日本で一、二を争う遊園地の貸切。メメントスを数百回往復しなければ得られないような料金を目の当たりにして、夢の国に入国する前まで俺は戦慄していた。というよりしろ、緊張でブルっていた。回らない寿司屋にマスターが連れて行ってくれた時に、時価と書かれたウニに戦々恐々して結局頼むことができなかった俺に、莫大な予算を必要とするこの行事に、俺が心から楽しめるわけがない。そう踏んでいた。
しかし、デスティニーランドは凄かった。より詳細に説明すると、デスティニーランドの店員さんが凄かった。どのアトラクションの店員さんも、厳しい現実を忘れさせてくれるような、そんな魔法のような笑顔を俺たちに振りまいてくれた。そんな訳で、俺はそれなりに、いや、十二分に良い夢を見ることができている。
「双葉ちゃんも、来たらよかったのにね」
どのアトラクションも適度に乗っていた杏は言った。他のメンバーも、彼女の言葉に頷いていている。唯一心配そうに、俺に目配せをしていたのは一二三だ。
「ああ。だが、用事があるらしくて」
嘘だ。双葉には今日、大切な用事があるとは言ったが、デスティニーランドに行くとは言っていない。理由はもちろん、双葉を怪盗団から遠ざけるためだ。素直に招待することも考えたが、その場合、怪盗団の話を双葉の前ではしないよう、皆んなを説得するための別の嘘を用意する必要があった。
「でもよー実際。お前は強引に連れて行きたかったんじゃねぇのかよ。だって……な? 彼女と遊園地デートゥボェ!」
開園早々、名前にジェットコースターと付くジェットコースターを全て乗り回し、目も回していた竜司がなんか言っていた。心なしか、顔面が蒼く白く染まっている気がする。
「いや、まあ。けど、双葉の予定も優先したいし」
これも嘘だ。一緒に遊園地を楽しみたかった。夏祭りでの経験もあって、双葉は人混み嫌いを克服したようだが、かと言って人混みが好きになることはない。だから双葉と俺が心置きなく夢の国に入られるタイミングは、今しかなかったと言っても過言ではないだろう。でも、双葉が過去を思い出してしまう可能性の芽は、なるべく潰しておきたかった。
何気なしに、視線を彷徨わせてみる。どこを向いても、どこで写真を撮っても、幻想的できれいな風景が映っている。とりわけ、俺たちを見下ろすように聳え立っている大きな城は、夜の雰囲気に当てられて中々の迫力があった。時々、思ったよりも静かな花火が夜空に浮かんでいる。
花火で思い出すのは、やっぱり今年の花火大会だ。あの日から、俺と双葉の関係はゆっくりと始まった。
でも、その日と同じくらいに、大切で忘れがたい1日があった。四月九日。屋根裏部屋での下宿初日。ベッドの埃に甘んじて、かつマスターが携帯を忘れてさえいなければ、双葉との出会いは全く異なったものになっていただろう。そう思うと、あの天下のインスタント焼きそばが、俺たちを引き合わせてくれたと考えられなくも……いや、それでは全く趣がない。全然あはれじゃない。やっぱりあれは必然の出会いだったのだと、そう思うことにしようか。
思い返せば、全部が楽しかった。泣けるくらいに楽しかった。双葉にUFOをタダ食いされたこと。双葉の部屋にうみゃあ棒を持ち込んだこと。双葉の偏った知識に困惑したこと。やや強引な理由で双葉を富士の湯に拉致したこと。湯上りの双葉にUFOをご馳走したこと。
双葉と真の尾行を突き止めたこと。双葉の部屋に、掃除をしに行ったこと。盗聴を責められた双葉と、仲直りをしたこと。双葉が一二三に将棋で勝ったこと。双葉と秀尽学園に訪問したこと。双葉と作った盟約ノートを完成させたこと。双葉と花火大会に行ったこと。
双葉と居間でスイカを食べて、一二三をメンバーとして迎えて、麻婆豆腐を作って、海に行って、ハワイに行ったこと。
それくらいの、いや、それ以上の幸せをこれから将来、双葉と積み重ねていけるのだろうか。俺は双葉との思い出を思い出す度に、時々不安になる。それは半分本気で、半分惚気のどうしようもないものなのかもしれなかった。でもこの不安を止められる訳もないし、これからも避けられない不運と苦境は、きっと俺たちを襲ってくる。
だから、一二三のような、尊敬できる人に相談する。マスターのように、薄暗い感情の まま、一人でじっと考え込む。時には双葉のように、天真爛漫に振舞ってみる。そんな対策法と心の処方箋は、俺が今まで過ごしてきた中で手に入れた、掛け替えのない友人と経験によるものだ。
だから、きっと、大丈夫なはずで。何も思い詰めて苦しむことはなくて。睡眠不足で疲れる必要も、ない。
俺は納得して、深く沈んだ思考を上へ上へと引っ張り上げる。すると次第に、みんなの声が聞こえ始めてくる。
「始まるようです」
一二三が顔を上げた。祐介も真も、各々自分のスマホの画面を見つめている。もうそろそろ、奥村の記者会見が始まる時間だ。
『本日はお忙しい中、弊社にお集まりいただきありがとうございます』
「ドンピシャだな」
「お父様……」
記者会見は恙なく進行していった。社員に過酷な労働を強制したこと。食品の衛生管理がずさんだったこと。企業の実態を奥村は真摯に語りかけていると、俺には思えた。
一通りの会見があった後に、質疑応答の時間に移っていった。奥村の怒りを引き出すのが目的の、煽りを含んだ質問にも、奥村は冷静に対処していた。
そして。
『――まずは、ここまで間違いありませんよね?』
『……はい』
『それって、偶然なんでしょうか? そこのところ、どうなんです?』
『……』
初めて、奥村は間を空けた。その間に、鳴り響くシャッター音が、やけにうるさかった。
『それについては、重大な発表があります』
「いよいよだな……」とモルガナが言った。「オクムラが、廃人化の話をするぞ」
いよいよだった。もうすぐ、奥村との一件に片がつく。双葉と遊びに行ける。表情が少し浮ついているように見える、心配そうに父親を見つめる春以外の皆と同様、はやる気持ちをなんとか抑えていた。
会場が一瞬、静寂で満たされる。奥村は、口を開いた。
『実は……あ……あぁ』
初めは、奥村が犯人の名前を告白することを躊躇っているのだと思った。でも明らかに黙る時間が長すぎる。奥村の様子がおかしい。
「え、え……なに、これ?」
奥村は必死の形相で胸を抑えた。目を剥きながら天井を見上げ、苦しそうに喉を詰まらせている。それが演技ではないことは、誰にでも分かった。
突如、奥村は何かを吐き出して、下を向いた。表情は、この画面からは知ることができない。
そして。
「ひっ……」
杏の小さな叫び声が聞こえた。わずかだが、会場からの悲鳴も聞き取ることができた。おぞましい表情に変わり果てた奥村は、数刻画面に映ったのち、社員の陰に隠れていった。
「え……?」
「お、お父様……!?」
「な、なんか、いきなり倒れたんだけど!」
あの姿、そしてあのタイミング。皆口では言っていないが、奥村の身に起こったことを考えるなら、あれは廃人化……による、症状か。
しかし、なぜだ? シャドウ奥村は、前の四人と同じように、ちゃんと改心させたはず。だとしたら、何が原因となって、奥村が廃人化してしまったんだ?
周りを見渡してみると、口々にみんなが慌てる中ただ一人、一二三だけが額に汗を浮かべて何かを考えていた。俺もそれに参加しようと、もう一度考え込む姿勢を取ろうとした俺の行動は、けたたましく鳴り響いた着信によって防がれた。
俺は慌てて、ポケットにしまいかけたスマホを持ち直した。着信元は『佐倉双葉』。ノータイムでスマホを耳に当てた。
記者会見の後に掛かってきた双葉からの電話が、果たしてただの偶然なのだろうか?
「双葉?」
「あ……カレ、シ」
スマホ越しに聞こえてくる双葉の声は、ひどく元気がないように思えた。
「どうした?」
「今日……いつ、帰ってこられそう?」
俺はもう一度、周りを見渡した。まだ場は騒然としていた。更に今は、四茶から遠い埋浜にいるのだから、すぐ帰られそうではない。
「いや、まだちょっと、難しいかな」俺は素直に答えた。
「……分かった」
やっぱり何か、元気がない? という双葉への質問は、彼女からの新しい質問に被せられた。
「ねぇ」と双葉は言った。「明日、遊びに行けるよね?」
「え?」
なんで今、その話を持ち出すんだ?
「分からないよ」と俺は言った。「分からない」
今、明日のことを考えていられる余裕がなかった。今すべきことにばかり、思考が寄ってしまっていた。その言葉が、双葉にどう解釈されるのかというところまで、頭が回っていなかった。
「……うん、分かった」
だから、双葉が頷いてくれたことに、安心してさえいたのだ。
「うん、じゃあ」と俺は言った。
「サラバダ」
「サラダバ……え?」
電話が切れた。双葉から電話を切ることはあまりよくあることではなかった。するともしかしたら、珍しく双葉が気を遣ってくれたのかもしれない。
「お、おい、モルガナ……これ、どういうことだよ?」
「そんな馬鹿な! ありえない」
「……私たち、間違ったことはしていない……よね?」
依然と、場の混乱は続いている。春は、まだスマホで見たことが受け入れられないのか、茫然と立ち尽くしている。祐介まで、今が冗談を言えるような状況ではないことを、悟っているようだ。
俺は……。
>奥村やみんなが気になる。
>双葉が気になる。