「その面構えじゃ、なるようにはなったみてぇだな。……いいや、野暮な事は聞かねぇよ」
俺が淹れたコーヒーを飲んで、少しマスターは落ち着いたようだった。
そもそもマスターには、双葉の事を隠せる訳はないと思ってはいたが、まさか何も言わずに悟られるとは……。俺、結構表情を隠すの上手いと思っていたのだけれど。
今回の夏祭りの立役者は、マスターと言ってもいい。あの時双葉からLINEが来ていなければ、俺は怪盗団の面々と花火を見に行っていたはずだし、そもそもマスターが双葉の気持ちに気付いていなければ、双葉に夏祭りの事を告げるという余計な根回しもしなかっただろう。
「しっかし……旨いじゃねえか。四月の頃よりかは格段に上手くなりやがって。オレの指導のおかげか。なぁ?」
それほど俺達の事を見ているにも関わらず、その話題の事は露も出さずに珈琲の話を振ってくるというのは、いかにもマスターらしい。
俺も、大人になったらこういう人になりたいなあ、と、ボンヤリ思った。
「あぁ……悪い。本題に入るとするか。ええと……どこから話したもんか……」
右手を眼鏡に押し当てて、考える素振りを見せるマスター。
双葉とは対照的な、そのゆっくりとした眼鏡の位置調整は、しかしながらどこか洗練された動きのようにも見える。
そう言えば、俺も合わせて三人とも眼鏡を付けているのか。だからといって何てことは無いんだけど。
「一色若葉……って、知ってるか?」
出し抜けに、マスターがそんな事を言う。
……若葉……? いや、聞いたことはない、と思う。
「そうか。彼女は……双葉の、母親だ」
……!
「アイツ……双葉の母親とは、双葉が生まれる前から知り合いでな」
「のめり込むと周りが見えなくなって、毎日遅くまで熱心に仕事に打ち込んでいた」
「子供ができて少しは変わるかと思ったんだが双葉が生まれてからも、相変わらずだった」
「そんなでも、双葉の面倒は毎日ちゃんとみていたよ」
変わり者で、目つきが悪くて、空気が読めなくて、自由奔放で。
と、マスターが語る若葉さんの人となりは、どこかあの
あれ……でも、ちょっと待てよ。
「あぁ。双葉には……父親はいない」
……。
「いや、いたんだろうが、俺には分からん。アイツは何も言わなかったからな」
アイツは一人で双葉を生んで、一人で子供を育てたんだ。と。
という事はつまり……?
佐倉双葉の旧姓は『一色』。
そして、佐倉惣治郎さんは彼女の親……少なくとも、肉親では無くて。
では、蒸発してしまった父親はともかく……母親は、一体今、どこにいる?
「……だがアイツは、双葉を残して、突然、いなくなっちまった……」
沈痛な面持ちでマスターは目を閉じ、顔を伏せるマスターから語られる話は
、どこか、後悔を滲ませているように聞こえた。
「……自殺だ。車道に飛び込んだんだ。双葉の目の前でな……」
瞬間、頭の中に様々な感情が交錯する。
それは、誰かに対する憐れみでもあって。
同時に、違う誰かに対する怒りでもあって。
悲しみ、苦しみ……また、半端な高校生の語彙力では言い表せないような、根源的なもの。
そんな情けない俺を察したのか、マスターは柔和な微笑を見せた。
「はじめは塞ぎ込んで、一言も話してくれなかった。ついには部屋に引きこもっちまったしな。けど……お前のお陰で、双葉はちゃんと、外に出られるようになった訳だが」
マスターは続ける。
「それで、数か月前からだ…」
「何もねえのに、急に怯えたりするようになった」
「声が聞こえる…母親が見ている……ってな…」
……それって。
双葉と出会って一ヶ月ほど経った時、彼女が何かに怯えているのを目撃した事を思い出す。
あの時、確か双葉は『また話すから』と言っていた。
けど、今は。
そんな素振りを、一度たりとも見ていない――じゃないか。
「あぁ。……アイツが幻覚や幻聴を認めるようになった時に、舞い込んできた案件が……お前だった。始めは会わせるつもりすら毛頭なかった。けど一度双葉と偶然ルブランで会っちまった手前もあったし、何より話していて実はコイツ、碌でもない奴ではないという事は……分かったよ」
それが……マスターが、俺と双葉を引き合わせたキッカケ。
それなら――双葉の幻覚を止めるために……いや、始めはそんな気持ちすらなかったのかもしれない。
双葉が困っていた。苦しんでいた。
だから、マスターは。
俺の問いかけに、マスターはゆっくりと首肯する。
「あの日――唯一の親を失った双葉に必要なのは、何者にも脅かされない、安心できる環境だった」
「だから、俺はアイツが望まないことはしねえ。アイツの嫌がることもしねえ」
「って、それだけじゃダメだって事くらいは分かっていた」
「だが、俺ができることなんてそんぐらいしかなかったんだよ」
だから、俺と双葉を……。
と、独り言のように呟くと、その声を拾ったのかマスターは、あぁ、と頷いた。
「正直、賭けだった。何にもできねえ自分を悔いた。けど、俺の目は間違いじゃなかった。仲良くやってるようだし、何より、双葉がうなされなくなったってのがな。……お前には、感謝してもしきれねえよ」
そんな、マスターにしては珍しい事を言う。
それくらい――双葉がマスターにとって、大事な存在だったのだろう。
彼女は一色若葉さんの忘れ形見な訳で。
だから、恐らく。
「オイオイ、妙な勘繰りはするもんじゃねえぞ? ……まあ、多分お前の考えてる事で大体あってるよ」
イイ趣味してるよなあ、互いにな。と、結構ギリギリな事を言うマスター。
「まあ、とにかく、これで一件落着――」
双葉の行動に限った話であれば。
外に出られるようになって。
学校にも行けるようになって。
一二三という同世代の知り合いもできて。
空気を読むことを知って。
人ごみを目の当たりにしても比較的ダイジョウブなように精神力を鍛えて。
彼女にとっては、中々に密度の濃い数か月だったように思う。実際双葉なりに新しい事にも挑戦していたし、俺も俺なりに努力は尽くした。
だから、これはきっと、万事解決なはずで。
はずなんだけど。
最後の最後で、惣治郎さんは。
「——な、はず、なんだよ」
言葉を、濁した。
言葉の続きを問う俺に、マスターは幾分か躊躇ったのち、静かに口を開く。
「若葉がいなくなった最初は、全然口も開いてくれなかった、ってのはさっき言ったよな? けど、俺から話しかけていると、ポツポツと口を開くようになってな」
「それで、分かったんだ」
「双葉は、母の死を、全て自分のせいにしてるんだってな……」
……そんな。
だって、若葉さん……は、双葉の面倒見が良かったはずなのだから、双葉もそこまで自分に責任を持つような理由はない……はず。
「……俺、最初に一色若葉の名前を知ってるか、って聞いたよな?」
……!!
……そうか。
確かに今日日まで、双葉の母親の事は全く知らなかった。
知ろうとさえもしなかった。
それは、彼女が語ろうとしなかったから。
一色若葉に一番近しい存在であった――双葉が。
「双葉は、もしかしたら若葉の事をただ
「お前といる時だけは愛を感じる事ができる。お前と話してる時だけは、アイツの事を忘れていられる。……けど、それは」
何か、先の事を言いかけようとしていたマスターの口が止まり、固く結ばれる。
黙ってその様子をじっと見ていると、次第にその口の緊張が、解かれていった。
「……なんだよ。そんなに睨むもんじゃねえぞ。まぁ――悪い、年を取るとどうも頭が悪い方向に行きやがる」
といって、俺に朗らかな笑みを見せた。
「今は、お前と双葉が……そうだな、上手くやっている事を祝おうじゃねえか。なあ、どこまでいったんだよ実際」
……。
……最初に、野暮な事は聞かないって言いませんでしたかマスター。