7/23
「やぁ」
神田の教会で、神父さんから一二三の家の事情を知った帰りのことだった。
電車の中で、明智と鉢合わせた。明智はやっぱり、いつものアタッシュケースを左手に持っていた。突然に知り合いと出会い、挙動不審になりそうだった俺は、それを誤魔化すように無理矢理声を出した。
「お、おう」
どもった。いや、まだ慌てるような時間じゃない。軽く会釈をして明智に向き直る。
「奇遇だなぁ。こんな所で会えるとは思ってもいなかったから、嬉しいよ」
明智は手を差し出した。……なんだ?
「あはは、珍しいものを見るような目で見ないでよ。握手だよ、握手」
「あ、ああ」と俺は言った。「すまん。その習慣に慣れてなくて。悪い手だったよな」
「いや、それは」明智は微妙な笑みを浮かべて言った。言ったきり、少し間を空けた。
「やっぱりいいや。もしかしてさっき、将棋でも指しに行っていたのかな?」
「ええ?」
図星だった。正確を期して言えば、将棋はしていない。でも、神田へ一二三に会いに行ったことは確かだ。「ああ」とか「ええ?」とか、まだ殆ど言葉らしい言葉を明智に言えていないのに。とんでもない推理力だった。
「第二の私立探偵高校生は、伊達じゃないということか……」
やはり天才か。なんなら一二三も天才だし、双葉も天才だ。三人の天才に囲まれたこんな状況で、俺になにができるというのだろう。
「いやぁ」明智はあからさまに照れた。照れる真似をしていた。「いや、それ程でもないんだけど。まあ、それでいいや」
明智は勝手に納得して、仕方なさそうに肩を落として笑った。
「あ、もう降りないと」
と明智は言った。言って、胸ポケットから手のひらサイズ程の紙を取り出した。
「これ、名刺。ちょっと大袈裟すぎるかもしれないけど、意外と役に立つんだ」
「なるほど」
俺はその名刺を受け取った。明智はともかく、自分の名刺なんて今後数年は持つことはないだろう。今はもっぱら、見ず知らずの人に予告状を差し出してばかりの人生だ。
「それじゃ」
「ああ」
電車を降りて、人混みに紛れる明智を俺は見送った。
感情表現の豊かな人。双葉のそれに勝るとも劣らないけれど、明智はそれは何か、洗練されている感を抱いた。少ない動作で、ストレートに自分の思っていることを伝えられる能力を持っている。そう思った。
7/24
パレスの主を改心させると、持ち主を失ったパレスは崩壊する。先の例に漏れず、今まさに麻倉パレスも所々が崩れ始めていた。
このままでは、偽コロッセオ共々俺たちも木っ端微塵になってしまう。この難を逃れるための方法は、今のところたった一つしか見つかっていない。
逃げる。ひたすら逃げる。無我夢中で逃げ惑う。そんな古典的な方法で、今までに3回にも及ぶ危機を脱してきた俺たちは、モルガナにさっさと車になるよう指示しようとしていいるところだった。
しかし。俺たちを遠くで見つめる黒い影が目に入った。その影は明らかに人の形をしていた。俺たちや、麻倉以外の誰かがこのパレスに来ているのか? 気になった俺は、竜司や真の制止を振り切って、黒い影の所まで駆け寄った。
「お前は誰だ?」
影は何も答えなかった。しかしよく見てみれば、その影は人が黒いコスチュームに身を包んだ姿のようだった。シルエットからして、中に入っているのは男だろう。
『我が名は双葉!』
ボケのつもりなのか何なのか、スマホから自分の名を叫ぶ双葉の声が聞こえて来た。
「……ふたば?」
声のする方向からして、それを喋ったのは目の前にいる男だろう。それに、どこかで聞いたことのある声だ。
『え、なに今の声。カレシ、そんな声も出せるなんて多才だな! マスターの声も、きっとそのうち上手くなる!』
「ちょっと、双葉」
スマホを取り出そうとして、一瞬目を離した隙に、
「あれ……?」
その男は消えていた。さながらデパートに親が連れてきた小さな子供のような、逃げ足の速さだった。
慌てて後を追おうとしたが、
「まずいな……」
気づけば、足元まで崩れ落ちそうになっていた。残念ながら迷子センターに連絡を入れる時間さえなさそうだ。
俺は迎えに来てくれた、竜司の操縦するモナカーに飛び乗った。
8/21
――そんな緊張感を打ち破るように、扉の鈴が鳴った。
「こんにちは」
明智だった。相も変わらず洗練された、自然な声だ。ともすれば野暮ったく思われそうな長い髪は、アッシュに染めた髪色で軽減されていた。
「あ、ああ」
マスターは、バツが悪い素振りも見せずに言った。感傷に浸ろうにも、客が来ないとマスターの首が回らなくなる。喫茶店、それも個人が経営するそれは、手間や技術の割に合っていないことを、たった数ヶ月店の手伝いをしただけでもなんとなく感じていた。
「近くで用事があったので、寄らさせていただきました。珈琲、頂けますか」
「はいよ。ブレンドは?」
「いつもので」
「いつもの?」
「ええ、はい。……えっと――」
「いや、分かってる。ちょっと時間かかるけど、いいか?」
「はい、構いません」
マスターとのやり取りを終えると、明智は俺の隣に座る。マスターは、何か仕込みがあるのか奥のキッチンへと入って行った。
「やぁ」
「ああ、うん」
「奇遇……でも、ないかな。時々ここで会うことはあるけれど、いつも君、どこかに行ってしまうから」
「ああ」
常連というほどでもないが、明智は時々、ここに足を運んでくれていた。学校からの帰りや、一回帰ってきてからまた外に出る時に顔を合わせたのは、一度や二度じゃない。それでも、こうして隣に座られるのは、確か今回が初めてだったはずだ。
「あれ……これ」
明智は言うと、目の前にあったカップを手に取る。それはマスターが置いた、今日が命日である一色若葉さんへのものだった。
「君の?」
「ああ、いや」俺は口ごもった。「……さっき、来てくれた人のもので。もう、帰ってしまったらしい」
「殆ど口をつけずに?」
「うん。そうらしい」
「もったいないね」
「うん」
俺の返答が素っ気ないことに気付いたのだろうか。明智は俺の顔を見た。
「もしかして、君のだった?」
「え?」俺は明智の顔を見返した。「あ、うん、そう。そうなんだ」
「じゃあ、それは?」
「え?」
俺はまた明智を見た。彼が指さした先には、俺の目の前に置かれたカフェオレが置かれてある。それは今まで俺が、ちびちびと飲んでいたものだった。
……まずいな。墓穴を掘ったかもしれない。でも、後には引き下がれない。
「お口直しで」
「お口直し?」
「そう」俺は仰々しく頷いた。「まだ、ブラックコーヒーは飲めないから。でも諦める訳にはいかないから、こうやって甘いカフェオレを脇に置きながら挑戦してる」
どうだろう。いや、ダメだろう。泣く子も黙る探偵をそんな、浅い嘘で誤魔化せる訳がない。
「あはは」
しかし明智は、そんな俺を見て笑った。
「君、やっぱり面白い」
「そんな」
ラノベとかに出てくる、冴えない主人公と冴えないヒロインの冴えないやり取りを傍から見てなぜかくつくつと笑っている第二のヒロインみたいなことを言われても。
それに、やはりこんな嘘で明智が騙されてくれるはずがない。でも今は、明智は壁に掛けられた『サユリ』を見て興味深そうに頷いている。
だとしたら何故、明智は追及してこないのか。
やっぱり明智が元来持っている優しさ故のことなのか。
やっぱりそもそも俺にそこまで興味がないのか。
食えない奴だ。と、俺は初めて、明智に対して『いい人』以外の感想を抱いた。
「あ、それでさ」明智は突然思い出したように言った。「一つ、聞きたいことがあるんだけど」
なんだ? と俺が言おうとする前に、
「そうじろー!」
けたたましい鈴の音と共に、双葉が入って来た。
「……っと! カ、レ……!?」
おそらく、シ、と双葉は言おうとしたようだったが、
「きゃ、客。……しゃぃあせー」
手前に居た来客に気付き、言葉を濁した。双葉や俺のような人種は、初対面の人に対してあまり強く出ることができない。言うなれば水と油……いや、水に対する紙みたいなものだ。
ふん、とか、ふゃ、とか、怪しい謎の言葉を漏らしながら、双葉は俺のもう一方の隣に座る。
「謎のイケメン男子……ナニヤツ。……あれ、そのコーヒー飲んでないの?」
「ああ、これは」と明智は言った。「僕のじゃないよ」
「カレシの?」
「いや、俺のでもない」
「訳わからん……。でも、まあいいや! 私が飲んでしんぜよー」
と言って、双葉は身を乗り出してそのカップを引き寄せた。そしてその中身を一気にあおる。
「……ぬるい! これじゃ売り物になんない!」
「え、双葉?」キッチンから、マスターの驚く声が聞こえてきた。
「……双葉?」
双葉の名を繰り返したのは、明智だった。
「なんだ?」と俺は聞いた。
「え? ああ、いや」と明智は言った。「なんでもないよ。……あ、もう行かなくちゃ。君にも、それに双葉さんにも悪いだろうし、ね?」
「え?」
明智はそそくさと席を立った。どうやら本当に帰るつもりらしい。さすがに気を遣われ過ぎな気がするし、なにより話が急すぎる。
「ええと」俺は聞いた。「一つ、聞きたい事ってなに?」
「なんでもないよ」と明智は言った。「……それに、もう用は済んだ」
用は、済んだ?
「それって、どういう――」
「それじゃあね」
と言って、そそくさと店を出て行った明智。食えない奴……というより、これじゃあただの変な人だ。ルブランにわざわざ来て、何も頼まずに帰る。なのに、もう用は済んだとか言い出す。
何かがおかしい。ぬるい、ぬるいと言いながらもブラックコーヒーを飲み続けている双葉を余所に、俺は思った。
「わりぃな、遅れちまって……って、明智は?」
マスターの仕込みがただの無駄骨だったことに気付くのは、それからかなり後の話だ。