朝目が覚めたら、壁にエアコンが付いてはいないだろうかと、そんな願望が湧き上がってくる程度の熱帯夜だった。更に、俺よりかは二、三度高い体温を持っているモルガナといつも一緒に寝ているものだから、思わずマスターに「エアコンが付く予定はありますか」と聞いてしまいたいくらいの衝動に駆られてしまう。
しかし、泣き言を言っていられないのが現状だ。起きたらベッドがビッショビショだったら、その時は富士の湯に直行して、朝風呂と洒落込もうじゃないか。
一階に降りてきた俺は、マスターへ朝の挨拶を済ませる。当たり前のように、客は1人も入っていない。
「よぉ。遅いな」
と、コーヒーカップをカウンターに置きながらマスターは言った。そのカップには、黒い液体がやや控えめに注がれている。俺のために用意してくれたのだろうか……と、目でマスターに催促を入れる。
「いいや。違うよ」
え?
「じゃあ……誰のもの、何ですか」
「……ああ」
マスターは、いつもより少しだけ重たい声で言う。
「今日は、若葉……双葉の母親。あいつの、命日なんだ。だから毎年、こうやってな……」
……なるほど。
「そんな辛気くさい顔をするな。そこまで俺のコーヒーを飲みたいってか。お前の分もあるから」
とマスターは冗談を言って、コーヒーの準備をし始めてくれる。俺は少し迷ったが、若葉さんのために置かれたコーヒーカップの隣の席に座ることにした。
カウンターの向こうから、そして左の席から、心がフッと軽くなるような香りが鼻孔をくすぐってくる。俺はまだあまり働いていない頭を揺らしながら、隣にいるはずの若葉さんの姿を、ボンヤリと想像している。
「双葉な、若葉にそっくりだよ」
考えていることを悟られたようなマスターの言葉にドキリとする。ドキリとするが、俺は黙ってマスターの目を見る。
「頭がいいところも、常識でははかれないところも」
マスターは語る。
「若葉よぉ……仕事も子育ても、充実してるときに、死んじまいやがって……」
夏祭りに、マスターから聞いたことを思い出す……確か、死因は自殺……だったはず。
「ああ、そうだ。そういやお前、俺と検事のやり取り……ああ、前に来たスーツの女、検事なんだけど。その時の話、気にしてただろ」
銀髪の、高圧的な態度でマスターに接していた女の人。双葉と若葉さんのことで、あの日ルブランで口論になっていたんだっけ。
「ああ」マスターは頷いた。「けど、あの女が、俺に何を話しに来たのかはまだ言ってないはずだ。この際だから……一応、言っておくよ」
とマスターは言って、少しの間、左の方に顔を向けた。彼の視線の先には、祐介が持ってきた「サユリ」が置かれてある。
「あの女が俺から聞き出そうとしていたことは、若葉の研究についてだ」
研究?
「研究内容は……まあ、よく分からなかったよ。素人の目からだから、尚更な。一般人からしてみれば、まるで異世界のような話だったわ」
……異世界。
一応、その研究分野の名前くらいは、聞いておこうか……。
「認知訶学……と言うらしい。カガクのカは、摩訶不思議の『訶』だそうだ」
……認知。
異世界。認知。摩訶不思議。
少しだけ。
少しだけ、根拠のない、心にモヤがかかるような感覚に陥る。
「とにかく、その研究を巡って、ゴタゴタがあったんだが……。当然、若葉も巻き込まれてた」
マスターは語る。
「それでな、若葉の死因だが、自殺ってことになってるが、不審な点もある」
え?
「研究内容を奪って、利用したい輩がいたとかな……」
若葉さんの、研究内容を奪う?
それって。
若葉さんは、自らの手で自分を殺めた訳じゃなくて……誰かに、殺された?
それなら、全く話が違ってくるんじゃないのか?
「誤解するな。証拠はいっさいない」
「……でも。もし、他殺だったら……双葉が気を病んだ必要も、理由もないんじゃ……ないんですか」
双葉は、目の前で母親に車道に飛び込まれたことに、心を病んでいたはずだ。
「……、証拠はない、と言っているだろ」とマスターは言った。「双葉を更に悩ませる訳にはいかなかった。だから俺は、双葉には言ってない」
……。
「ただ……俺、後悔してることがあるんだよ」
「後悔、ですか」
「若葉な、死ぬ直前、SOSを発してたんだ……死ぬかもしれないってな」
とマスターは言う。
「冗談だと思って受け取って流しちまったんだけどよ、もし、もし、真面目に受け取ってたら……俺が双葉を引き取ったのは、贖罪の気持ちもあるんだ」
「……」
マスターに掛けるべき言葉を、俺は思いつくことができない。
双葉の世話をしたときに。扉の向こうにいる双葉に、料理を出したときに。双葉が始めて、ルブランに顔を出したときに。
マスターはずっと、そんなことを考えていたのか。ずっと。本当に……ずっと。
そんなマスターの気持ちを、俺は推し量ることができない。推し量れる、訳がなかった。
「悪い。辛気くさいのは、俺だったか」とマスターは言った。「こんな日だから、色々と思い出しちまう」
そしてマスターは、はぁ、と、深い深いため息をつく。まだ、マスターに掛けるべき言葉は見つからない。
「別の話でもするか」
「……! はい」
マスターが思わぬ助け舟を出してくれたので、俺は思い切って乗ってみる。
「お前、よぉ……最近、女、引っ掛け過ぎじゃねぇか?」
「……え?」
……その舟が、ちゃんと木でできているかどうかを、確かめもしないまま。
「一二三ちゃん……だっけか。最近はあんまり見なくなったが、確か『美人棋士』だとか言って、テレビにちょくちょく出ていた、あの子。……ルブランに来ていたよな?」
「……はい」
一二三が加入して、怪盗団も、実に女の人が半分を占める構成になった。杏、真、一二三……よって、計三人。杏も真も、同じ高校の連れだということで話は付いているが、一二三は……まあ、祐介の同じ高校の友達、と説明すれば、何ら問題はない、と思う。
マスターが心配する気持ちは、痛いほど分かる。仮に俺がマスターと同じ立場だったとして、双葉のカレシが何人もの女を引っ掛けまくっている不埒な輩だとしたら、怪盗団の総意関係なしに、一人でメメントスへ潜り、そいつの心を改心しに行くことも辞さないだろう。
しかし、俺は彼女達と不健全なことをしたことはないし、するつもりもない。双葉とでさえ健全なお付き合いを心掛けている俺が思っているのだから、間違いない。
また、俺はいわばあぶれ者だ。クラスの女子生徒にさえ、話しかけられた経験がないんだ。一部の例外はあるけれど……例えば、川上とか……あと、武見先生とか、まあ一部の例外はあるけれど、団員以外の女性と話した経験はあまりない。だから、何も隠すことはないと、そうマスターに胸を張って言える自信があった。
「それで……昨日とかよ」
「昨日?」
昨日……は、双葉に頼まれて秋葉原に出掛けただけだが……。
「お前から、女のにおいが、した」
「...」
え。
「肉の匂いじゃ、なく?」
俺は一応聞いてみる。
「……肉が何の話かは知らないが」マスターはあたまをかいた。
「俺の予想は、な」「はい」
「お前より、少し年上」
……う。
「茶髪」
……うう。
「気が強くて……あと、お前の口ぶりからすれば、肉の好きな女だ」
「……」
図星だった。
というより、普通にすごい。勘が鋭すぎる。ここまでくると、もう超能力といっても、差し支えないような気がする。
「ま、俺も人のことを言える筋はない」とマスターは呟く。「が、双葉の保護者の目線からすると、やっぱ、なんだ……穏やかじゃないよな」
マスターは、なんだかやりきれない表情を浮かべている。俺は弁明しようと色々考えるが、まさか何のヒントもなしに、俺が昨日女性と会ったことを悟られるとは思ってもいなかったので、相変わらずアドリブ力のない俺は、言い訳の一つも思い浮かばない。正直に話そうとしても、「ペルソナを扱う先輩と出会った」なんて荒唐無稽な話、信じてくれないのがオチだろう。
だかしかし俺は、マスターにも見えるように、迫真の苦々しい表情を顔に貼り付ける。さきほどよりかはちょっと軽い、それでいて少し重い空気が、ルブランを包む。
そんな緊張感を打ち破るように、扉の鈴が鳴った。