「……ありがとうございました」
どの陣地にも攻め入られたような跡がある、血で血を洗った投了図。私と相手の実力が拮抗していた、なによりの証でした。
しかし、私は勝ちました。
今までの自分に――打ち勝ったのです。
『……どうして』
押し殺したような声が、大きな将棋盤を挟んでもなお、私の耳に届きました。
『どうして、ダメなのでしょうか。頼れる人に任せる生き方が……どうして間違っているのでしょうか』
かつての自分が、私にそう語り掛けます。
『自分で考えて、生きる……? そのような大変なこと、私には荷が重すぎるんですよ……きっと。自分を信じない方が……明らかに賢くて、楽な生き方に違いない……のに』
自失したように椅子の上で、彼女は項垂れました。
それは、赤子が母親の赦しを待っているかのような、弱く細い意思の表明でした。
ですから私は。
彼女に、告げなくてはなりません。
「人に依存して生きることは、一般的に言うならば……きっと間違った生き方ではないのでしょう。己自身を頼みとして、結果躓いたり、挫けたりしたことは……枚挙にいとまがありませんから。貴方の言う通り……明らかに賢くて、楽に生きたいのならば……不特定多数の一般人の指す方向に向かう駒となれば、それでよろしい……はずです」
楽で、賢くて、正しい世界。
そんな理想郷のような場所でも……私は満足できなくなってしまいました。
彼が、彼女たちが、もっと素敵な人生を歩む指標を私に与えてくれたからです。
「ですが、私は苦しく、愚かで、正しいかどうかも分からない道を選んだ……ただ、それだけ」
楽か苦しいかは関係なく。
賢いか愚かかも関係なく。
正しいか間違っているかすら関係ない。
私が、私自身がそう生きたいと思った……それだけが、全てだと。
私はそう、読みました。
『…………そう、ですか』
彼女はそう呟くと、蛍が彼女の周りから散ってゆくようにして、彼女が謎の光に包まれました。
その光が彼女の実体を奪っていくように、段々と視認し辛くなります。
『では、負けてしまった私の方から、その、一言……応援しています、よ』
きっと彼女は最後まで、私の言ったことなんてよく理解していなかったのだと思います。
理解していなかったし、認めていなかったでしょう。
しかし彼女は消えゆく中、私にエールを送ってくれているようでした。周りから見れば、駄々っ子のような結論を出した私と、ここに残る私を励ましてくれている彼女とでは、どちらが成長した私であるかなんて、どう見たって後者だと思うだろうに違いありませんでしたが。
ともかく。
私の夢の中での戦いは、どうやら終わりを迎えたようでした。
『貴方のなすべき事を……ね』
彼女は小さな微笑を讃えた後、まん丸に切り取られた空に、消えてゆきました。
「……」
……あれ?
おかしいですね……てっきり私は、今にも夢から醒めそうな雰囲気だと思っていたのですが。
まだ何か思い残したことがあるのでしょうか。
『グアァアアアァ!!』
とても人のものとは思えないような断末魔が、私の鼓膜をブルブルと震わせます。
声のした方を振り向くと、やはりとても描写できないような形をされた怪物を、素敵な身なりをされた方たちが蹂躙している真っ最中でした。
私は物陰から(と言っても周りには椅子くらいしかありませんでしたが)息を潜めて、事の成り行きをじっと見守ります。
二度三度その怪物と言葉を交わした後、彼女と同様の現象を見届けてから、彼が何か光っているものを手にしています。彼らが何やら騒いでいることから鑑みると、どうやらその光るものを手に入れることが、彼らの目的だったようです。
その朗らかな雰囲気に釣られて、私も嬉しい気持ちになっていたのも束の間。
ズン、と、建物全体が大きく震えた音を感じ取ります。
その音が連鎖を作るように重なっていき、ついには私のお腹までも揺らす轟音となって私達を襲い掛かりました。彼らもどうやら、混乱しているようです。
――ですが。
彼だけは、微妙な体勢を取ったまま、その場を動こうとしません。まるで金縛りにかかったように、その場に縛り付けられていました。
一体何をして……何かを、
彼が向いている方向に目を動かしそうになった――その時でした。
コロッセオに取り付けられていた巨大スクリーンが、地響きを立てて崩れ落ちてきました。
そして、その落下地点の中に、彼がいるということは、疑うべくもありません。危ない! と私は大きな声を上げて、彼に向って走っていると、
「………っ!?」
私は躓いて、固い地面に、強かに体を打ち付けます。視界もなんだか狭くなって、意識が遠のいてゆく感覚がありました。
彼は驚いて私を見ています。今は私より、自身の身の安全を確保してもらいたかったのですが……声を出す事すらままなりません。
ああ……ここまでか、と。
さぞかし起きたときは寝ざめが悪いに違いありません、と楽観的に思いながら、私は目を閉じました。
随分と長い間、おかしな夢を見ていたような気がします。
しかも今回は何故だか、その一部始終を覚えていました。私は朝食を食べ終える頃には殆どを忘れてしまいますから、かなり不思議なことです。
しかし一方で、ベッドで横になった記憶は、頭のどこを探しても見当たりません。スマホを見ながら、そのまま寝てしまったのでしょうか。
あれ?
そういえば、私が今横たわっているはずのベッドのフカフカがありません。皆無です。むしろゴツゴツとした感触が背中から伝わってきて、ここがベッドの上ではないということを思い知らされます。
では、ここは一体どこなのでしょうか。ベッドから床に落ちてしまったのか、それとも……ええい、と目を閉じたまま、上半身を手で持ち上げます。
「ふぎゃ」
……勢い余って、誰かのおでことかち合ってしまったようです。痛い。
「……っ、つつ……お、起きたか。良かったぁ」
安心したのか、目の前で全身を弛緩させているお方はなんと、双葉さんでした。その隣には、当たり前のように彼がいます。
「……ふ、不法侵入……でしょうか」
「……うぇ? ……あー、違う、ノーギルティ―。周りをよーく見てみろ」
双葉さんに言われるがまま、周りを見渡します。……って、ここは。
「教会……ですか?」
私はいつも座っている椅子にどうやら横になっていたようでした。
「そうだ。俺と双葉で一二三の様子を見に行ったら、そこで君が寝ていて……」
どうしてか、彼は矢継ぎ早やに説明をします。もしかしたら、寝ている様子を見てしまったことを申し訳なく思っているのでしょうか。女性の寝顔は見てはならないと言いますし。私は全然、気にならないんですけれど。
「まあ、何も問題ないのなら良かった。どうやら少しだけ、うなされていたようだから……心配した」
うなされて……いた。
それは恐らく、私が水着姿の彼女に責められていた場面に違いありません。
ともかく、彼の言うことを信じる限り、あれは夢だったようです。
私が決意を抱いたことも。
……私が、不覚ながらあの彼に少しだけ、ドキリとしてしまったことも。
全部、夢。
「…………そう、ですか」
悲しくなんてないと言えば、嘘になります。
ですが、私が決めたことは、たとえそれが夢の中で起こったことだったとしても、曲げるつもりは一つもありませんでした。
生きたいように生きる。
……それが、彼女とした約束ですから。
「…………………むぅ」
ああ……そういえば、折角彼と双葉さんに来ていただいたのですから。
一局ずつ、指してほしいところ……もう、指すことをためらう理由なんて、ありません。
「ええと、その……色々ありましたが、私はもう、大丈夫ですので……。もしよろしければ、私と一局……いかがでしょうか?」
まずはここから、一歩を踏み出します。
「遠慮なくかかってきてください……お相手、願えます?」
「あー、もう無理、よくない。この展開はリアルに……良くないと思うぞ、カレシィ!」
将棋盤を全く持ってきていなかったことに気付き、意気消沈していると。
双葉さんが出し抜けに、彼に向って大きな声をあげました。
「だな!」「うん!」「ああ」「そうね」「ワガハイも、そう思うぜ」
また、教会の扉からぞろぞろと、高校生らしき方たちが数人押し寄せてきました。この教会に若い人が来ること自体あまりあることではありませんから私は当然、その方たちの方を向いてしまいます。
もちろんこの教会には初めて来た様子でしたが……私は彼らを見るなり、強烈な既視感を覚えました。
ええ、間違いありません……。彼らは正しく、私の夢の中で出てきた登場人物でした。
そして……目の前で、気まずそうに双葉さんの方を見ている彼は。
幾分か躊躇ったのちに……ゆっくりと口を、開きました。
「ようこそ、怪盗団へ……東郷一二三」