もしも、下宿初日に佐倉双葉と出会ったら   作:菓子子

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9/30『Fool』

 俺はあまり、例えばパツキンモンキーのようによく汗を掻く人ではないのだが、今年の猛暑は流石に堪えた。朝目を覚ますと、特に首のあたりが汗でベタついている。こちらからはあまりニオイはしないが、モルガナが毎日顔をしかめていることから判断する限り、体にまといしその汗を、洗い流さないまま1日を生活するのは、衛生的な面からも躊躇われた。

 ということで、朝風呂である。富士の湯。夜にもう一度行かなくてはならないから、一日1000円。高校生にとっては手痛い出費が、夏休みに毎日それが続いたのだから、31を掛けて、31000円。自分の汗を流すだけでこうも出費がかさむのが、あまり納得はいかない。

 しかし、今日からはもう10月。時折吹く風が、もう夏をすっかり忘れてしまったような空気をはらんでいた。気温もずんずんと下がってきて、「別に、わざわざ銭湯に行かなくてもよくね?」と思う日も増えた。流石に行くけど。

 「風呂から出た後に、後悔している人はいない」という箴言を思い出して、俺は富士の湯へと赴き、服を脱ぎ、惣治郎宅のものとよく似た、すりガラスの扉を開ける。

すると。

 

「よぉ」

 

 マスターがいた。体より頭が先派のマスターは、頭の上に沢山の泡を作り上げていた。俺はどうも、と言って、躊躇なく彼の隣に座り、体を洗い始める。

 

「随分と、涼しくなったもんだな」

「そうですね」

 

 俺は、ほとんど何も考えずに、マスターにそう返した。一二三や双葉ほどではないが、会話中にしばしば発生する、変な間を嫌うことも少なくなった。双葉に関してはもう、何も言わなくても意思疎通ができると、俺は自負している。

 

「これで、電気代が浮けば、いいんだけどよ」

「……なるほど」

 

 電気代とは、つまりは双葉のクーラー代のことを言っているんだろう。設定温度は17度。更には、「ここで食べるアイスが、イイとは思わんかね」まで言い出した。流されるがままに、一度食べてみたのだが、ただ唇が青くなっただけだった。

 

「あの」「なんだ?」

「一つ、質問があるんですけど」

「言ってみろ」

 

 誰についての質問なのかは、言わずもがなだろう。

 先日、一二三と会話をしている時に、今までマスターから、双葉や若葉さんについての話を聞いたことを、ほぼ洗いざらい思い出した。

 思い出し尽くした。けど、一つだけ、気になることがあったのだ。

 俺は周りを見渡した。俺とマスター以外、誰もいないようだ。まあ、誰かが入ってきてしまったら、改めてルブランで話せばいいだろう。

 

「若葉さんの、ことなんです」

「……そうかよ」

「マスターは……若葉さんは、他殺かもしれないと、言ってましたよね」

 

 誰かに殺されるかもしれない、と、生前若葉さんはマスターに仰っていたという。

 

「……またその話か――」

「でも、そんなはずがない」マスターの言葉を遮るように、俺は言った。

「……はずがない、だと?」

 

 はい、と言って俺は頷いた。

 

「若葉さんが誰かの手によって殺害されたのだとしたら、彼女の身に起こったことは、飛び込み自殺を装った他殺。例えば信号待ちをしている時に、後ろから背中を押されたのかもしれない。……でも」

「でも?」

「すぐ側に……双葉が、いた。手を繋いでいたのかもしれない。後ろについて、一緒に待っていたのかもしれない。……その状況で、その、犯人が若葉さんの背中を押せると思いますか? 双葉に、顔を覚えられるかもしれない、危ない状況で」

「……愚問、だよ」

 

 マスターは、吐き捨てるように言った。

 

「もし見つかったとしても、若葉が押された時、きっと双葉は、「誰が押したのか」なんて考える余裕が、ある訳がない。ただ、若葉を見ていることしか、できなかったはずだ」

 

 この話はもう、終わりにしろ。

 マスターの短い言葉は、シャワーの音で掻き消された。

 俺も蛇口をひねる。まだ髪は洗ってはいなかったが、頭からシャワーを被る。流れ出した水滴が、段々と鬱陶しくなってきた髪を滑り落ちる。

 

「……そうですね」

 

 水が、髪に馴染んでくる。額を伝って、目じりの横を通り、頰を流れ、顎で溜まり、下へと落ちていった。

 マスターの言う通りだった。

 双葉が近くにいようが、若葉さんが危機に晒されている状況の中で、双葉が周りに気を配る余裕を持っているはずがない。

 

「そうですね」

 

 たとえ、車に引きずられ、赤色の何かでアスファルトを汚して、変り果てた姿になってゆく自分の母親をただ見つめることしかできない彼女の娘が、どのようなことを思おうが、心にどれほど大きな傷を作ろうが、それは双葉だけの問題であって、犯人の問題ではない。

 

「……」

 

 頭の中は、一週間置いた双葉の部屋のように、ゴチャゴチャとしていた。マスターに、何を伝えたいのか。伝えたところで、どうしたいのか。分からない。分からなかったので、俺は別のことを考えることにした。

 あの、と俺が言うと、マスターはあからさまに嫌そうな顔をした。「まだ何かあんのかよ」とでも言いたげなその表情に、ちょっとだけたじろいでしまったが、ここは一二三が提案してくれた『対症療法』を信じるしかない。

 マスターに向き直る。掛け湯の熱で少しふわふわとした気持ちになっているけれど、そこはちょっと抑えて、髪の毛一本分冷静に。

 

「双葉の住む部屋を、変えてもいいですか?」

 

 

 

 

 

「双葉さんの幻覚症状が、今のところ、殆ど双葉さんの部屋のみで確認されているとしたら」

 

 環境ごと、変えてしまえばいいんじゃないでしょうか。と、一二三は言った。

 言われてみればそうだった。ハワイのホテルで見た、悪夢にうなされている事例を除いてみると、五月頃にあったものと、昨日確認したものは、どちらも双葉の部屋でのみに発生している。双葉パレスも『佐倉惣治郎宅』、引いて言えば『双葉の部屋』に存在しているのだから、双葉の諸症状が、双葉をとりまく環境に起因していたとしてもおかしくはない。

 だから、双葉が住んでいる場所を移す。しばらくの間、あのパソコンで溢れかえっている部屋から、双葉を引っこ抜く。そして、あの一戸建ての空き部屋の一つに、双葉を放り投げる。

 双葉のトラウマが解消されたことにはならないが、苦しめられている幻覚や幻聴から逃げ出せる可能性がある。根本的な治療ではないが対症療法だ、と一二三が言ったのは、つまりはそういう意味だ。

 

「……分かったよ」

 

 意外にも、マスターはその提案を受け入れてくれた。どうやら、時々扉越しの双葉の様子がおかしくなっていることを、薄々感づいていたらしかった。もちろん、説得する際にパレスや認知世界等の名前は伏せてある。ここで一つ得をしたことが、長時間サウナに入る苦行からお互いに免れたことだった。

 そして。

 

「ただいま」

 

 俺はルブランの戸を開けた。今日は一人、常連さんが来ているらしかった。気にしていないかもしれないが、とりあえず彼に会釈をして、階段を昇った。横を通り過ぎる際に、何故かマスターが恨みがましい視線を投げかけて来た理由は分からなかった。

 ギシギシと音が出る階段を鳴らせながら、双葉がプチ引っ越しをした場所を想像した。確か、二階にはもう一つ部屋があったはず。そこに移動したのかもしれない。LINEでまだ連絡が来ていないことが、少し気掛かりだな。

 モルガナが入ったカバンを降ろして、一息つく。いつもと変わらない、怪盗道具を制作している机、アナログテレビ、筋トレで使っている柱、皆からもらった置物やアクセサリーを飾っている棚、パソコン、パソコン、パソコンパソコン……。

 え?

 

「え?」

 

 部屋中に散乱するデスクトップパソコンやらノートパソコンやらが視界に入って、ようやく俺は自室に違和感を見つけた。おかしい。明らかにパソコンの量が多すぎる。闇ネットタナカのサイトを開くぐらいしか、パソコンの使い道を知らない俺の部屋に、溢れかえるほどのパソコンが置かれていた。どう考えてもおかしい。まるで、ここは彼女の部屋のようで――、

 

「よ」

 

 俺のベッドの上で蠢く物体があった。というか双葉だった。俺に見向きもせず、パソコンに釘付けになりながら曖昧に右手をあげていた。明らかに、犯人は双葉のようだ。

 

「双葉の仕業?」

「なにがー?」

「いや」と俺は言った。「この、パソコン」

「そりゃ、だって、持ってこない訳にはいかないじゃん」

「ええ?」ますます訳が分からない。「いや、部屋に来るにしたって、いつもノートパソコン一つで済ませていただろう? ……あと、引っ越しの件、は……」

 

 言葉が詰まった。メンチを切ったマスターの目を思い出した。冷や汗がぶわっと全身から溢れ出した。

 

「え、い、それって」

 

 あまりの驚きに、言語能力が著しく低下した俺は、ただ意味のない言葉を口から出すしかなかった。

 

「え……だって」双葉の頬が、朱に染まった。「そういうことでしょ?」

 

 そういうこと。双葉の引っ越し先、イズ、ココ。

 ……一二三が恥ずかしがっていたのは、そういうことだったのか。

 

「ね、寝るベッドもい、一緒だよな? な?」

「……あほ」

 

 そんな極限の状況で。

 俺は、何の捻りもない突っ込みを繰り出すことしか、できなかったのだ。

 


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