俺が手に持っていたビニール袋を胸元前に提げた瞬間、その中に入っていた『うみゃあ棒(お徳用)』は忽然とその姿を消した。
あまりにも急に起きたその怪現象に、俺は驚く事すらできず、ただ数学のうさみん(宇佐美先生)が量子テレポーテーションについて熱く語っていた事をボンヤリと思い出す。
波とは状態の事を指し、一見物質とは乖離した概念だそうだ。しかしもっとミクロな視点で――例えば電子について考えてみた場合、それはあろうことか物質であり、波であるという性質を兼ね備えているらしい。
だから電子は普段見る物質とは隔離して考える必要があり、それを量子と呼び――と、この辺りで俺の記憶は途切れている。あまりにも眠すぎて机に突っ伏してしまったからだ。
と、圧縮された記憶が一瞬にして蘇った後、俺は現状を今さらながら把握する。
視界に入ってきたものを整理すると……不健康そうな白い手と、不気味に光る大きな眼鏡の残像。
ということはつまり、双葉は驚くべき速度でその扉を開けて、うみゃあ棒をすかさず視認し、最短距離で目的物を確保、閉扉。
というのが、この一連の事象の真相らしかった。なんという頭の無駄遣い。
緻密な計画が練られていたと思ってしまうような、鮮やかすぎる手際の良さだった。それは、まるでさながら本物の怪盗のよう。
「ふっふーん。この手は二度そうじろうから受けているからな! この私をナメてもらっては困る」
フフフ、と悪役を気取ったような声をあげて笑う双葉。白く光った眼鏡をクイっとさせている姿がありありと思い浮かぶ。
けれどこの方法、まさか惣治郎さんの使いまわしだったとは。
それに二回も。双葉の反応を窺う限り、どちらもどうやら成功しているようだし。
しかし……目にもとまらぬ速さでブツを巻き上げられるという奇策を弄された俺は、もう打つ手がなかった。
これはもう、起死回生の惣治郎さんのモノマネを再演するしかないのだろうか。咳払いをして、喉仏を下げ、限界まで音域を――、
「いや、もうニセそうじろうはいいから……」
却下された。
「それより……話って、なに話すんだ?」
尋ねる声は扉でこもってはいたけれど、それでもしっかりと――そして、ガサガサとうみゃあ棒の包装を解く音は聞き取る事ができた。
どうやら……作戦は成功してしまったらしい。
それから俺たちは、スラスラとはとてもいえないがポツポツと、たわいのない会話を始めた。俺もそれほど話すことは得意ではないので、当たり前といえば当たり前だ。
――最近興味を持っていることは。
「並行プログラミング。と後はGPUの有用性だな。性能はCPUに比べてぶっちぎりに良いのに、電力も食わんとか何それチート? って感じだ! そのうち擬人化したGPUが、持ち前のチート性能でCPUを粉々にしてくっていうアニメが流行ると思われ」
――最近読んだ本は。
「線形の参考書。やっぱ時代はディープラーニング的な? まあ概念が抽象的すぎるっつー点が面倒だけど。え、難易度? ……ちょっと前に読んだ心理学のそれに毛が生えた程度だな」
――趣味は。
「ハッキング」
と、よくありそうで当たり障りのない質問を投げかけたつもりが、どこをどう曲がるか分からない変化球を投げ返された時もあったけど、それはそれとして。
それでも双葉は実に楽しそうに話しているように思われた。自身の知識をひけらかして威圧するようなものではなく、ただ自分の喋りたい、話したいことを出しているかのような。
そんな、彼女、らしい? 一面も垣間見る事ができた。
しかし……どうやら本当に双葉は頭がキレるというか、賢いというか。
息を切らしながら指数対数をいじくっている俺からしてみれば、実に羨ましい限りではある。
「はー、喋った喋った。……こんな感じで、良かったのか?」
急に何か心配しているような口調になって、扉の向こうで押し黙る。俺の反応を窺っているようだった。
そんなことはなかった、と双葉に伝える。
「……そう、か。よしよし、コミュ力ステータスが上がった音が聞こえるぞ!」
なるほど。それならその勢いで外に出たり――、
「それは出ない!」
……出ないのか。
しかし、彼女が部屋から出る事自体はそれ程久しぶりじゃないという事に気付く。
確か、二週間前だっけ……荷解きの合間にUFOを作っていたら、春にそっと吹くそよ風のように静かに、彼女はルブランに姿を現した。
そして台風のように辺りを蹴散らして去っていった訳だけど。
ともかく。
あの時の真意を探ろうと、俺は双葉に声を掛けた。
「……う、ううむ」
何故か言い澱む双葉。
「なんか、普通に名前呼びされんの、なんか、ここら辺がムズムズする」
……どこら辺?
募る疑問はさておき……確かにほぼ初対面なのだからここは『佐倉』と言うべきなのかもしれない。
が、惣治郎さんと被ってしまうのだ。あ、因みに惣治郎さんと話したりするときは、一応『佐倉さん』と呼んでいる。
「ぐぬぬ……だから、なんか食べたかったんだって。そんでそうじろうが電話に出なかったから、ルブランに来た」
ふむ。
それはとても自然で、疑いのない理由のように思える。
しかし、惣治郎さんの言う通り双葉はこうして引きこもっているのだ。
双葉が空腹に耐えられないような健啖家は無きにしもあらずだけれど、それなら普通に部屋にずっと居るなんて続くはずもない。
つまり、何か別の理由があったのではないのか、と勘繰ってしまうのだ。
「……」
今度は完全に口を噤まれてしまった。
ここにきて久しぶりに、沈黙が流れる。
改めて扉の外装に目が行くようになる程の時間が過ぎたあと、扉の向こうで空気が掠れる音がした。
「……分からない。気づいたら、ルブランの前に立ってた。……何かから、逃げてた……んだと、思う」
逃げていた?
何か怖い夢を見たという意味なのだろうか。
「……もういいよ。忘れたしな」
……覚えていないのなら、仕方ないか。夢に関する記憶は忘れやすいって聞いたことがあるし。
そして――それほど怖い体験をしてしまったのなら、忘れてしまうのも当然だろう。
人は忘れられるから生きていける。
という誰が言ったのか分からない格言を、俺は聞いた事があった。
「……こんな感じでいいんなら、また付き合ってやっても、いい。今日は……たた、楽しかったぞ? うみゃあ棒も、その、うん、アリガトウ。うまかった」
そういえば、かなり前からうみゃあ棒のサクサク音がしなくなっている事に気付く。
もう食べきってたんだ……ここに来て、双葉がただの食いしん坊だった説が浮上した。
「では、サラダバー」
そんな気の抜けた台詞が扉から伝わって来て。
双葉の足音が遠のく音を聞いた。