魔王降臨 暴虐の双角竜   作:丸いの

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15. 逃亡者の焦り

 背後から轟く足音や小さな地震にも匹敵する地響きが、腹の底に重く伸し掛かる現実離れした重低音から段々と小さい物へ変化していく。谷間道の半分ほどまで逃げてきたハンス達と、音と地響きの発生源である"竜"との間の距離は当初よりも確実に広がりつつあった。

 散々閃光と煙幕で相手の視界を焼いたにも関わらず、一切直接手を加えるようなことはせずに逃走に徹したのが功を奏したのか、"竜"の人間たちへの執着心が薄れつつあるようだ。剥き出しに近かった闘争本能は既に鳴りをひそめ、勢い余って街道の両脇に巨体をぶつけるような事は無くなっている。

 当初こそは一行を追い詰めようと岩壁を砕きながら迫ってきていた"竜"だったが、今現在ではむしろ縄張りに侵入した小動物を軽く追い払おうとしているような変貌ぶりだ。ハンス達を追いかけているのは変わらないが、そこには当初の此方を殲滅させようという勢いは見られない。

 

「ハッ、ようやく諦めがついたか。しかしまだ気は……抜けねえよなァ」

 

 順調に走っていてもこの気温と日差しの中では谷間を抜ける所で自身のスタミナは尽きてしまうだろうと彼は確信していた。そして周囲の護衛隊の面々の表情にも疲れが明確に表れている。仮にまだ"竜"が此方を本気で殲滅しようと追いかけてきていたら、少しでも距離を空けようとハンスは腰に括られた最後の煙幕玉を躊躇いなく投げつけていただろう。それほどに一行の体力は消耗していた。

 

「レーナ殿、あと少しで奴を振りきれます!! あともう少しだけ辛抱を!!」

「ええ……分かってます」

 

 一行の中で特に疲労しているのはレーナだ。部隊長の励ましの言葉に答えながら彼女は懸命に足を動かし、どうにか全員のペースへと合わせる。"竜"と一行の距離が短くなっていった際、ハンスは拳程の大きさの煙幕玉を投げるだけで良かった。しかしレーナは息が切れつつある中で正確な詠唱をしなくてはならず、尚且つ魔法による体力の消耗も重く伸し掛かる。

 そろそろ逃走にも限界が近いのではないか、という心配がハンスの心の中を過る。しかし如何に逃げ切れそうな状況であろうとも、果たして休息を入れるような余裕が存在するのだろうかという気持ちも同時に沸き起こった。

 

 ともかく状況を確認しようとハンスが足を止めずに顔だけ後ろへと振り返った先には、既に歩調を緩やかにして侵入者が逃げるのを見届けようとしている"竜"の姿があった。舞い上がる砂埃によってかすれて見える折れていない方の巨大な角は所々不自然に黒ずんでおり、"竜"は二本の剛角を生やした頭を震わせながら低い唸り声を上げてハンス達の動きを見つめている。

 周囲に圧倒的な威圧感を与える"竜"の威嚇をその身に受けているが、そんな存在に今まで散々追い掛け回されていたハンスにとっては、むしろやっと向こうの歩みが止まりつつあると安心感すらも感じていた。"竜"が頑強な尻尾を地面に打ち付ける音が響く中で、彼は大きく深呼吸をついた。

 

「お疲れさん、騎士さん達。奴はもう此方を追う気は無さそうだぜ?」

 

 息を荒くしながら未だ走り続ける騎士達に向かって、ハンスは勝ち誇った笑みを浮かべた。彼にとって"竜"が足を止めたという事は、逃走劇という我慢比べにおいて巨大な"竜"に打ち勝った以外の何物でも無い。懸命に走っていた騎士たちは驚いた様に各々背後へ視線を向け、"竜"が既に接近してきてないことにもう一度驚き、そして皆が歓喜の表情を浮かべた。

 

「はあっ……ようやくですか……ッ!!」

 

 全員がゆっくりとペースを落としていく中で、気の緩みからか歩幅を緩めようとして前のめりに倒れそうになったレーナを、近くにいたハンスがしっかりと抱き止めた。彼女の細い体を支える腕には柔らかい感触が伝わり、立ち止まったことで一気に疲労が押し寄せてきたレーナはそのまま全体重をハンスに預ける恰好になってしまった。普段なら下品なニヤけ笑いの一つも浮かべるハンスだったが、この時ばかりは滅多に見せない穏やかな顔を浮かべていた。

 

「お疲れ様だ。アンタが居なけりゃこの状況までたどり着けなかった」

「ええ……本当に疲れました。侍女生活が長すぎて体力が落ちてしまいましたね……」

 

 深く息をつきながら、ハンスに体を預けたまま彼女は後ろへと振り返った。全員の視線が、直前まで一行を激しく追い立てていた砂色の巨体へと向けられる。おそらく殿となった雷龍を貫いたのであろう、砂に混じりながら所々赤黒く染まった剛角を前にして騎士達が恐怖と共に悔しそうな表情を浮かべる。

 巨大な頭の角の生え際に光る翠色の澄んだ瞳が騎士達全員を隈なく見渡した。その視線に震える者も居れば、逆に睨み返す騎士まで居る。そしてこの場に居る全員が、今のこう着状態がいつ崩れてもおかしくない物だという事を直感で悟った。

 騎士達を見据える"竜"がふと巨大な翼を少し広げながら一歩力強く踏み出し、踏み抜かれた地面が細やかな砂埃を撒き散らした。たったの一歩にも関わらず、僅かな地響きと共に込められた強大な威圧感が騎士達を襲う。

 

「……あまりゆっくりと休んでいる訳にもいかなさそうだ。冒険者殿、すまぬがもう少しだけ我々と生死を共にしてもらうぞ?」

「ハッ!! その心意気には感服するがな、ここまで来て死を共にするのだけは勘弁だぜ?」

 

 騎士達が素早く隊列を組み直す中、ハンスは調子よく部隊長へ冗句を飛ばし、対する部隊長も厳つい表情を幾らか崩した。未だレーナはハンスの腕の中で息を整えつつあるが、落ち着きを取り戻した騎士達がその様子を見て段々と生暖かい笑みを浮かべ、一方で部隊長は少々バツの悪そうな顔を浮かべた。

 

「あの、レーナ殿? あともうひと踏ん張りです。なのでその、まずは一旦冒険者殿に抱きついている体勢を戻しましょうか」

「……えっ!? あの、すいません!!」

 

 部隊長の申し訳無さそうな言葉を聞いから数秒後、しっかりとハンスに抱かれているという状況に気付いたレーナはまるで疲労を感じさせないような素早い動きで腕の中から離れた。少し顔を赤らめて慌てながらハンスへと向き直ると、彼はいつもの様なニヤニヤとした笑いを周囲の騎士達と共に浮かべていた。

 

「まあ良いって事よ。こっちとしても殺伐とした雰囲気を拭ってくれたしなァ」

 

 ワキワキと怪しげに手を動かすハンスから彼女は直ぐに目を逸らしたが、普段ならば間違いなく感じるであろう強い嫌悪感は不思議と心の中には沸き起こらなかった。ハンスの脇で笑顔を浮かべる護衛隊の面々は、その殆どがそれなり以上の貴族出身の騎士で閉められており、冒険者であるハンスがしたような下品な口調は下賤な物として蔑まれても別に可笑しなことではない。

 しかしごく短い時間であっても極限状態で逃亡を共に続けたからなのか、ハンスと護衛隊達は間違いなく出会った当初よりも心の距離は近くなっていた。それはレーナも同様であり、彼女はこれは一種のつり橋効果なのだと結論付け、小さく頭を振りハンスへと向き直った。

 

「ともかく、皆の息も戻ってきた訳ですし早めにこの道を抜けましょう!!」

 

 足元の砂礫を踏みしめ、谷間道の奥へレーナは振り向く。曲がりくねっているために出口は未だ見えず、荒れ地の乾燥した熱風が彼らの背後から道の奥へと細やかな砂を乗せて吹き抜けて行く。部隊長は照りつける日光で熱せられた肩当てに付いた砂埃を軽く手で払い、大きく頷くと厳かな雰囲気で護衛隊達に指令を下した。

 

「全員このままレーナ殿を囲い進め。いつでも走れるように完全な武装はしなくても良い。そして私か冒険者殿の合図があったら即刻走り出せ」

 

 唸り声を時折上げながら段々と殺気を大きくさせていく"竜"を刺激しないよう小さな声で言い終えると、護衛隊全員が一様に頷いた。彼らはレーナを取り囲んだ状態で道の奥へと歩き始め、その少し後ろからハンスが最後の一つとなった煙幕玉を手に、隊長が軽く装飾を施された長剣を握りしめ、一行の後を歩き出した。

 ザクリと乾燥した砂礫を踏みしめる音が足裏から響く。走っていた時に首や背筋に湧き出していた汗の存在がようやく邪魔に思えてきて、ハンスは手で乱雑に首筋を拭った。砂埃と混じりジャリジャリとした細かな不快感を首に感じつつ、茶色に汚れた手を防具の端で拭き、彼は背後を少し振り返った。

 

「化け物め、動き出す気配はねェな……あとは大人しく立ち去るだけだ」

 

 自分たちの後ろで威圧感を放ちながら縄張りを主張し睨みつけてくる巨大な"竜"に対して、彼はあろうことか大人しい魔物であると感想を抱いていた。護衛隊の話を聞く限りでは、どうやら彼らと同行していた強力な龍種を倒されたようだが、その倒した張本人の"竜"は今此方に襲い掛かるなどという事はせず、それどころか一歩引いたところで此方の動向を見張っている。

 ネイスが倒した火炎龍などの獰猛な龍種は、たとえ明確な危害を与えてなかろうと、そして冒険者達が縄張りの外に逃げようと、執拗に襲い掛かる。そして場合によっては縄張りを大きく外れた場所まで追いつめて来るという。彼らは持ち前の飛行力で冒険者をしつこく追い掛け回し、疲労が蓄積し動けなくなった獲物に炎の息を吹き付けて喰らうと冒険者達の間では恐れられている。龍種の執拗な追跡から逃れるためには、ネイスのように仲間の龍種に跨って飛んで逃げるといった特殊な方法を除いて、ただ逃げるだけでなく隠れる場所を探したほうが安全である。

 

 散々追い掛け回した一行に対して、一転して威嚇をしながら追い払おうとしている。ハンスは"竜"が一般的に知られている龍種と、外見以外にも異なる点が多いと結論付けた。

 

「奴は端から俺達を敵だとは認識していない……もしくは最初は敵と見なしていたが、途中から俺達が敵対するほどの力がないと判断したか」

 

 解釈次第では"竜"に見下されているとも取れるハンスの独り言にも、隣を歩く部隊長は憤りを感じてはいない。むしろ矢倉の様な大きさの魔物が、危害を与えてこない自身よりもずっと小さな人間に対して敵意を抱くとは考えづらいとさえ感じていた。肉食の危険な龍種は追いつめた敵を喰らう事が多い。それは彼らが敵を獲物として追いかけているとも言い換えられるが、一方でこの"竜"は去りゆく彼らを見張るだけ。

 

(つまり……この強さで草食系の魔物か!?)

 

 過剰進化、そんな言葉がハンスの中に浮かんだ。草食系の大型の魔物と言えば普段は比較的大人しく、怒ればそれなりに危険というのが常識であったが、"竜"にその考えは当てはまらない。荒地の環境は確かに厳しいが、これほどの異常な戦闘力を持たなければ生きては行けぬほど危険な魔物が多量に生息している程、この乾燥した大地は豊かな地域では無い。おまけにこの地域一帯で観測されたことの無い魔物、ハンスの頭には一つの仮説が浮かんだ。

 

「なるほど……随分と厄介な"流れ"だな」

「"流れ"だと? あの魔物が」

 

 "流れ"とは何かの拍子で本来の生息地を離れてしまった魔物の通称だ。それを聞いて部隊長はそれに対し疑問の声を上げる。ならば一体どこが奴の本来の生息地なのか、と。

 

「湖水地方か砂原の奥地か、一体どこから流れてきたかは知らねェ。だが今の今まで発見されなかったところを見ると"流れ"と考えるのが確実だぜ?」

 

 ハンスにとってもこの"竜"が一体どこから流れ着いたかは検討も着かない。しかし本来の生息地が危険な魔物の多い場所であったのは間違いない。あの"竜"はその危険な場所でこの体格になるまで生きながらえ、片方の角の先端が折れる程戦い抜いてきたのだ。過去に仲間と挑んだ一角竜に匹敵、もしくはそれすらも凌駕する歴戦の猛者なのだろうと彼は思いを馳せる。

 

「もしかしたら、あの一角竜も同郷なのかねェ」

 

 一角竜という聞きなれない魔物の名前に怪訝な表情を浮かべる部隊長を無視し、彼は大きく深呼吸をした。乾燥して熱せられた空気と共に、浮かんでいた細かな塵が粘ついた口内に不快感を行き渡らせる。

 ハンスは苦虫を噛み潰したような表情で口に沸いた不快感を唾液と共に飲み込むと、ふと心臓の鼓動が大きく感じられることに気付いた。既に走った時の息切れは収まっており、その時以上に心臓が締め付けられるような感覚と共に大きな音を鳴らしている。

 まるで強大な試練に直面したかのような感覚、しかし既に"竜"と遭遇してからそれなりに時間は経っており、彼は一体自身が何に対して一番の恐れを抱いているのかが分からずにいたが、すこし考え込むとすぐに答えを見出した。

 

(なるほどな……危険な依頼の達成間近。ここで奴の気が変わったら台無しか)

 

 やっと危険な任務から解放されるという感覚にばかり気を掛けていると、肝心なところで失敗を犯してしまうかもしれないというのは冒険者でなくても注意をしなければならない事であった。

 難しい依頼を久しく受けていたかったハンスにとっては少し新鮮な感覚であり、若干の苦笑いを浮かべつつ胸をなでおろした。

 

「久しぶり、か。あの時に比べりゃ腕も落ちたしなァ……うん?」

 

 昔を思い出し、少しだけ懐かしんでいたハンスだったが、ふと足に不思議な振動が微かにだが伝わった。

 別に地震という訳では無く、背後の"竜"の足踏みにしては小さ過ぎ、何しろ振動が細かすぎる。まるで複数名で馬でも走らせているような振動に似ている、ここまで考えたところでハンスの心臓がドクンと一つ大きな音をたてた。

 

「もしや……このタイミングでか!?」

 

 かなりの暑さにも関わらず背筋が薄ら冷えるような感覚がハンスを襲う。ハンスとネイスはあくまで先陣に過ぎず、彼ら二人だけが第三王女一行の救出隊であるとは限らないのだ。

 前を歩く護衛隊の騎士も数名ほど異常に気付き、冷や汗を垂らしつつハンスは雷に打たれたように後ろへと振り返り、そして絶句した。目線の先、静かに鎮座する砂色の巨体は首を上げて翠色の双眼で前を見据えている。一行の更に先、谷間道の奥を。

 

「マズイ、全員前へ走れ!! "竜"が事を起こす前に、早く!!」

 

 ハンスは"竜"を刺激するのでは、という危険性を度外視して大声を出し全員へと命令を下した。逃亡を開始してから初めてハンスの表情に大きな焦燥が浮かんだ。怪訝そうな表情の騎士も居るが、全員がハンスの指示で道の奥へと走り出した。

 あくまで此方が危害を与えないと理解をしたうえで"竜"は一行を追い払おうとしていた。そしてようやく侵入者が退散するのを見届けようとしたその時に、まるで増援のように"竜"の目の前に冒険者達の一帯が姿を現したらどうなるか、ハンスの頭に最悪の想定が浮かぶ。

 

「ああ畜生!! もう少し時間が経ってから、せめて数分でも後ならば!!」

 

 例えば"竜"の視界から離れた場所で冒険者達と遭遇出来れば、彼らと一緒に馬で街まで一気に逃げる事が出来た。例えば逃亡を開始した時点で冒険者達と一緒に居れたならば、撤退がより個々の負担が小さく行えただろう。

 冒険者達は"竜"が街道のこの場所にまで浸出しているという事はおろか、存在すらも信じていない者も居る。そして"竜"は既に曲がり道の向こう側へ警戒心を向けて、此方へと大きな一歩を踏み出した。一行の先にある大きな曲り道の先に冒険者の一団がおり、何の情報も無く急に巨大な"竜"と遭遇をして、そして一団の中の誰かがパニックに陥り攻撃を仕掛けようものなら。

 

「一体どうしたんです!? 既にあの魔物からは逃げられたのでは、なかったのですか!?」

「そろそろ冒険者達が直ぐに合流してくるが、"竜"が連中を敵と認識したら収集がつかなくなる!!」

 

 ほんの数分前、"竜"から逃げ果せた瞬間、確かにハンスの頭からは冒険者達との合流など消えてしまっていた。逃亡を開始した時でさえ、彼らとの合流に危険が孕んでいると考えていたかも怪しいものだった。

 自分の失態だとハンスは大きく舌打ちをする。危険性に気を配れていたのならば、まだ他にやりようはあった筈だ。決して走りを止めずに冒険者達の一団と出会うまで走り続けるか、もしスタミナが怪しいようならばいっそのこと酒場で事前に谷間道の外で合流するように話を付けておけたならば。彼の頭の中に既にどうしようも無くなった案が数個浮かぶたび、後悔の念が襲い掛かる。

 

「クソッ、最低でもあの曲り道を越えた所で連中と合流しなけりゃヤベェ!!」

 

 そして彼らの居る場所も運が悪かった。目の前には谷間の中でも最も急な曲り道の一つがあり、向こう側から此方はカーブがきつ過ぎて死角になっている。もし"竜"の歩調が早まって何も知らない冒険者達と鉢合わせになってしまったなら、どんな冒険者でさえパニックに陥るのは想像に難しくない。

 せめて"竜"と冒険者達が遭遇をする前に情報を伝える為に一行は走る速度を速めるが、それ以上に"竜"が歩くペースを上げる。一行は確実に曲がり角へと近づいてきているが、"竜"との距離は広がらないばかりか、段々と狭まってきていた。"竜"が地面を踏みしめる地響きが段々大きな物へと変わっていき、それに急かされるかのように護衛隊達は更に走るスピードを上げた。地響きによって冒険者達が乗っていると思われる馬の蹄の音が覆われてしまうが、ハンスはもう既にそう距離は無いと判断した。

 

「光魔法なら、まだ魔力は少し残っています!!」

「ダメだ!! 今使ったらもう逆効果、後戻りだ!!」

 

 散々足止めに使ってきた閃光魔法と煙幕玉は、最初こそ形振り構わず使ったものの、此方がそれらを使用している時に決して攻撃を仕掛けて来ないと"竜"が判断している、一種の信頼関係によって安全に使用できていたのだ。増援が来ているのかも知れないという所で使用するのは、"竜"へ不意打ちを仕掛けようと誤解をさせる可能性が有り、そうなると完全に手に負えない事態に陥るとハンスは判断をしていた。

 

「あと少しだ!! ペースを上げろッ!!」

 

 比較的重装備の護衛隊を大きく迂回する形で軽装のハンスは先頭へと移り、より走るスピードを上げる。ようやくどんな状況下に置かれているのか理解した騎士達が懸命に走りながら焦りを顔に浮かべた。

 もう既に息は切れかかっており、ただ叫ぶのさえも非常に辛いが、ハンスは懸命に目の前に迫った曲がり角へと向かった。あと十数秒あれば彼らと合流でき、更に十数秒あれば彼らに事情が説明できる、それだけを考えながら。

 

「あっ、地響きが……」

 

 それは前方から複数頭の馬が地面を蹴る音に混じって微かに聞こえた声だった。

 

 ハンス達が曲がり角に到達する前に、死角から勢いよく砂埃が舞うのが見えた瞬間、散々後ろから響いてくる巨大な音がまるで全く聞こえなくなったような錯覚にハンスは囚われた。時間切れという言葉が彼の頭を駆け巡り、苦しかった息切れさえもまるで最初から無かったかのように感じてしまう。しかしそれも一瞬の事、護衛隊達の目の前に次々と疾走する馬の姿が目に入り、乗っている冒険者達が一行へ驚いた表情で目を向け、そして更にはハンス達の後ろに鎮座する物へと目を移し、絶句した。

 

 視線の先には砂色の大きな何かがあり、その先には何か綺麗な翠色の物がある。それが巨大な"竜"の二つの瞳だと完全に認識した瞬間。冒険者の先頭を走っていた男の目線が、此方を向く翠色の双眼とピタリと合わさってしまった。無意識の内に馬を無理やり止めて、彼は吸い込まれるほど綺麗な翠色に言葉を失い、そして唖然とした表情で口を開いた。

 

「何だ……あの、化け物は」

 

 次々と冒険者達は馬を止めて、大同小異は有るが同じような感想を口にする。数多くの視線をその身に受ける"竜"は、小さく翼を広げ、唯でさえ巨大なその身体をまるで一回りも大きくなったかのような姿を見せつけ、二本の剛角を照り付ける太陽へと向けた。唖然とした表情を向ける冒険者を鋭く睨めつけながら、"竜"は大きく口を開いて息を吸う。その瞬間、呆然と立ち止まっていたハンスは口を開いた"竜"の姿を見て弾かれたように叫んだ。

 

「今すぐ耳塞げェ!!」

 

 その言葉に気付いて耳を塞いだ者たち、呆然としたまま動けなかった者たち。それぞれが居る中で"竜"は大きく首を揺らし、極限まで大きく口を広げる。

 

 その身に合わず驚くほど澄んだ高い咆哮が、再度谷間道の風に乗りって響き渡った。


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