5/14
「……おひさ。6日と五時間十四分振りの、おひさ」
階段を上る音に気付いたのか、扉をノックする前に向こうから声が掛けられる。双葉の言う通りここに来たのは久し振りで、この奇怪な装飾が施された扉に対峙するのも6日……と五時間なんちゃら振り。よく覚えてるもんだ。
「もう、来ないのかと思ったぞ。うみゃあ棒をいきなり持ち出してきたかと思えば、またどっかに行く。パソコン立ち上げた直後の、マウスカーソルの変なグルグルを見てるような感じだった。……退屈、だった」
退屈。
やはりこのご時世パソコンという文明の利器が出来てからも、やはり引きこもってばかりいれば退屈に感じてしまうものなのだろうか。あまりそこらへんの事はよく分からないけれども。
しかし、退屈だったという事は――少なからずは、俺との会話を窮屈には思っていなかったと受け取っても良いんだろうか。
ふむ。
ふむふむ。
嬉しい事を聞いた気がする。
「じゃなくて! そそ、その……そうじろーはあんまり、お菓子買ってきてくれないから」
双葉は早口でまくし立てる。彼女は時々こうやって、口が頭の回転に追いついていないような調子になるようだ。俺はもちろんそういった事を経験したことはないのだけれど……あれって、どういう感覚なのだろうか。
扉が小さく開かれる。そこからそろりと細い手が出てきて、何かを欲しているように手をこまねいた。
「ブツを寄越せ、ブツを、よこせ……」
……。
なんかヤバイ取引でもしているみたいだ。
「アレがないと、私は……ダメな体になった。アレがない世界は私には、耐えられない」
本当にヤバイものを渡しているみたいじゃないか。なかなかどうしてノリがいい。
指を折り曲げて催促してくる腕に、袋詰めされたキットカットを入れて貰ったビニール袋を通す。ワシャワシャとうるさい感触を確かめてから、彼女はまたそっと手を引いて、扉を閉じる。
「おお!?」
これもまた好物だったのか、バリバリと音をならして包装を解いているらしい音が聞こえてくる。大体スナック菓子が好きな事は心得た。
「ひょふわはるは」
なんて?
「よく分かるな、って言った。二回連続で当ててくるとか、出来るヤツ! ひょっとして、読心術の持ち主か!?」
それをやんわりと否定して、よっこらせと扉へ背を付けた。そんな雰囲気を大体察したのか、双葉の咀嚼のスピードが緩まる。どうやら話の体制に入ってくれているらしかった。
虚空、というより天井を見つめて、今日あったことを思い出す。杏が何者かに付けられていて、それが良く分からない胡散臭い奴で、どうやらソイツが大物画家の弟子らしくて。
そういった事を簡潔に、時には子細に呟いて、双葉にそれを聞いてもらう。何もオチはなくて、あらかじめちゃんと起承転結を考えていたようなしっかりとした話ではないけれど
、徒然なるままに、思い出した記憶の流れに任せて話を紡ぐ。
その中で相手がピックアップしたものを拾いなおして、それに俺がまた訂正を加えたり、話を連想させていったり。何も爆笑したり怒ったりすることは無い。ただ、会話という川に身を任せてずっと揺蕩っているような、そんな心地の良い感覚だけがあった。
「洸星? ああ、知ってる。奇人変人が寄せ集まった吹き溜まりみたいなとこ」
今日出会った画家のプロフィールに双葉が食いつく。それにしてもずいぶん辛辣な評価だな。
「半分冗談」
ってことは、半分本音か。
「ふっふーん。……そんな事より。斑目の弟子っつーことは、喜多川祐介だな?」
ええと、確かそんな名前で――なんで知ってるんだ双葉。
「覚えちゃうからねー。私、見たら全部覚えちゃうから」
ふうん。便利な頭をしているもんだ。
もしそれほどの記憶力があるのなら、さぞかし俺のテストの点数も良かったのだろう……と、余計な考えが思い浮かぶ。
「……そんなに、良いものじゃ、ない」
と言って、双葉は押し黙る。気持ちキットカットを食べる速さが増しているように思われた。どうやら、何か良くないものを踏んでしまったらしい。
閑話休題、話題を変えよう。
「他に、洸星にいる有名人……? んー、まー、一番なのはヒフミじゃね?」
ひふ……え、なんて?
「東郷一二三、女流棋士」
じょりゅう、きし……ああ、棋士か。将棋の。
「そそ。一度リーグ優勝もしてる」
女子高生で、女流棋士……。世の中には、とんでもない二足の草鞋を履いている人がいるんだな。
「人と、あんまり喋らないタイプ。どこの研究会にも属してないから、孤高の天才なんて、5chでは書かれてる。神田の教会で一人もくもくと研究してるらしい」
孤高で、天才。
アニメなんかで良くカップリングされるような、悪く言えばお決まりのジャンル共存だ。それは人との感覚が合わなくて、自ら他人と距離を置いているパターンだったり、あるいはあまりにも普段の素行が悪くて、他人から距離を置かれているパターンだったりと、色々な住み分けがある。
しかしそれでも総じて似ている部分は、特に秀でている部分以外は軒並み不器用である時が多い。それは友達付き合いにも言えることで、それをコミュ力MAXな主人公がガンガン攻めて、最後には付き合っちゃうみたいなラノベ、全然関係ないけど普通にありそうだ。
ともかく。
目には見えないが、目の前にいる彼女もそんなジャンルに位置づけられるような人であるという事は、話しながらなんとなく分かってきたような気がする。
じゃあ、彼女は。
誰と出会って。
何を知って。
今、ここでそうしているのだろう。
「所詮、将棋とかお遊びに決まってる。天才がなんぼのもんじゃーい」
もんじゃーい、の後にカタカタとタイプがされている音が断続的に聞こえてくる。何か調べ物でもしているのだろうか。
ともかく。
言い方が荒くなったのは、天才だと言われている一二三への対抗心だろうか? それとも――一種の同族嫌悪に陥っていたりするのか。
ジャンル被り。
住み分け。
「ホレ」
出し抜けに、双葉が呆けた声を上げる。何だなんだ――とオウム返しに負けじとホレ、と言っているとスマホが鳴った。
宛名には『HoneyOTU』と書かれている。
誰だコイツ。
「あ、ミスった」
またまた通知が来る。今度の宛名には『双葉』と書かれていた。
うんうん、やはり知っている人が通知欄にいると落ち着くな。クラス替え直後の教室に旧知がいるような、そんな安心感を覚える。
じゃなくて。
ええ、双葉? 俺、双葉とLINE交換なんかしていた記憶はないんだけれど。
「それ、ワタシのLINE垢だから。さっきのは消しといて」
さっきのって……ハニーなんとかってアカウントの事かな?
いやいや、重要なのはそこじゃなくて――どうして俺は自分のスマホを触っていないのに、勝手に友達登録されているんだ?
「ふっふーん。朝飯前だ」
と言ったのを聞いた後、タイピングの音が止んだ。
絶対悪い事してる……。
「天才を語るんなら、これくらいはしてもらわないとな!」
天才の定義、狭すぎ。大人げないなあ。
「と、とにかく!! 来れなかったり、遅くなりそうだったら、直ちにここにLINE入れる! 以上!」
ふむ。
まあ確かに、直接喋る以外に伝達できる手段があってもいいだろうとは思う。双葉は話す事よりもネットを触っている事の方が多いはずだから、喋ってくれない事も文字じゃ言ってくれそうだし。という下心を隠しつつ、俺は「わかった」とだけ呟いた。
「……」
会話が途切れる。このまままったりと過ごすのもやぶさかじゃないけれど、まあ折角来たのだからもう一つ二つくらいは話題を持ち出しても――。
「……あ……うぅ……」
駆動輪付きの椅子が、ガラガラと動く音がした。軽いものが落ちる音が鳴って、キットカットを取りこぼしたのだろうということに思い当たる。
「……やめ……ろぉ……」
双葉……?
何が――扉の向こうで、何が、起きている?
彼女の苦しそうな嗚咽が、呻き声が、扉越しにも伝わってくる。その悲痛な叫びに共鳴したのか、全身に、鳥肌が立った心地がした。
ドアノブに、手を、掛けていた。一度も触ったことがなかったそれに。ひとりでに、体が動いていた。
回す。案の定鍵がかかっていて開ける事ができない。双葉、何があった、大丈夫か……湧き上がる焦燥が言霊となって現れたような、そんな単純な言葉の羅列が頭に思い浮かぶ。それをそのまま口に出しても、ただ双葉の呼吸が荒くなっていくだけだ。
「だ……大丈夫……問題、ない」
「そんな訳、」
「大丈夫……だから」
くそ。
俺が焦ってどうするんだよ……。
直ぐ近くにいるのに。木の板一枚挟んだだけなのに。それでもなお近づけないという冗談みたいな状況が、俺を更に焦らせているのだと感じる。
長い。
長くて、遠い。
「今日は、帰って……欲しい。また話すから、また言うから……だから今日は、帰って」
双葉の消え入りそうで震えた声が、俺の頭を揺らした。
あの後、双葉は果たしてあの扉を開けてはくれなかった。
そして再三の食い下がりも空しく、俺はのこのこと自分の部屋に戻ってきた。
最後の双葉の、消え入りそうで震えた声が、まだ俺の頭を揺らしている。
あれは間違いなく、双葉から告げられた初めての拒絶だったのだと思う。
俺と双葉はまだ『それ』を話す程には打ち解けていなくて。
『それ』を話してくれない程度には、まだ心を開いてくれていなくて。
実際あの扉が一瞬鉄製の分厚いものと錯覚を覚えたくらいだ……どうしても悲観的になってしまう。
じゃあ、俺では役者不足なのだろうか。あのまま、一生あんな感じで心を開いてくれないままなんだろう。とか、そこまで悲観的に思っていない自分も確かにいた。
それなら、いつか話してもらえるようになるまで、これからも通い続けよう。仲良くなろう。なんて、そんな感情を伴った実感が、ごく自然に、当たり前のように胸に沸き起こる心地がする。
それが本当に庇護欲からくるものなのかは、今では判然としないのも事実だけれど。
俺達の戦いはこれからなんだと。
そう適当に脳内でナレーションをして、次は何を持って行ってやろうかと考えていた。