神保町は、例えば本のインクの匂いだったり、カレーの香ばしい匂いだったり、魅惑的なで印象的な匂いを醸し出している店が多いイメージがある。
そのイメージに違わず、今日の神保町も、道沿いに建ってある店を通る毎に、思わず立ち止まってしまいそうな衝動に駆られる。ちょっと本屋に寄って行こうか。ちょっとガッツリ夕食を食べる前に、小腹を満たしておくか……。
その欲望に従ってしまうと、待ち合わせの時間に遅れることは必至だ。
曲がりなりにも一時期、色んな人の欲望を窘める行為に励んでいたのだから、これくらいの欲望に負けてどうする。抗っていけ。
と、自分で自身を叱咤激励していたら、目的地に着いていた。
定番のカツカレーが美味しいと評判のカレー屋さん。そこで、既に待っている人がいるはずだ。
店に入り、店員さんに、もう席を取ってもらっている人がいることを告げてから、そちらへ向かう。
「よ、よう」
どもってしまったのは、その人と会うのが久しぶりだったから。
そして――何より、年を重ねるごとに鋭さを増した、その人の美貌にあてられたからだ。
「こんにちは」
そんな俺の心象なんかお構いなしに、
一二三は言う。
ただでさえ、現役の女子高生だった時も、その(将棋に打ち込んでいる時以外の)落ち着いた振る舞いと、大和撫子という形容がよく似合う顔立ちから、和風美人の称号をほしいままにしていたのに。
その一二三が、成人になる年を迎えたらどうなるか。答えは言わずもがなだった。
「何頼む?」
「そうですね……ここに来たのも久しぶりですし……」
「そうなんだ」なんとなく相槌を返す。
「カツカレーで」
「なるほど」
「特盛りで」
「特盛り」
……俺の周り、よく食べる女の人が多いような。よしなんとかさん然り、双葉然り。
俺はカツカレーの大盛りを頼むと、店員さんは一二三をチロチロと横目に見ながら、厨房に帰っていく。
「変に勘ぐられたかもしれませんね」
クスリと一二三は笑う。
「え?」
「あの店員さんに」
「えっと……あ、ああ」俺は頷いた。「それはないんじゃないかな」
恐らく、先程の店員さんに、俺と一二三は今デート中なのではないのかと疑われた可能性を、気にしているんだろう。
「そうですか?」
「うん」
「どうして?」
俺の頷きから、間髪入れずに聞いてくる一二三。
「一二三が有名人だからだ」俺は言う。「女流棋士として名を馳せてる一二三が、顔を隠すこともしないで男の人と喋っているのは不自然だ。それに俺と一二三は、この店に初めて二人で来た訳じゃない。その辺りの事情を知っている店員さんだって、この店に残ってるはずだ」
それに今、一二三は男の棋士とお付き合いをしていることを、世間に公言しているだろう、とは。
どういう訳か、口から出てこなかった。
「なるほど、なるほど」俺が言ったことを、ゆっくりと口の中で噛むように一二三は言った。「……ともあれ、今日はお誘いいただいて……ありがとうございます」
「あ、い、いや。こちらこそ、急に呼び出してごめん」
「いえ。……久しぶりにこうやってお食事をすることは久しぶりだったので、その……嬉しかったです」
窓から入って来る光は、電灯から発せられたものばかりだ。秋の夜長。行き交う人は各々秋の装いと呼ぶに相応しい長袖の服に身を包んでいる。俺と一二三もその例に漏れず、肌の露出は極端に少ない装いとなっている。
「それで、その……双葉さんは」
「ああ、ごめん」俺は言った。「今日は、連れてないんだ」
「いえ、そうではなく」
「?」
「喧嘩……されたんですよね?」
え。
いや、なんで。
読むことに長けている一二三とは言っても流石に、それはもう千里眼の域なんじゃないか?
と、俺は一二三の異能の発現に戦慄していると。
「双葉さんからも、LINEが入ってたんです」
「あ、ああ」
なるほど。
ストレートに事情が伝わっていたのか。少しホッとした。
しかし、双葉も俺も、困ったら一二三に相談していたんだな……。
……。
「……? どうして笑われているのですか?」
「あ、いや、なんでも」わざとらしく咳ばらいをする。「それで……双葉は何か言ってた?」
怒っているだろうか。ああ、怒っているだろうな。
何故なら、双葉がどうしてあの時怒っていたのか、今でも分かっていないのだから。
もう何年も一緒にいるはずなのに、双葉の気持ちを察せられていないのだから。
「いえ」しかし一二三は首を横に振った。「電話から聞く限り、申し訳なさそうでしたよ。『寝ぼけて、変なこと言った』、『私は、サイテーだ』、エトセトラ」
「……」
「昨日、双葉さんは、貴方が誰かとファミレスで食事されていることを、偶然見かけたそうです」
「……!」
え。
あの、よしなんとかさんといた場面を、双葉に見られていたのか。
いや、別に後ろめたいことをした訳じゃない。でも……でも、双葉に『あらぬ誤解』をされてもおかしくはない状況ではあったはずだ。
「いえ」再び一二三は、俺の推論を否定する。「双葉さんは信じていたはずです。貴方は双葉さんを心から大事に思っている。それは、誰の目から見ても明らかです」
恐ろしいくらい恥ずかしいことを言われて、耳を赤くしながら何かを言おうとした俺を、
「でも」
しかし、一二三は制した。
「ほんの出来心で、試してみたくなったそうです。私はちゃんと慕われているか。私が我が儘をいうと、ちゃんと彼は叱ってくれるだろうか」
だから俺は、双葉を朝見た時に、妙に機嫌が悪いと感じた。
その時に俺は、更に機嫌が悪くなることを恐れて、あまり構わないよう心掛けた。
そんな俺の振る舞いが、双葉の目からは自分に無関心なように映った。
「……」
だから、双葉は。
それなら、双葉が申し訳なさを感じる必要なんて、ないじゃないか。
「……俺のせいだ」
「貴方は悪くないです」
「でも、俺は双葉の気持ちに気づけなかった。推測できるヒントは幾らでもあったのに」
「どうしたって言葉にしないと分からないことだってあります」
「でも相手は……双葉なんだ」俺は一二三の目を見て言う。「惚気たい訳じゃないけど、俺はずっと双葉と過ごしてきたんだ。それにしたって、数年ぽっちの付き合いかもしれない。でも……それでも、双葉の気持ちは慮ってしかるべきだ」
「それは……」
「『人は変われない』……だろう?」
いつぞやか、一二三は今回と同じようにどこかのカレー屋さんで言っていた。
人は簡単には変われない。考え方や、自分の中の信念とか、正義とか、判断基準とかを、RPGの装備みたいにガチャガチャと切り替えることはできない。
今回の件もそれに当てはめてみれば、俺は双葉の構って欲しいという心情を、汲み取るべきだったのだ。
「……それでも、双葉さんと会ってから、もう4, 5年は経っているでしょう」
「あの日から、双葉の何かが特別に変わったようには、俺には見えないよ。ずっと双葉は双葉だ」
「それは双葉さんがずっと身近にいるから、日常の些細な変化に気づいていないだけです」
「……っ、じゃあ、」反論する一二三に腹が立ってきて、俺は少し乱暴な口調で言ってしまう。「一二三は何か変わったことでもあるのか?」
「はい」
一二三はあっさりと頷いた。
「好きな人が変わりました」
「……………………あ、ああ。棋士の」
「変わる前の人は聞かないんですか?」
一二三は試すように俺を見た。それを聞くことは、俺と一二三の関係の、核心的な部分に触れる気がして、なんとなく視線を逸らしてしまった。逸らされた一二三は、その視界の端っこで、薄く笑っている気がした。
「変わりますよ。変わります。すぐに、意識的に自分を変えることはできないけれど、どう頑張っても、人と関わってさえいれば、人は変わってしまいます。……私も。双葉さんも」
じゃあ。
どうしたらいいんだ?
人が知らない間に変わっていくのを、ただ眺めるしかないのか?
「そんなこと、貴方にも分かっているはずです」
「……。こうやって?」
「はい」
一二三は笑って頷いた。
俺も仕方なく笑う。
程なくしてやって来た特盛りカツカレーを、俺たちは――、
「……え?」
特盛り? あれ、俺は大盛りを頼んだはずなんだけれど。間違ってオーダーが通ってしまっていたようだ。
ちょっと、一二三……、
「ううん、相変わらず美味しそうですね……!」
……は聞く耳を持っていなかったようだ。目の前のカツカレーにご執心だ。
仲直りはとりあえず、この『カツカレー特盛りを完食する』という試練を突破してからか。
大変そうだ。でも。
「早く食べましょう……!」
あっという間に時間は過ぎそうだ。