もしも、下宿初日に佐倉双葉と出会ったら   作:菓子子

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9/9『Nightmare』

「で」「うん」

「双葉は、同じホテルに泊まってるんだろ?」「うん」

「LINEで部屋番言われて、『暇だったら、来て』って言われてんだろ?」「うん」

「行けよ」「……ううん」

 

いやいや。

……いやいや。

ホテルの一室。俺と竜司はそれぞれ別のベッドに腰を掛け、膝をつき合わせるようにして座っている。元の住民である三島は、さっきからトイレに行ったっきりで、全然出てくる様子はない。

 

「……でも、二人きりは、まずくないか、流石に。それにホテルだぞ?」

「んだよ、じゃあ、俺も行けばいいのか? 双葉の部屋に、お前と一緒によ」

「ああ、頼む」

「いや、行かねえから……」

 

……煮え切らないな。

 

「いやいやいや、煮えきってねーのはお前だろ? 女の方から誘われてんのに行ってやんねーとか、どんだけ薄情なんだよ」

「……」

 

図星だった。

いや、確かに図星だけれど、事はそこまで単純じゃないのも確かだろう。自分でお金を稼いで、はるばる日本から自力でやってきた双葉が、一体どのようなテンションで俺を部屋に誘っているのか。「バンブー麻雀しようぜ!」くらいの感じだったら、面前清一色を決めに行こう、みたいなノリで行くことができるのだけれど。扉を開けた時、顔を真っ赤にした双葉が「あの……その」と口を濁された時には、もう何をどうすればいいのか全く分からない。

好きな人の前では、どんな屈強な男の理性でも、木綿豆腐を握るが如く砕け散るということを、俺は知っている。

とどのつまり、致すつもりで行くか、それともせざる雰囲気を醸し出しながら扉を開くのか。この選択が、双葉とのお付き合いの今後を左右する、一つの分水嶺のように思えた。

 

「……」

 

だから、俺は考える。とりあえず行ってみて、双葉の反応を伺ってから決める、といった安易な発想は、今回の場合はよろしくない。アドリブに弱い俺が、そんな器用な真似をできるかと問われれば、残念ながらノーと答えるしかない。

だから、考える。考える。考える。

 

「だぁーっ! めんどくせぇな……まあ、お前らしいけどよ。でも、双葉に『チキン』だって言われても、俺知らねえぞ」

 

そして竜司が堪え切れなくなった頃。

俺は一つ「よし」と呟いて、席を立つ。

 

「お? 腹、決まったか?」「ああ」

 

と俺は呟き、必要最低限のものを、ポケットの中に詰める。行き先はもちろん、双葉の部屋。

謎にキリリとした表情と、哀愁漂う表情がない交ぜになった顔を貼り付けている竜司。「だ、だれか……ふぅ、ぉあっ!」と、悲しいうめき声が聞こえてくるこの部屋のトイレ。

 

「野暮かもしんねぇけど……持ったか? アレ」という竜司の声に、俺は「余計なお世話だ」と返した。

 

 

208号室。双葉が泊まっている部屋。

俺はそのドアノブに手を掛けて、離す。ふぅ、とため息をつき、今度は勢いに任せるように持って……離す。

 

「ふぅ……」

 

素直な緊張。初めて双葉の部屋に入った時より緊張している、気がする。しかし、ずっと扉と対峙していても何も始まらない。

よし、と俺はもう一度気合を入れて、扉を開ける。

 

「……?」

 

第一感触は、「軽い」だった。

手応えがない。というよりかはむしろ、ドアノブを回しただけで、勝手に扉が開かれていくようだった。俺は不思議に思いながらも、段々と部屋の内装が見えてきて、内心ドキドキしてくる。

壁と扉とのなす角が45度になったあたりで、長いオレンジ色の髪が視界に入ってくる。双葉だ。どうやら、双葉が扉にもたれ掛かっているらしい。だから扉の感触が軽かったのかと、俺は一人で納得する。

……どうして双葉がここにいるのかは、かなり気になるところではあるが……眼前に迫ってくるドアから距離を置こうと、一歩下がる。

すると当然、向こうにいる双葉から絶えず力を加えられている扉は、運動方程式に従って速度を上げながら円を描く。そして遂に、なす角がおよそ80度になった辺りで、双葉と扉が完全に切り離される。

扉という名の支えを失った双葉は、ふらつきながらも前進。千鳥足で進んだ先にあるのは、俺の胸。

ドサリ。20km弱を見事に走破した、駅伝の選手にタオルを被せるように、膝を折って、俺は双葉を抱きかかえる。

 

「双葉」

「……」

「ここじゃ、まずい」

 

咄嗟に口を衝いて出てきたのは、そんな言葉だった。ここじゃまずい。何がまずいのかは、言った俺自身もいまいち判然としなかったけれど……今の様子を川上先生に見られでもしたら、少年院送りになることは間違いないだろう。『あの時は二児のパパだと言いましたが、彼女はその二児の内の一人なんです』と答えればもしかしたら、情状酌量の余地が……いや、ないな。ううむ。

 

「双葉?」

 

俺はもう一度、彼女に声を掛ける。しかし、双葉は微動だにしない。張り詰めた空気を感じる。服には湿り気のある物体がべったりと張りついて……え?

俺は咄嗟に双葉の肩を掴んで、胸から離す。すると、双葉の口から俺の胸まで、ビヨーンと伸びた一本の白い糸が紡がれているのをこの目で見た。言わずもがな、涎だ。そして、双葉の口から、

 

「……ぐぅ」

 

豪快ないびきが聞こえてくる。……え。ああ……そういうことか。

双葉は俺を、わざわざ扉の前で待ってくれていた。恐らく、出迎えるついでに俺を驚かせるつもりだったんだろう。しかし初めて乗った飛行機の疲れと、中々双葉の部屋に行く決心がつかなかった俺の優柔不断さが相まって、そのままもたれ掛かって寝てしまった……そういった感じだろうか?

合点はいく。合点はいったが、腰が抜けた。

 

「……」

 

一世一代の、覚悟のつもりだったんだけど。

双葉の立てる寝息を聞きながら、それが一瞬にして水の泡と化したことを悟る。……墓場まで持っていこう。

しかし落ち込んだままではダメだから、なんとか抜けた腰を持ち直し、双葉のお尻を腕に乗せて胸に抱えるようにする。双葉をおんぶしたことは何度かあるが、抱っこをしたことはもちろん初めての経験だった。

扉は幸い開いたままだったので、俺は中へと入る。手前の方には靴入れとトイレ付きシャワーがあって、奥にあるリビングにはベッドとソファーが一つずつ。ぱっと見、中々にリッチなお部屋だ。

既に、そこへ座った跡があるベッドに双葉を下ろす。お腹を出して風邪を引かないよう、一応薄い毛布を掛けておく。任務完了。

……そして、その後俺はどうするかだが……まあ、素直に部屋に戻ればいいか。一般的なホテルのように、この部屋はオートロック式だから、そのまま出たとしても、誰かに忍び入られるような心配はないだろうから……。うん。

 

「……」

 

しかしなんとなく、名残惜しいような気がする。とても迷って、そして決断して来たのだから、それに見合うとは言わないまでも、何か対価が欲しい、と、俺の本能がそう言っている。

という訳で、側にあったティッシュを摘んで、双葉の口元にべったりとついたヨダレを拭くことにした。双葉の唇の柔らかい感覚が、紙切れ一枚越しに伝わってくる。拭き拭き。気持ち念入りにそれを拭き取る。

……ふぅ。これでなんか満足した。ということにしておこう。

ティッシュをくずカゴに放り投げ、今一度双葉の寝顔を一目見た後、身を翻して、そのまま――。

 

「……?」

 

潔く扉に向かって歩こうとしたが、右手首から温かい感触を覚えた。双葉が俺の手首を掴んでいるようだ。俺は振り返ってみるが、見た感じ起きているような気配はない。

 

「……」

 

俺はこの手を振りほどくことができる。振りほどいて、そそくさと元いた部屋に戻ることは造作もないことだろう。今の双葉の動作に意志があれば、理由を問いただすことができるはず。しかし今、双葉がグッスリと睡眠中なのだ。無理やり起こして聞くようなものでもないし、起きるまで待ってやる必要もないだろう。

 

「……」

 

しかし……まあ。

まあまあ。

この手を無下に解く必要も、もしかしたらないのかもしれない。彼女が一人で泊まるには少し、この部屋は広すぎる。こんなだだっ広い部屋に居て寂しいと感じた双葉の気持ちが外面に現れた結果が、この手首を掴んでいるか細い手なのだとしたら。その手を振りほどかない権利だってあると思うし、双葉とお付き合いをしている俺にとって、むしろこれは義務なのではないのだろうか。

あと、何もしないで戻って、竜司や三島にやいのやいの言われるのもなんか癪だ。うんうん、うん。

と、自分で勝手に理由をつけ、俺はこの部屋に留まることにした。と言っても同じベッドに寝るわけにはいかないし、かと言って、双葉をこのベッドから放り出すわけにもいかない。

あり得ない選択肢を徹底的に除いて、そして残されている選択肢は、一体何か。

 

「……」

 

俺は、所在なさげに佇んでいる、人がちょうど横になることができそうなソファーを見た。

 

 

 

 

『……――』

 

 夢を、見ていた。視界一面に広がるスクリーンを見て、俺はここが双葉の部屋であることを知る。少なくとも、ベルベットルームではなさそうだ。

 

『……―て』

 

 俺は冷えた廊下に、仰向けになって寝ている。そんな俺の胴体に跨るようにして、馬乗りになっている人がいた。縺オ縺溘?は俺の胸に手をついて、自身の涙を俺の顔に掛けている。

 

『……け縺ヲ』

 

 怖い。得体の知れない、暗いものに対する純粋な恐怖が、俺の心を満たしている。

 でも、彼女から目を逸らしてはいけない。そんな豌励′縺た。目を騾ク繧峨○ば、全てが邨る。そ繧薙↑豌励′して、縺ェ繧峨↑縺九▲縺溘。

 俺は、縺オ縺溘?を見た。

 

『たすけて』

 

 

 

 

「……っ!」

 

 目が覚める。シャツにはじんわりと、ベタベタとした気持ち悪い感覚があった。……いや、これは双葉の涎か。なら全然、全くもって気持ち悪くはない。しかしその他にも、びっしょりと汗をかいているようだ。夢の内容は、どうしても思い出すことができない。

 でも、最後の言葉。俺に助けを求める言葉は耳に残っていた。もう一度そのまま目を閉じて、同じ夢を見ようかと少しだけ思ったが……嫌な夢だった気もするので、やめておこう。

 手探りで、近くにある机に置かれているはずの眼鏡を探して掛ける。寝相は悪くない方なので、身体はまだソファーの上にあった。俺はその身を起こして、立ち上がる。

 辺りは暗い。まだ夜は明けていないようだ。しかし、間接照明は付けているから、真っ暗という訳でもない。双葉がまだ寝ていることを目で確認してから――え。

 

「……うぁ、……ううっ」

 

 双葉の様子がおかしい。ベッドのシーツをキュッと握って、額に汗を浮かべている。ひょっとして、双葉も悪い夢を見させられているのだろうか。俺は双葉の肩を揺する。

 

「……ひっ!」起きた。が、目はまだ焦点が定まっていない。「……うあ、あ、ああぁ……」

「双葉、俺だ。安心しろ」

 

 俺は双葉に落ち着いてもらうために、努めて冷静な声でそう呼びかけた。

 でも。

 

「ご……ごめん、なさい。怖い。許して、下さい」

「……っ」

 

 双葉はまだ、俺を見てはいなかった。誰もいないはずのある一点を恐ろし気に見て、誰かに向かって謝っている。

 何か怖いものに追われる夢から醒めた時、まだ追いかけられ続けている錯覚に陥ることがあるのだと、どこかで聞いたことがあった。双葉は今、そんな状況にあるのだろうか? だとしたら一体、双葉は誰に追われている?

 湧き上がる疑問を抑え込んで、俺は双葉を抱きしめた。反射的に逃れようともがく双葉だったが、それでも俺は強引に、信じられないくらいに汗ばんでいる身体を引き寄せた。

 

「う……う。あ、ああ、ああぁ……」

 

 双葉の目から、言葉にならない嗚咽が聞こえてきた。俺は後ろに回していた手に、もう一度力をいれた。それに応じるように、双葉の両手が俺の背を掴んだ。か細い手のはずなのに、背中がひどく、痛く感じた。

 ごめんなさい、許して。そして小さく俺の名を、双葉は壊れた機械のように繰り返した。しゃくりあげる度に震える双葉の小さな背中を、俺は何も言えずにさすることしかできなかった。

 ほの暗い時間が経つと、双葉の呼吸は落ち着いてきて、肩を上下する頻度も少なくなった。俺の胸から顔を離して、とろんとした目をした双葉に、俺は目を奪われた。どれくらいそうしていただろうか、双葉はゆっくりと、その目を閉じた。瞼に浮かんでいた涙の残滓が、双葉の頬に光る一筋を作った。

()()が正しい行為なのかは分からなかった。でも今は、双葉が望んでいること以外を考える余裕は、自分の中に残されていなかった。

 じっくりしっかりと狙いを定め、自分も目を閉じて、そして、そのまま。

 ……。

 目を開けた時には、双葉は深い深い、眠りについていた。首をカクリとこちらに傾けた双葉を、そっとベッドに横たえながら、

 

『……あ……うぅ……』

 

 俺は。

 

『……やめ……ろぉ……』

 

 今まで、記憶の隅に押し付けていたそれを、思い出していた。

 


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