶきの音は、連中の漕ぐ櫂の速度が劇的に上がったことを意味している。

 

 ――振動。

 

「ッッッ!?」

 

 ノストローモ号が、不意に揺れる。まるで太い流木にでもぶつかったかのようだったが、恐らくは前方から来たカヌーのひとつとぶつかったのだろう。この船は河用の平底船だから、こうした衝撃には弱く冗談のような強さで揺らいだ。

 そのゆらぎを受けてか、外輪の回転数が弱まる。この状態でスピードを出せば転覆しかねないからだろうが、しかしこの状況での減速は、賊徒どもに追いつかれることを意味する。

 

 ――船端に、何かが突き立つ音が響く。

 

 見れば、鉤爪が食い込んでいた。おれは即座に懐よりサクスを抜き放ち、鉤爪に繋がった荒縄を斬り裂く。これで一艘切り離したが、あちこちから鉤爪が木を貫く音が次々響くのを聞けば、このやり方はでは全てを捌き切ることはできないと悟る。

 それでも手当たりしだいに荒縄をサクスで切り落としていくが、遂には自分の間近の側面に、ゴツンとカヌーが当たる音を聞く。

 

 おれは雄叫びあげて乗り込もうとするカンガセイロ目掛けて、サクスを振るった。

 霧にまみれてなお、殺気に炯々と輝く瞳、髭に覆われた恐ろしい相貌、振り上げられた大鉈(マチェーテ)。おれのサクスは刃を“剣の水”に――エルフの古い言葉で、敵の血潮のことだ――濡らしながら、凶相を悲愴なものへとを切り崩し、その胸元へと蹴りをくれてやる。

 情けない叫び声を上げながら、凶賊は川面へと落ち、霧の向こうで飛沫を撒き散らす。

 しかし相手は野郎一人ではなく、次々とノストローモ号へと乗り込んでくる。

 

「来やがれ糞ども!」

 

 おれは背後の気配に気を配りながら後退する。

 乗り込んできたカンガセイロどもが、狭い船端で一直線になる、その瞬間を狙って、エンフィールドを構える。

 

 眼を殺気と悪意に爛々と輝かせ、恐ろしい得物を――マチェーテのみならず、サーベルやカットラス、小槍の類もある――をかざし、迫りくる賊徒の姿は、霧も相まって幽鬼のごとくだ。

 

 だがたとえ幽鬼が相手だったとしても、おれの得物は狙いを外さず、全てを貫くだろう。

 おれは犬歯を剥き出しに嗤いながら、引き金を弾く。

 

 ちょうど燧石が火花を発し、木切れに火が点いた時のような、乾いた心地よい音が響けば、銃口より赤い光の矢が飛び出す。それは真っ直ぐに霧を、賊徒の体を貫いて走る。エンフィールドに込めてあったのは、狙撃用ではなく近距離で効果を発揮する類の巻紙だ。撃ち出された矢は射程こそ短いが、逆に一人二人貫いた程度では威力は衰えない。五人程度の胸板をぶち抜き心臓を砕くなど訳はない。ばたばたと、船縁に死体が倒れ込む。

 

 お仲間を一気に五人も斃されて、賊徒に動揺が走るが、それを逃すおれじゃない。

 右手にエンフィールドをだらりと下げれば、空いた左手でホイールロックを抜き放つ。更に二人を撃ち殺すが、賊徒は怯まず突っ込んで来ようとするので、後退しつつ銃を持ち替える。二丁目のホイールロックを抜き、間近に迫ったカンガセイロの、その顔面を撃ち抜いて斃し、今や死体となったそいつを蹴り飛ばす。続いて乗り込んできたやつらにぶつかり、動きが止まった所を更に後退、弾の切れた得物を置いてカットラスとサクスとを左右に構えた。

 段平にドスの二刀流は、おれの得意な流儀じゃあないが、相手も再装填が済むのを待ってくれるような手合じゃあない。

 

 おれは、若干の焦りを覚え、額に冷や汗が浮かぶのを感じる。

 

 この手の賊は殺し、奪うのが目当てであって、相手を斃すことは本来二の次なのが普通だ。つまりこの手の連中とやりあう場合は、初手で派手に二、三人を血祭りにあげて、コチラが容易ならざる相手だと悟らせさえすれば良いのだ。それで普通、相手は退く。普通ならば。

 

 だが現実に、奴らは味方の死体を踏み越えて、こちらに迫ってきている。

 おれは手首を返してカットラスの刃が上に向くようにかざし、左手のサクスの刃をカットラスのやや斜め下の所で突き出した。右手のカトラスで受け、左のサクスで突く構えだ。狭い船上での戦いは、ドスのほうが段平よりも使い勝手に勝る。そして“血の櫂”――エルフの古い言葉で、剣のことだ――の戦いに長ぜぬおれには、攻めるよりも守りを固めたほうが良い。なに、今度の仕事はおれひとり(・・・・・)の仕事じゃあないのだ。『鎧の男』はともかく、それ以外の相手を、必ずしもおれが斃す必要もない。時間さえ、稼げば良いのだ。

 

 果たしておれの見込み通り、いや、見込み以上の早さで、助っ人は現れた。

 賢い彼は無意味に吠えて己の存在を気取られるようなこともせず、静かに素早く、相手の喉首に噛み付いた。

 

「――ボルグッ!?」

 

 連中の最後尾に襲いかかったのは、霧に隠れて駆けつけたスューナだった。

 奇襲に浮足立った賊徒目掛けて、おれはカットラスとサクスを振るい、逆襲する。咄嗟に振り下ろされたサーベルの刃を受け止め、跳ね上げる。たたら踏む相手にほとんど体当たりするようにサクスを突き出せば、ちょうど肝臓の辺りに吸い込まれるみたいに切っ先は突き刺さった。拳を回し刃を回し、刳りながらサクスを引き抜けば、血反吐吐き腹を朱に染めて賊徒は斃れる。よし、まずひとり。

 

 スューナは既に次なる標的へと、密林の虎のように静かに襲いかかっていた。

 おれも、それに続くべく、カットラスを振りかざし、満月の夜の狼のように咆える。

 互いにおれ達は、新たにひとりずつ斃す。

 

 賊らしからぬ獰猛さで襲いかかってきた連中が、初めて浮足立った。

 ある者は川面へ飛び込むべく駆け、ある者は船の半ばへと退いて態勢を立て直そうとした。

 

 結論から言えば、正しい選択をしたのは川面へと逃げた連中だった。

 なぜかって? そりゃ当然の話さ。

 

 ――黒い颶風走る。閃光が煌めき、刃は血に染まる。

 おれには絶対に出来ないドス捌きは、カンガセイロどもを次々と血の海に沈めていく。

 小さな黒い体躯、文字通り疾風の如きファコンの刃。黒い蟻(オルミガ・ネグラ)のクルスにかかれば、この程度の連中を(ばら)すなど訳ないことだ。

 

 

「――」

「――」

 

 

 一瞬、クルスと眼があったが、互いに一言も発することはない。これもまた当然のことだった。生憎、おれとこの黒いコボルトとは、こんな時に声を掛け合うような間柄じゃあない。

 やっこさん、すぐにおれから視線を外すと、現れた時と同じ唐突さで霧の中に消えた。その背後に旋風が起きるほどの動きだった。

 

 おれはクルスとは逆の方向に動き、置いた射手としての得物たちを手探りに掴む。辺りに敵の気配がないことを確かめ、ホイールロックとエンフィールドとに再装填する。スューナはおれの背後に回って万が一に備える。

 

 だが、おれが再装填を済ませる頃には、カンガセイロどもがようやく尻尾巻いて逃げ始めたのが音と気配で知れるようになっていた。それでもおれは呪弾を込め直したエンフィールドを構え、備え待つ。待つうちに陽はより高く上り、ようやく朝霧が晴れてくる。今や賊は、一人として残らず、引き上げているのが解った。ノストローモ号を取り囲んでいたであろうカヌーの群れは、今や僅かに川面に漣を残しているに過ぎない。

 

「……うげぇ」

 

 視界がひらけてくると同時に、霧が隠していた惨憺たる有様も顕になって来たので――それをやったのが他ならぬおれ自身だとしても――、思わず顔をしかめてしまう。

 

 血と肉とはらわたの海を泳ぐ亡骸の数々は、どれも痩せこけた惨めな姿で、髪も髭も伸び放題で凄惨たる姿だ。だが身に纏っているものはと言えば、薄汚れているとはいえ何らかの制服であったことだけは確かな代物で、おそらくはバンダ・オリエンタルの政府が健在だった頃に、大河沿いの警備を担っていた部隊のものだろう。中には元は将校だったと思しきやつまで混じっている。肩の房飾り(エポーレット)が微かに、かつての権威というやつの残滓を放っている。

 この大陸では軍隊は監獄の役割を、兵役は懲罰の役割を担っている場合もあるから、こいつらがこんな風になる前からの悪党だったのか、あるいは国が崩れて食い詰めてこうなったのかは定かじゃない。だが、前歴がどうあれ、殺す気で向かってくるなら殺すまでのことでしかない。

 

 

 それにしても――だ。

 

 

 おれは改めて、おれが殺した男たちをつぶさに見る。見て、見れば見るほど、疑問ばかりが湧き上がる。ガリガリの腕、痩けた頬、稚拙で劣悪な装備……いかに眺めようとも、命がけでおれたちに挑んでくる手合とは見えない。貧すれば鈍するとは古人の言う所だが、しかしドラゴンに挑む蟻はいないのと同じ様に、彼我の戦力差はどれだけ鈍しようとも解るほどに明らかだったろうに。

 

「ん?」

 

 スューナが、屍のひとつに近寄り、その臭いを嗅いだ。

 だが奇妙なことに彼が鼻先を向けたのは、溢れる血潮でも、飛び散った肉片でも、垂れ下がった臓物でもなく、断末魔のかたちのままに固まっているカンガセロの死相の、その大きく開けられた口だった。

 気になったおれもまた身を屈め、自分の鼻で嗅いでみる。ボルグであるスューナには及ばねども、おれは鼻が利く方だという自負がある。

 

 ゆえに気づいた。噎せ返るほどの死臭(・・)に。

 賊徒自身の発したものではない。まだ血や肉から湯気があがっている内は、死臭がすることはない。ましてやこんな饐えた臭いは。

 

 ――嫌な想像が頭を過る。

 おれはふと、カンガセイロどもの使ってたマチェーテやサーベル、カットラスの、その刃を見た。それらはどれも過剰な程に刃毀れしていて、揃いも揃って脂に曇りきっていた。二、三人(ばら)した程度では、こうはならない。

 

 間違いない。コイツラはヒトを食っている(・・・・・・・・)。それも、文字通りの意味で。

 あの炯々した眼の、危険な輝きの正体は、なるほど飢餓に裏打ちされた食欲だったとすれば、なるほど連中がああも必死に攻め立ててきた理由も解ろうというもの――いや、本当にそれだけか? 確かに飢えた連中は普通ではないことをしでかすが、あの獰猛さの裏には何かこう、ヒトならざるものの気配すらおれは感じてたのだ。

 

 

 

「あるいは、『ウェンディゴ』の仕業やも知れぬよな」

 

 

 

 唐突に背後より響いた魔女の声に、柄にもなくビクリと身を震わせる。

 いつの間に操舵室より出てきたものか、アルカボンヌが例のニヤニヤ嗤いを浮かべながら、腕組み立っていた。

 

「このバンダ・オリエンタルは今や邪霊(ダイモン)共の跳梁跋扈する万魔殿(パンデモニウム)ならば、ウェンディゴが潜むも道理が内ぞよ」

 

 なにやら一方的に語り始めたのを無視しつつも、のたまう中身は聞き流すことはできなかった。なにせ、おれが考えていたことを、この魔女めはズバリと言い当てていたのだから。

 

 バンダ・オリエンタルの内乱が止めどなく広がり、深紅の大地となりはてたその理由のひとつに、深紅党(コロラドス)白亜党(ブランコス)のいずれかが邪霊(ダイモン)の力を使い始めたことがあるのだと、おれは難民のひとりから聞いた記憶があった。

 

 

 QUOD UBIQUE、QUOD SEMPER、QUOD AD OMNIBU CREDITUM EST

 『何時(いつ)にても、何処(いずこ)にても、常に在りて、常に在ると全人に信じられしもの』

 

 自然魔術(マギア・ナトアリス)の金言にもあるように、雲の裏に、葉の陰に、砂の内に、海の底に、風の中に、あるいは永劫の彼方に、たとえ姿は見えずとも確かにそこにいる、ヒトならぬエルフならぬドワーフならぬ、コボルトならぬオークならぬ蛇人間ならぬナニか(・・・)……それは時に精霊(アガトス)と呼ばれ時に邪霊(ダイモン)と呼ばれる存在だ。呼び名の違いはソレが備えた性質に拠るが、簡単に言えば自然の法則を司るのが精霊であり、非自然なる『向こう側』に潜むのが邪霊である。

 

 

 ――『生きとし生けるもの全てを絶つ万殺の悪魔、 魔のなかの魔、 千の術を使う魔王……我が先生たる大鴉のアラマは、邪龍(アジ)ダカーハなる怪物に出会ったというが、これぞ邪霊のなかの邪霊、旧く大いなるもの(モノロス・プリミヘニオ)の一柱であったのだ。折よく「まれびと」来たらざれば、果たしてこの世はいかようになっていたものか……』

 

 

 ふと、おれはもうひとりの先生たるリノア師から聞いた、ひとつの街を死都に変え一時は国ひとつ滅ぼしかけた、邪霊の親玉の話を思い出した。邪霊とはかくのごとき恐ろしきもの……それをバンダ・オリエンタルの連中は、安易に戦力として使おうとした。権力争いに加わった全ての陣営が互いに邪霊を召喚しあったのだ。

 

 かくして河の水は血に変じ、蛙が蚋が虻が大地を覆い、病と腫れ物が猖獗を極め、雹が打ち付け蝗が全てを食いつくし、闇が降りて幼子はみな死んだ。邪霊のもたらす人智を超えた呪いと災いの数々が国土を埋め尽くした。いや、呪いが及んだのは、国土のみならず、そこに住む人々の心にもだった。狂気が、事態を最悪のものに変えたのだ。

 

 今、おれが眼にしている『共食い』どもも、十中八九そんな狂気の犠牲者なのだろう。

 ウェンディゴは、風に乗って歩む姿なき邪霊であり、ヒトの心を骨肉相食む獣に変えてしまう。このバンダ・オリエンタルならば、ウェンディゴが潜んでいても何の不思議もない。

 

「……」

 

 おれは死体の数々を見下ろした後、霧が晴れた後の辺りの景色を見渡した。そこに広がるのは、悠久なる大河の流れと、川沿いを覆う緑豊かな木々草葉、川面から飛び立つ水鳥の数々だが、おれにはその美しい景色すら、怖気を催すものとしか見えない。

 

 なるほど、ここは確かに水鳥飛び舞う川面(ユール・グア・イ)かもしれない。

 だが同時にここは地獄だ。間違いなく地獄だ。

 

 そして何が一番恐ろしいかと言えば、ここはまだその地獄の入口に過ぎないということだ。

 おれは気が付かぬ内にエンフィールドを構え、その銃床を強く強く握りしめていたのだった。

 

 

 

 


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