「――おめでとうございます。ひとまず安心ですね」
隣を歩く一二三が胸を撫でおろす。
まるで、自分が安心したとでもいうような様子だ。
「いえ……はい、少し。あの時、余計な事を喋ってしまったせいで、貴方と佐倉さんの関係が悪化してしまうと考えたらと……寝れない夜もありました」
そこまで責任を感じなくても。一二三らしいけれども。
むしろ、俺は一二三に感謝しなくてはいけないのだ。
双葉が獅子奮迅の攻めで一二三を負かした数日後、いつものように教会で行った対局の最中に一二三が双葉の気持ちを推し量ってくれた。
あれがなければ、双葉に告白する事はおろか、夏祭りに誘われたとしても怪盗団と行くからと、断っていたかもしれないからだ。
「ふふ。また佐倉さんについての話、聞かせてくださいね。プロ棋士を志す前に、私も恋話が気になる女性ですので」
あ、いや、でももし嫌でしたらその……いいです。と、俺が断る前から遠慮してくる一二三。
にしても一二三も惣治郎さんも、他人の惚れた腫れた話には目がないらしい。そこまで気になるものなのだろうか?
想像してみよう。
杏と竜司がもし、付き合い始めたとする。
…………。
めちゃくちゃ気になるな……。
「さて……ここです。私が行きたかった所」
竜司が付き合うという謎シチュエーションに悶々としていると、おもむろに一二三が足を止めた。どうやら、目的地に着いたようだ。
顔を上げて、そのお店の全体を見る。
古書店が立ち並ぶここ神保町に相応しい、落ち着いた雰囲気のある本屋だ。
そのお店からはちきれんばかりに本が積まれていて、雨が降ったらどうするんだろう、という率直な感想が浮かぶ。
辛うじてささやかな雨除けとなっている屋根の上を仰ぎ見れば、『薙瓜書店』という看板が……なぎ、うりと読むのだろうか。
「この本屋さん、将棋関連の本が充実しているんです。私も、よく利用させてもらっています」
本屋の事をわざわざ本屋さんという所に、一二三らしさが遺憾なくにじみ出ているな。
しかし、将棋の本か……。確かに沢山の人に読んでこられたような本が所狭しと並んでいるから、将棋に限らず良書が埋まっていると言われれば、頷かざるを得ない。
「近くにカレー屋さんがあって、そこのカツカレーも、おすすめです。ゲン担ぎで、大事な一局の、時は……必ず……」
カレー屋の事も、わざわざ以下略。
確かにさっきから腹の虫がうずくような香りに、鼻腔がくすぐられている心地があった。
ゲン担ぎをする事は、棋士の間では珍しくないという話を聞いたことがある気がする。この辺りも、将棋がスポーツの一種だと例えられたりする要因になっているのだろうか。
……あれ、一二三の言う事、途中で途切れなかったか?
一二三の方を見ると、何か思い出したくない事でも思い出してしまったかのように、指でこめかみを押し当てている。
「あっ」
?
突然声を上げて、薙瓜書店ではないどこかを見る。俺もそれに従うようにして右側の道路を見ると、一二三をじっと見る女の人が立っていた。
知り合い……だろうか。
しかし……。
「……おつかれさまです。先輩」
「……別に」
……。
ふむ。
あまりにも無愛想な態度に一瞬戸惑っていたようだが、直ぐに何か思いついたのだろうか、あ、と顔を上げる。
「……失礼しました。今日、対局はなかったですね……」
今の態度でそれを読む一二三はやはり流石だ。
けれど、そんな気の利いた言葉にすら反応せず、彼女の先輩とおぼしき人物はどこかへ歩いてしまった。
「……ごめんなさい。私と一緒だからあなたまで睨まれて……」
ちょっと怖かったと言って、場を和ますのが精いっぱいだった。
しかし――『私と一緒だから』、か。
「以前のタイトル戦で、私が負かしてしまった……先輩なんです。……私、先輩方にあまり好かれていないみたいで……」
と言って、苦笑いを浮かべる一二三。気遣ってくれているようだ。
好かれていないというのは、やはり仕方のないことなのだろう。彼女は何もやっていない……いや、勝負事に先輩だろうが何だろうが本気で挑む、というやるべき事をやっただけなのだから、これは完全に相手の逆恨みなはずだ。……恐らくだけど。
『孤高の天才』なんて呼ばれている理由はもしかして、天才であるが故に、孤高になってしまうという揶揄も入っていたりするのか?
孤高で、天才、か。
……。
あれ、このくだり前にもやったっけ……。
「注目されると、敵も味方も……増えます。あることないこと、言われて……」
あることも、ないことも……か。
特に彼女は、その……何かと目立つ行動、というか言動をしているのだから、うわさ話に尾ひれも付きやすいのだろう。
「比較は変かもしれませんが……怪盗団も、同じなんですかね」
怪盗団、と一二三が言った瞬間に、ちょっとだけ心臓がドキリとする。
双葉に見抜かれてしまったという失策が、少しトラウマ化してしまっているのかもしれなかった。
とりあえず……『何のはなし?』と応じる。
「あ、ええ、すみません。いきなりでしたよね。……ええと、怪盗団……さんは、最近テレビやネット等で騒がれているじゃないですか。それが……なにか、ちょっと自分と重ねちゃうんです」
そう言って、ボンヤリと遠くを見る一二三。
表情は……読み取れなかった。
「けれど、怪盗団は強いんです。とても、とても……私には真似のできないほど、強い」
強い?
「はい。……怪盗団チャンネル、というサイトをご存じですか? ……そうですよね。あそこを一度覗いてみたんですが……本当に、ええと、なんと言えばよいか……」
一二三は続ける。
「まず……批判をしている方がいました。次に、よく分からない部分を擁護している方。そして怪盗団を余所に今後の活動について議論を交わしている方々。自己顕示欲を満たす為に動いているような方。……本当に、本当に沢山の人が、怪盗団に期待していました。そして妬んでもいました。誇りに思っている方もいらっしゃいましたし、貶している方もいました」
一二三はもしかして、怪チャンのスレッドの事を言っているのだろうか。
確かにあのスレは……うん、まともに見ていると気持ちが穏やかじゃなくなること間違いなしだ。
「けど、怪盗団は淡々と、それが自身の在り方であるかのように、悪人の罪を次々と暴いています。そこに……怪盗団の、何者にも振り回されない、『意志の強さ』を……感じます」
意志の、強さ……正直俺は、そこまで大層な事を思った記憶がないけれど。
しかし、しなければならない事……つまり悪い大人の改心だが、それは今後一切変わらないと思う。
誰がなんと言おうと……俺達怪盗団のメンバーの意志は、ちょっとやそっとじゃ変えられないから。
竜司も、杏も、祐介も、真も……ついでにモルガナも皆、怪盗団の活動に対する心構えや理由は、少しだけだがズレている気がする。
複雑怪奇に志が交わりながら構成されていて、かつその方向性が一緒なのだから、ビクともしないのも当然だ。
しかし……その苦しみを分かち合えずに、ただ孤独で戦っている人がいる。
言うまでもなく、一二三だ。
彼女はその批判を一身に受けて、同業者からも疎まれ、生業としている将棋を広めるために芸能界でも精力的に活動して、今もたゆまぬ努力を続けている。
そんな俺達が集まってやっとの事でしている営みを、一二三はこなしている。
それを……俺は、カッコイイと言ったんだっけ。
「……その点私は、ダメなんです。一人一人の無責任な発言に気にしないこともできないで、右に左にフラフラと……情けない」
……そうか。
一二三も俺は、どこか超人じみた人だと感じている節があった――将棋の実力しかり、普段の会話から出てくるオーラしかり。
けれど……そんな事はなかった、のか。
当たり前と言えば当たり前なのだけど。
一二三の事を、少しだけ分かったような気がした。
ともかく。
一二三が相談したい事……それが、人の意見にいちいち耳を傾けてしまうという悩み。その所為で将棋の調子にも影響が出てしまった……と、いう事だろうか?
「……はい。驚きました……知っていたんですね、私の不調……。流石ですね」
「最近は、大事な時に集中力が途切れてしまう事が度々あって……いけません。ひらめきも……あまり、起こらないんです」
……なるほど。
「今日は、ありがとうございました……。悩みを打ち明けると、こんなに心が軽くなった心地がするんですね……新発見です。これは何か、お返しをしないと……」
「……あの、教会に戻って一局指しませんか? スランプ脱却のカギは、やはり将棋を指し続ける事と聞きますし……今日は少し長めに付きあって頂けると、その、嬉しいのですが。……あ、双葉さんに怪しまれない程度で……その、はい」
あくまでも遠慮し続ける一二三が、目を閉じた瞬間、キリリとした表情になる。
「今なら、私の禁断の秘儀……エターナル・アビス・矢倉で盤上を無間地獄にして差し上げましょう」
……。
……アビスって、どういう意味だ?