「私は負け組だった……一度でいいから、成功を味わいたかったの」
「お母、さん……」
女流棋士とプロ棋士が戦うエキシビジョンマッチに負けろ、という、一二三の母親からのお達しがあったのは、ついこの間のことだったそうだ。
連勝街道をひた走る天才女流棋士が、プロ棋士に惨敗し打ちのめされる。そしてその後、ドン底から這い上がってきた一二三は再び、強かな女性として世間から脚光をあびる。母親が描いたシナリオを聞いた一二三は、母親に初めて反抗することを選んだ。
もし、一二三が麻倉の言いなりになっていたら。もしも、一二三がペルソナに覚醒していなかったら。一二三はまた、別の道を選んでいたのかもしれない。
「でも、自分の力じゃ無理、だから、一二三を利用したの……」
娘や息子の人生に、親自身を投影することは、そう珍しいことじゃない。そんな親に命令され続ける人生に不満を感じて、「私の人生は私のものよ」と言い、親に刃向かうことも、当然よくあることだ。今回の一件が少し大ごとになってしまったのは、一二三が親さえ羨む程度に賢かったのと、一二三が自分の人生に不満を持つのが、人よりほんのちょっぴり、遅かっただけなんだろうと思う。
「ごめんね、一二三。私、悪いお母さんに、なってたね……」
滔々と、本音を一人娘に語りかけるシャドウ東郷。通常、俺たちがターゲットを改心させると、完全に自分の非を認めることが多い。それは今回も例に漏れていないようだけれど、一つだけ、イレギュラーなことがあった。
それは、謝るべき相手が、すぐ目の前にいること。忍び装束を纏った一二三が、後衛から既に姿を現している。もちろん、顔の殆どが隠されてあるから、こちらからは表情を窺うことはできない。
母親の本音を、一二三はどんな思いで受け取っているのか。一二三母は、いわば一二三がペルソナに覚醒せざるをえなくなった元凶だ。確かに持ち前の美貌があるから、母親が何もしなくても、時々メディアに取り上げられただろうことは想像に難くない。でも、バックに母親と麻倉がいたから、『美しすぎる棋士』だとニュースや世間でもてはやされ、対局中の姿が特徴的だと、ネットで叩かれることが過剰になったのは間違いじゃないと、俺は思う。
むしろ逆に、一二三がもっと将棋を追求することができた環境も、あり得たかもしれないのだ。
怒っているのだろうか。恨んでいるのだろうか。親に向かって罵詈雑言を並べ立てる一二三の姿は、あまり想像したくないけれど、「なにしてくれてんだ、てめえ」と吐き捨てる権利を、一二三は持っているとさえ思う。
「お母さん。……ずっと今まで、ありがとう」
でも、一二三は。
たしかに熱のこもった声で、そう言った。
「一人じゃ将棋しか指せない私を、ずっと、支えてくれていた……ん、だよね。私、何もできなかったから……お母さんじゃなかったら、辛いことも沢山、あったと思う」
「そ、そんなこと……」
「小学生の、将棋の大会のこと、覚えてる? 私、優勝して……お母さん、本当に喜んでくれたよね。だからあの時、頑張ろうって、思ったんだよ?」
一二三の母親は、いつしか膝から崩れ落ちていた。目を瞑り、何も言わずに、目頭を押さえている。
自分の人生が失敗したことに対して、今度は我が子の人生を成功させてやろうと考えたそんな母親の主張に、嘘偽りはないのだろう。
けど一二三は、その先のことまでをも読み切っていたんだ。一二三を利用しようとした母親にも、我が子を思い、彼女の成功に、素直に喜べる感情はあった。……自分の人生に行き詰まり、だんだんと、一二三の人生に肩入れするようになった。
そして、欲望が歪んだ。
娘を思いやり、娘の成長を感じていく母親が。
娘の人生に取り憑き、我が物のように振る舞う化け物へと、姿を変えた。
しかし、変わり果てた姿になる前の母親を、一二三は覚えていたのだ。
そして、読み切ってみせた。
……怪盗として、認知世界における母親を改心させるという、世にも奇妙な投了図は、さすがに予想していなかっただろうけど。
「でもね、お母さん。私はもう、大丈夫だから。ずっと、お母さんと、お父さんに支えられてきたから、直ぐには一人で歩けないかもしれない。……けど今は、私を支えてくれる、仲間がいるの。だから、もう、大丈夫なんだよ」
それが本音であることは、一二三が極めて稀に口にする、女性らしい口ぶりを聞いて、溢れるほどに伝わってくる。
母親の影が薄くなる。顔を上げて、じっと一二三を見つめている。
そして、その姿を消す時、最後に見せた表情は。
とても母親らしい、娘を見守る温かい笑顔だったと、俺は思う。
「ど、どうしよう……」
薙瓜書店近く、一二三オススメのカレー屋店内。
運ばれてきた『カツカレー(大盛り)』に目もくれず、濁った目で虚空を見つめている一二三。
「八百長……まさか、お母さんが、手を回していたなんて。私はてっきり、最近の調子が良いものとばかり……情けない、です」
唇を噛み締めているのを見る限り、その「情けない」の言葉が、一二三自身に向いているということは疑いようもない。そしてまた、口調がいつも通りになっていた。素の一二三は、なんだかレアな気がして良いと思うのだけれど、いつもの「ですます調」の一二三も、これはこれで、味がある。
と、一二三通ぶったりしたところで、今一二三が置かれている状況が好転することはない。かと言って、一二三母を改心させた後、何か実益のあるような行動を取ることもせず、二人でカレー屋に来ているのは、所謂ちょっとした現実逃避というものだろう。
「……冷めるぞ、一二三」
「え?」
「カレー」
「……あ、ええ」一二三は雑に頷いた。「そうですね。そうですよね。食べ物に、罪はありませんから」
と言い、とてもゆったりとした動作でカレーを食べ始める。そんな、触れればポロポロと粉を落として崩れてしまいそうな一二三に、「いや、自分がそのカレーを頼んだんだろう」と、突っ込む気には、もちろんなれなかった。祐介が画家として大成したら、またあの寿司屋に連れて行ってもらおう……。
互いに、黙々とカレーを食べ続ける。双葉や他のメンバーと食べる時は、喋りながらの食事が多いのだけれど、何かまとまった話をしない限りは、将棋を指している時は勿論、一二三とは何も話さない。
それは、一二三と俺が心と心で通じ合った所謂|魂友≪ソウルフレンド≫だから……という訳では当然ない。ただ単に、どちらも喋ることに対して、人より多くのエネルギーを使う人種だからだ。でもなんか、それがちょっといい。
一二三も、その何か、『なんだかいい感じ』を感じてくれていたらいいな、と思いながら、前を向いてみる。
「……う、ううん……」
渋い顔をしていた。苦悶の声をあげながらも、手を休めることなくカレーを口に運び続けている。……すごい絵面だ。やっぱり、今後のすべき事に対して、何か思うところがあるんだろうか。
一二三が考えなければならないことは、主に二つある。プロ棋士と指しあう、エキシビジョンマッチをどうするのか。そして、曲がりなりにも八百長が真実だったことに、どう対処すればいいのか。どちらも、俺のような一介の高校生ではどうすることもできないような問題だ。
それでも、一二三は一生懸命考え続けている。まず沢山の一手を思いつく限りに考えて、状況や自分の立場を加味しながら、あり得そうな数手を一瞬で絞り込む……らしい。
……。
中々、一二三が頭を上げてくれないな。
まあ、一刻を争う事態でもない、か。俺が下手な考えを出して、それを一二三が万一採用して、結果一二三の棋士生命を断つようなことがあれば、ハラキリ以外の責任の取り方が分からない。
しかし。
まあ、このまま一二三を放置しておくというのも、かわいそうな話ではある。あと、いつもと様子が違う一二三の姿を見て心配そうにしているカレー屋の店主にも、沈痛な面持ちで食されているカレーにも悪い。
よし。考えてみよう。『今は、私を支えてくれる、仲間がいるの』なんて言葉を言われてしまった訳だし。
俺は急いでカレーを口へ流し込んだ後、両肘を机につき、合わせた両手に頭をおいて、考えを巡らそうとすると――。
「整いました」
いつの間にか、一二三の中で心の整理がついているようだった。表情は晴やかで、迷っている様子が微塵もない。……カレー、味わって食べておいた方が良かったかもしれない。
「エキシビジョンマッチを……受けます」
「……そうか」
「もちろん、私が八百長をしていたことを、公表した上で、ですが。……鼠が猫に挑むようなものだということは、もちろん、分かってはいます。八百長で勝ち上がってきた私がプロ棋士と指しあうなんて、はっきり言って、身の程知らずにも、程があります……。でも、ちゃんと戦って、そうすれば……ちゃんと、リスタートを切ることができると、私は思うんです」
「リスタート、って」
「はい」一二三は頷いた。「女流棋士協会を、辞めます。アマチュアから、もう一回、やりなおし……ですね」
なるほど。
……なるほど。
「双葉はきっと、驚くだろうな」
「そう……ですね。きっと。でも、納得してくれるとも、思います」
「負けるなよ」
「はい」と言い、一二三はもう一度頷いてくれた。「……あの」
「?」
「その、ええと……」
一二三は顔に手をあてて、何かを考え始めた。俺はその間に、一二三の話をしっかり聞く準備を済ませる。
「八百長が分かったあとも、貴方は私を見捨てないでくれる……確信が、メメントスで母の話を聞きながら、あったんです」
「誰かに信じてもらえること……何より、自分の道は、自分で切り開くこと。……貴方には、本当に、沢山のことを教えてもらいました」
「貴方は……私の、かけがえのない人、です」
「わ、私……」
「……」
「……私の事、もっと頼ってくださっても……ええと、いいです、から。貴方から頂いたご恩、私、一生を掛けて償わせて……」
……。
規模がすごい。そして、恩は償うものじゃなく、返すものな気がするぞ、一二三。
「な、なに言ってるんでしょう、私……」
自分の口調の違和感に一二三も気付いたようで、右に左に視線を彷徨わせている。俺は何か一二三に言おうとしたが、止めた。
その代わりに、一二三よろしくいくつかのことを想像していた。
一つは、あり
もう一つは、あり得ない未来のこと。もしも、下宿初日に佐倉双葉と出会っていなかったら。俺は、目線を下げて、何か俺の言葉を待っている一二三に、一二三が望むようなことを、言えたのかもしれない。
だから、俺は何も言わない。これ以上、一二三の考えていることに踏み込んだりはしない。あちらから近づいてきた時に言うべき言葉は、もう用意してある。でも、一二三がそんなリスクを犯す人物ではないことを、俺は知っていた。
「と、とにかく」と一二三は言った。ピンと張り詰めた空気が、少しだけ和やかになる。
「副業も、私なりに頑張るつもりですので。稼業も……今度こそ実力で周りを……認めさせてやります!」
それは、一二三の大きな決意だった。一二三との固い絆を感じる……。
「これが、私の新しい力……」
「え?」
「あ、い、いえ、なんでもありません。……帰りましょうか」
「うん」
俺が先に立ち上がり、清算を済ませる。今日だけ、教会へ将棋に誘われなかったのは、きっと、もう夜が迫っていたからだと、俺は思うことにした。
美形で孤高の大和撫子なのに、ものすごい真面目な顔で変なことを言ったり、天然にボケたりするギャップが、一二三の魅力の一つだと思うんですけど、このお話の主人公って、あんまり声を荒げながら、一二三に突っ込めるキャラじゃないんですよね。双葉も、どちらかと言えばボケる人寄りですし。これは反省……。
ともあれ、これで一二三パートはお終いです。ここ一週間はずっと一二三のことを考えていました。うん。もっと双葉と喋らせたかったけど、お話の展開上組み込めませんでした。すみません。双葉と一二三の絡みをもっと書きたい人生だった……。