もしも、下宿初日に佐倉双葉と出会ったら   作:菓子子

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7/24『Wake Up, Get Up, Make Your Move!!』

「…………はぁ」

 

 ネットに転がっている、謂れのない誹謗中傷に溜息をついて、私は自分の頭を枕に打ち付けます。

 部屋は、ネットが見せている賑わいとは対照的にシンとしていて、やや色褪せた畳の真ん中には、足の付いた将棋盤がぽつねんと立っています。

 夏休みが始まってしまったことが幸か不幸か、私はベッドの上から離れない生活をここ数日していました。神田の教会へ、神父さんや彼と将棋を指しに行ったり、薙瓜書房へ将棋の参考書を求めに行ったりと、かなりフットワークが軽いことで知られているようですが、たった一つのキッカケで、こうも落ちてしまうことは私自身も驚いています。そしてまだ、この堕落した生活から抜け出そうとする意思すら、出てこないままでした。

 私は、何をやっているのか。

 私は、何がしたいのか。

 この二つの問題は、長く私の頭を悩ませていました。

 日課となっていた将棋の鍛錬に励む必要がなくなってしまった私にとって、長い休日というものはとても退屈なものでした。その挙句、スマホに手を伸ばしてしまったことが運の尽き。双葉さん曰く、エゴサーチというものを、半ば茫然としながら、続けているのでした。

わざわざ私への非難を見に行き、勝手に心を痛めている私に対して、正に滑稽ここに極まれりと言うほかありません。ですが、なぜだか、自身を傷つけている自分の手を、止めることはできませんでした。

 これが――何をやっているのかという一つ目の問い。

 また、最近の目まぐるしい状況の変化と、対局中のスランプによって、完全に自分を見失っていると言う感覚がありました。

 そして周りに流されるまま、麻倉さんやお母さんに言われるまま……将棋を。

 とはいえ、将棋が体の一部となっていた私に突然趣味が沸いて出てくるわけもありません。それが、何をしたいのか……という二つめの問いでした。

……?

突然、携帯が一度二度震えます。どうやら、LINEのようでした。

一体、誰からでしょう……といっても、普段から送られてくる人は数人くらいしかいないのですが。

通知のバナーを見ると、文法なぞ知ったことではないと言ったような自由な文体が目に付きます。どうやら、双葉さんからのようでした。

 

『HELP USへるぱす』

『やばいので、助けてほしい』

『将棋めっちゃTUEE奴と対局してる』

『応戦モトム』

 

 相変わらず速い双葉さんの送信ラッシュに、私は少しだけ驚きます。

 私はそれ程電気機器には弱くないということを自負していますが、とはいえ双葉さんのタイピングの速さには及ぶべくもありません。

 さて、どうやら双葉さんは、どこかで将棋をなさっているようです。僅か一日で将棋を極めた彼女ですら苦しんでいる相手なのですから、双葉さんが今対局をされている相手は、きっと相当の手練れに違いありません。

私は深呼吸をして落ち着きを取り戻してから、ゆっくりと文字を打ち始め――、

 

『今向かいま』

 

 ――の部分で手を止め、消してはまた書き直します。

 

『用事があるので難しいです。すみません』

 

『そか』

『じゃあ、うん、』

 

 双葉さんはきっと次は彼女がよく使われている別れ際の言葉、『サラダバー』と打つつもりであることは、見るからに分かりました。

 今の私は将棋をやるべきではない。将棋とは距離を置きたい。

 そんなワガママな理由で断ってしまった私を情けなく思いました。

 が。

 しばらく経っても、その挨拶がスマホの画面に現れることはありませんでした。あの双葉さんとのLINEですから、LINE上で妙な間があるのは珍しいことです。ですので私は、余計な勘繰りを働かせてしまいました。

 彼女は、彼女の為ではなく私の為に、このLINEをしてきてくれたのではないのかと、そう思ったのです。

 勘繰りというよりかは、私自身の願いと言った方が正しかったかもしれませんが。

 

『えっと……』

 

 この時の私の心情を、上手く言い表すことができません。

 何かを変えたいと思ったのでしょうか。 

 何かが変わってしいと願ったのでしょうか。

 恐らく、無下に断ってしまうことが忍びなかった故の帳尻合わせのつもりだったのでしょうが……私は。

 その対局が行われている場所を、聞くことにしました。

 

 双葉が頑張って無双してくれるだろう、という大体の理想からは程遠く、俺達は中盤から終盤に掛けて苦しい後退戦を強いられていた。

 というか普通にシャドウ一二三が強かった。本物の一二三とは肩を並べるまでもないかもしれないけれど、確実に双葉や、俺達以上に『視えている』ものがあるような指し方をしていた。

 そして何よりの誤算は、双葉が思ったより勘が鈍っていたということだ。時々俺が考えもつかないような手を思いついたりはしていたが、大体は一見しただけでも分かるような悪手を連発していた。また堅実な手が好きな俺とは違い、双葉は完全にイケイケ押せ押せタイプ。今のところはなんとか均衡を保っている感じだけれど、崩れるのも時間の問題だろう。

 他の皆は何をしているのだろうと周りを見渡してみると、観客席の中段あたりで、各々くつろいだ座り方で将棋台や、それが映っているスクリーンを見ていた。真が何か皆に喋っているのを見る限り、どうやら将棋講座が開かれているようだ。

 

「おい、集中しろ。いくら形勢が動いていないからって、油断はキンモツだぞ?」

 

 画面から聞こえる双葉の少し張り詰めた声に、俺は即座に将棋台へ向き直る。双葉はやはり集中しきっているからか、口調がマジだ。

 そういえば、シャドウ一二三が初手を打った時に、とても弱気な発言をしていたっけ。

あれはどういう意味だったのだろうか。

 

「……うー。それ聞いちゃう?」

 

 聞いちゃう。

 

「あん時……えっと、ひふみんに完徹でやり合ったときだけど、私が初手をいきなし打ったのは、もちろん一二三が後手なのしか棋譜読んでなかったから。……私をお、おんぶして帰った時、私のパソコン見たろ?」

 

 ……どうしてそれを。

 というか今双葉、一二三のことひふみんて言わなかったか?

 ……いつの間にか、双葉と一二三との間で友情ができている匂いがする。

 

「ふふん、ちゃんと履歴が残ってるからなー。……まーそれは置いといて。あの時、多分()()()()()()()()()()()なかったはずだ。……先手と後手では攻め方が全然違うだろ? だからとりま研究する量を二分の一するために、一二三が後手ばっかの棋譜持ってきて、そんでもって当日の時にも先手で打たしてもらった訳である」

 

 けど……シャドウ一二三は、いきなり初手を打ってきた。

 

「そーゆーこと。……まーあれから、ちょっとはそれ以外もリサーチしたんだけどね……。ひふみんって、その、居飛車党じゃん? エターナル・アビス・矢倉しかり」

 

 ……その技名、結構有名なんだ。

 

「うん、カッコイイ。……で、居飛車党ひふみんのいつもの初手は、もち例外もあるけど……大体は2六歩。よって計算外。QED」

 

 ううむ、確かに一二三がいつも打っているときはいつも飛車の前の歩を突いていたような。

 一方シャドウ一二三が見せる動きは、完全に振り飛車のそれだ。……麻倉が、一二三が好む戦型までは認知しきれていなかったということなのだろうか。

 双葉との雑談を交えながらも、しかし戦局は悪くなるばかりだ。まるでお手本のように自陣が追い込まれて行き、そして。

 

『――詰めろ、です。貴方たちが何をごちゃごちゃ相談していたかは読む必要すらありませんが……どうやら、大したことではなかったようですね』

 

 一二三よりかは辛口の口調で、駒と口両方から俺達を攻めるシャドウ一二三。

 もしかして……、詰んでる? のか?

 

「びみょい。ぱっと見十二手だが、逃げ切って反撃する可能性が微レ存?」

 

 大ピンチであるのにも関わらず、双葉は淡々と詰まされるまでの手数を分析する。

 え、これで終わり……なのか? そして、双葉が謎の余裕を見せているのはどうしてだ?

 俺も譜面をじっくりと見て、確かに十二手で詰まされそうなことを確認する。……無理やり攻めても詰めろが掛かっている訳だから、相手がポカをするよう誘い込むことも不可能だろう。

 万事休す、なのか?

 ……とりあえず王を守るために、

 

『あ』

 

 何か思いついたのか?

 

『や、そういうんじゃない……けど、やべーミスった』

 

 何がどうヤバいのかは全く判然としなかったが、とにかく何かはヤバいのだろう、双葉は音声越しでも分かるくらいに焦っている。

 

『あわ、あわわ……思い込みってこえぇ。……あ、その、そこに行くのって何か、アプリが必要なんだよな!?』

 

 たしかにそうだけど、今の状況で何の関係があるんだ? と言った瞬間、俺の後方……つまりモナやパンサー達が観戦していたあたりがやにわに騒がしくなる。

 一体何が……………………………え。

 俺は今度こそ完全に、頭の中が真っ白になった。

 目を疑った。

 なぜなら、ここにはいるはずのない彼女が……俺の()()()にいたのだから。

 

『や……やってもうた……』

 

 画面から耳に入ってくる双葉のおどろおどろしい声を、俺は頭の中で処理しきれないまま。

 私服姿の東郷一二三が立っているのを、茫然と見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 テレビ局の自動ドアを通った瞬間、私は眼前に現れた不可思議な光景に目を疑いました。

『テレビ局!』と双葉さんが送ってくれた文面と睨めっこした僅か十分後、私は久し振りに家の外へとこっそり飛び出しました。

 どうしてテレビ局で将棋の大会がされているのだろうという好奇心が半分、残りは……恐らく、どうしても相手のお願いを断わることができない私の性格といったところでしょうか。

 とにかく、私は電車を利用してテレビ局へと向かったのです。

 しかし目の前に現れたるは、実に格好いいマントを羽織られている男性に、歴史を感じさせる競技場、そして大きな将棋台。

 全く持って意味が分かりません。

 全く持って意味が分からなかったので……これは私が今夢を……そう、白昼夢を見ているのだとひとまず思うことにしました。

 きっと私の身体は今、電車に揺られてすやすやと眠りについているに違いありません。

 とにかくとにかく、私はその摩訶不思議な夢の世界で、立ち尽くしていました。

 

「……!」

 

 私がここにいることがよほど予想外なのか、それとも私の代わりに驚いてくれているのか、これもまたお洒落な仮面越しに、マント姿の男性大きく目を開いています。

 そういえば……髪型などの端々がなんだか、彼と似ているような。

 その男性の容姿をもう少し観察しようとしていた私でしたが、大きな椅子に座っている彼の真後ろ……彼と同じように椅子に座っている人を発見します。

 もちろん遠目ですが、将棋台の向こうの彼女が、何故だか私とそっくりなように感じた瞬間、

 

『……今すぐ立ち去りなさい』

 

 私とそっくりの声で、勝つ敵意が込められたような声で、彼女はそう言いました。

 

『貴方はここにいてはいけません……もちろん、彼の手助けをすることも』

 

 彼女は、眼前に広がる大きな将棋台を指で指しました。その動作で私は、どうしてここに呼ばれたのかをようやく思い出します。

 双葉さんの、将棋の手助けをすること。

 そのことを思い出す前に、彼女から釘を刺されていたのでした。

 

「なぜですか」

 

 私は問いました。夢の中にいるはずなのに。

 

『貴方はもう、分かっているはずでしょう……? 貴方には金輪際、もう将棋をする資格などないということを』

「……何の話ですか」

『逃げたからに、決まっているでしょう……!』

「……?」

 

 彼女は不快感を顕わにします。どうして分かっていないんだという侮蔑、そして憐れみが彼女の表情から見え隠れしていました。

 

『貴方は将棋の世界から退いたのですよ……人の手を借りて。貴方はスランプに陥ったあげく将棋初心者にも負け、完全に自信をなくしました。だから辞めようと決意した……しかし、踏ん切りがつかなかった。……だから、人の手を借りることにしたのです』

「違います。私は……ただ、人の話を聞いて、そちらを参考にしただけです」

『責任転嫁でしょうか』

「……違います」

『それは貴方が優柔不断の阿呆だったから……自分の道を決めてくれた大人に、責任を押し付けているのではないですか?』

 

 違うといったにも関わらず、まるで確信しているかのように同じ質問を繰り返す彼女に、私は反射的に反応してしまいます。

 

「だから……それは間違いですと、そう言っているでしょう。ええ、確かに自信をなくしたことは事実です。自尊心が傷ついて、それでも頑張ったけれどダメだった。……だから……私は……」

 

 自分自身で、辞めたのだと。

 その言葉は……いつまで経っても、私の口から出ることはありませんでした。

 ……はい、私はとっくに気付いていました。

 彼女に言われるでもなく……とうの昔に。

 私は意志が弱いから、面倒くらいから、大人の人に決めて貰っているだけなのだと。

 自分の意志がない……ただの傀儡であることを。

 

「でも……仕方がないじゃないですか!」

 

 私はだだをこねる子供のように、口をついていました。

 直ぐ近くに彼がいることと、ここが夢の中であることは、もう私の頭からは完全に消え去っていました。

 

「毎日、毎日毎日毎日……、私への批判を聞かない日はありません! 先輩からも疎まれて、私が負ければ、ほくそ笑んでいるんです! 負けたくなかった、負けられなかった、負けることが怖かった……でも」

 

 勝利の女神が微笑んでくれることはありませんでした。

 そんな辛くて、悔しくて、仕方がないことを終わりにしようとしたって、誰が責められるのでしょう。

 責めてくれる相手も、進んで人を遠ざけていた私には、いるはずもありませんでした。

 誰からも蔑まれる悲しい将棋人生は終わりにしようと。

 そう思ってしまうことは、とても自然なように思えました。

 

『……ふふ』

 

 彼女は私に笑い掛けました。

 

『ありがとうございます……私を認めてくださって』

「……何を……」

『貴方が、自分で考えることを止めた成れの果てが、私……認知上の、私ですから。』

 

 彼女は少しよく分からないことを言って、続けます。

 

『何も考えなくていい、人に決めて貰えればそれでいい……そうした生き方は、大切な事だと私は読みます。そうすれば、誰からも正しいと言われている……そんな気がしますから。楽しいですよ……とっても』

「そんな……姿になってでも、でしょうか?」

『ええ、もちろん。水着姿は、麻倉さんが、引いては私を知っている人々がそう望んでいるからです。何も恥ずべきことはありません。他人からの承認……それは貴方が一番、欲しいと思っていたものではないのですか?』

 

 ……ああ。

 それは……なんて、素晴らしい世界なので――、

 

 

 

「一二三!」

 

 ――突然、そばにいたマスク姿の彼が、大きな声で私の名前を呼びました。

 彼の大声を私は聞いたことがありません。ですから、たとえ夢の中とはいえ、私は驚いて彼の方を向いてしまいます。

 

「一二三……お前はそれでいいのか? 自分でない誰かに決められる人生を歩んで、それで満足なのか?」

 

 彼は私の目の前に立ちます。どこからともなく『そうだぞ!』と聞こえてくるのは、私の気のせいでしょうか。

 

「思い出せ、一二三! どうしてお前は将棋の道へ進もうと決めたんだ? 苦しい家計を支える為か? タレントとして活躍するための前準備のためか?」

 

 半ば茫然としながら、その男性は紛うことなく彼自身であることに気付きました。

 彼は普段全くといって良いほど喋らない、寡黙な方でした。そんな彼が声を荒げて、私の目を見て語り掛けました。

 

「将棋の先輩と人付き合いをするためか? 辛い思いをするためか? 名前も知らない誰かから認めてもらうことか? ……違う」

 

 そう言い切ると、彼は一旦言葉の波を止めて、大きく息を吸い込みました。そして、その吸った息に全く似つかないほどに小さな声を、私すらも気付けなかった言葉を、振り絞るように言いました。

 

「将棋がどうしようもなく好きだったから……だろう?」

「…………あ」

 

 虚を突かれ、その場でへたり込む私に、彼は続けます。

 

「一二三にとっては心外かもしれないけれど……俺はその気持ち、分かるよ。知り合いからにだって、他人からだって、嫌われるということはどうしようもなく辛いことだ。思考停止する人は仕方ないだろう。けど、俺は……一二三には、そういう人にはなって欲しくない」

「……っなんで、そんなこと……」

「自分の意志を持つことで初めて、生きていける実感が沸くからだよ……一二三」

 

 彼は痛くなるほど私の肩を握って、よく分からないたとえ話を私に言いました。

 冤罪を着せられ、転校を余儀なくされた男の話。

 先生にも、挙句は同じ部活の仲間にも嫌われてしまったヤンキーの話。

 親友を人質のように扱われた女の話。

 自分のしたいことが見えなくなった芸術家の話。

 姉と比較された上、誰からも孤立してしまった生徒会長の話。

 彼らは、総じて一度は今の私のようになってしまったんだ、と、そう言いました。

 

「けどな、一二三……誰もそこで、諦めはしなかったんだ。自分がしたいこと、自分がしなければならないことは決して、見失わなかった。だから()()は……後悔せずに、今日も生きていられている」

「そんなこと、私にはもう……できません」

「できるさ」

「……っ、知ったような口を――」

「知ってるよ、俺は。だって一二三には、物事を深く見通すことができる……素敵な頭脳を持っているじゃないか」

 

『それは、認めざるをえない……』とまた、どこからか声が聞こえます。

 その言葉に合わせるように彼は頷きました。

 

「それに、一二三は決して一人じゃないよ。一二三の将棋を心待ちにしてくれているファンもいるし、君を心配してくれている一二三の父親も、教会の神父さんも」

 

 それと、まあ……俺と、双葉とか? と、彼は照れたように手を頭に持っていきました。

 

「だからさ、一二三。もう一度、考え直してくれないか」

 

 当てていた手を降ろして、もう一つの手で私の肩を強く掴みました。

 その痛みと引き換えにするようにして、私は私を見てくれていた人のことを、ようやく思い出していました。

 ずっと私のことを心配してくれていたお父さんのことも、私の癖に何も言わないまま将棋を指してくれていた神父さんのことも、頻繁にLINEを送ってくれていた双葉さんのことも。

 目の前で語り掛けてくれる、彼のことも。

 それらをしっかりと思い出した上で、私は考えました。彼の言っていたことが本当かは定かではありませんが、物事をしっかりと見つめなおすつもりで、私は考え抜きました。

 何が正しくて、何が間違っているのかではなく……何をしたかったのか。

 たくさん、たくさん。深く、深く。

 そして――私は最後まで、読み切りました。

 

「……いやだ」

 

 絶対に、いやだ。

 

「次の一手を考えられないなんて……そんなの、もう……沢山、です!」

 

 そう打ち明けた私の心には、清々しい気持ちだけが残りました。

 

《遅かった……ですね》

 

「……っ!?」

 

 と思ったのも、束の間。

 私は頭が割れるような、強烈な痛みにまた腰を付いてしまいました。

 

《元々は険しい道のりだと知って進んだと言うのに……道半ばで下るおつもりですか?》

 

 それは彼の声ではなく、もっとしゃがれた声でしたが、

 

《人生に見切りをつけるには、まだ早い》

 

 きっとこれは、自分自身の声だと……本能的に、そう思いました。

 

《我は汝、汝は我……契約、ここに結びましょう》

 

「……ううぅ、ああああ!!」

 

《誰にも思いつけないような、思考の奇策……》

《……期待していますよ》

 

「ええ、来なさい……『ハンゾウ』!!」

 

 私はその()()を。

 思いっきり、引き剥がしました。

 

 


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