「あの日の事は……忘れてください」
……ええと。
「いいえ、この言い方では少し語弊がありますね。……それでは、先週私の目から零れ落ちた液体についての考察は、よしていただけませんか……?」
要するに、泣いてしまった事を見られたのが恥ずかしいから、見なかった事にしてほしいということだろうか。
「はい、そうで……いえ、違います。いや、見なかったことにしてほしいという事は本当です。しかし……その、私は断じて、泣いてなんかおりません」
そこだけは譲らないとばかりに、キリリとした目で俺を睨みつける一二三。
確かに自身が泣いている場面を杏や竜司や祐介もろもろに見られたらと思うと、かなりの悶絶モノではあった。彼女がそう否定するのも無理はない事だと言える。
「しかし彼女には、してやられました……。完敗です。その発想力もハッキリいって意味不明ですが、それを実行し、かつ成功させる努力と才能を……私はこの目で見ました」
ここぞとばかりに、話題を強引に変える一二三。俺はもう少しその考察を続けたいのですが、一二三先生。
と、冗談はこれくらいにして。
一二三と双葉が大健闘を繰り広げた、その一週間後。
例によって俺は、神田の教会に来ていた。
もはやここまで頻繁に通い詰めていると、この教会の常連さんに、今どきの高校生としては珍しいまことに敬虔な信者だと思われているかもしれなかった。……どちらかと言うと、あまり声を大にしてはとても言えない事をいつもしている訳だけれど。
ともかく。
迫るテスト期間から命からがら逃げだしてきた俺は、一二三と
議題は勿論、どうして双葉が一二三に勝ちえたのか、だ。
俺は早速、双葉の部屋で見た事を洗いざらい一二三に打ち明けた。大量の将棋本を買い込んでいた事。そして何より、膨大な量の棋譜が、パソコンに保存されてあった事。
少し明け透けにして話すのは躊躇う部分もあったが、そこはなんとか割り切る事にした。
そうして、一二三が盤上で感じた事とをまとめて、ある程度は双葉がたった一日でしたことを、推論する事にした。
まず第一に、彼女はあの膨大な棋譜を全て覚えたという事。
覚えるといってもただそこらへんにある棋譜ではなく、先手勝利、それも一二三が苦手とする、どちらも居飛車の戦法を取った場合の物に限られていたようだった。自身が先手になる事、そして一二三が居飛車党である事を読み切った上で、それに賭けた。
次に、序盤で双葉が見せた連続即指しは、『一二三が負けた時の棋譜をそのままなぞった』からだという事。
ここで疑問に上がってくるのは、どうして将棋のように指し手が膨大にあるこの将棋で、過去の棋譜を再現できたかという事だった。たった一手であり得る手は何十通り、そして序盤でならなおさらの話。とても出来るようには思えない。
しかし一二三は、
「序盤といえど、定石という物があります……。始めの内は駒が固定されているので、最善手が研究されていますから。……あとは、持ち時間が短かったというのもあるのでしょう。十五秒将棋では、本気の勝負をしようとなれば、どうしても読みが浅くなります。それでも一手を考える為に、先手後手一回ずつでそれぞれ二回、つまり三十秒の猶予があるはず。しかし、双葉さんはそれさえも自らの即指しで削ってきた。……そうなると、記憶や経験に頼らないとならない局面も当然出てきます。……そして、知らぬうちに私は、過去の負け戦と同じ手を打ってしまった数も増えた」
それでも変化が生まれてしまった時は、買った本と自前の思考力を頼りに、強引に元に戻そうと試みた。
それでもダメな時は……他のプロ棋士の棋譜を、
だから、中盤では考える場面も増えたのだろう。
そのようにして中盤を乗り切り、戦局を覆せない一二三は焦って、思考が淀み。
あとは、詰め将棋。
双葉は、序盤の構想力も、または慎重な戦略も、あの一日で身に付けていてすらなかった。
美しくも、なんともない……ただ過去をなぞっただけ。端から見れば、反則だと思われてしまいそうな戦術に、彼女は彼女の持てる全てを、ありったけに詰め込んだ。
そして、睡眠不足という不利な状況もものともせず、勝利した。
結論。
双葉はすごい。
「それにしても……」
ある程度双葉の戦略を推察した後、そのまま帰るというのもなんだか味気なかったので、いつも通り十五秒将棋をすることにした。
最近のそれは、何か一二三の指し方から怪盗行為についてプラスになるような事を見抜こう。という当初の目的よりかは、ただ将棋を楽しむためのものになっているような気がする。
要するに、普通に嵌っていた。
「どうしてあそこまで……双葉さんは、勝つことに拘ったのでしょう、という話をしませんか? ……いいえ、勝つこと自体に意味を見出す事については言うまでもないですが」
苦しい局面にウンウン唸る俺に、何故か質問を投げかけてくる一二三。彼女は、喋りながら将棋を指すことについて慣れているから、対局中に喋ることは造作もない事なのかもしれない。しかし、まだ習いたての初心者で、かつ普通に喋ることもままならない俺にとっては、聞き取った事を理解するだけでも一苦労だ。
「しかし、睡眠不足も厭わない超過密スケジュールを組み、臨むというのは少し不自然なように思われます。まるで、純粋な負けた事への悔しさからというよりかは――何か別の思惑を読みました」
そんな訳で、一二三から話を振ってきたとしても無視してしまう流れとなってしまう……が、近頃はお構いなしに話を続けるようになってきた。
……それは一二三と親しくなってきた事の証なのかもしれない。けれど、脳内で聞き手と指し手を両立させるのは、非常に困難を極める。
頭がパンクしそうだった。
それでも、一手を終えて少し思考に余裕ができる。
一二三が言った事を思い出す。
勝つことに拘った、別の理由――。
して、その理由とは。
十秒もかからずに、一二三が次の手を打った。
そして、一つ咳ばらいをして、手を顎に当てた。
「例えば――双葉さんが、貴方に対して好意を持っている……等でしょうか」
……。
…………。
「十五秒……過ぎていますが」
「!」
咄嗟に動いた手の赴くままに、自駒を動かす……悪手だったかもしれない。
というか今、なんて言っ……。
……ああ。
分かった、全てを理解した。
今、きっと一二三は揺さぶりを掛けたのだ。俺が思いがけない出来事に遭遇したとしても、咄嗟に状況判断ができるようにと、一二三はそんな冗談で俺を試したのだ。
先ほど、俺と一二三が親しくなっていると言ったばかりだけれど……いやいや、これはきつい事を一二三も言ってくれたものだ。
まったく、参ってしまう。
そんな一二三の軽口ににこやかな微笑みを持って返すと、一二三もまた、同じようにほほ笑んだ。
そして、次の手を打つ。
「だって、そうでしょう? あの時のメールでお伺いした限りですけれど……引きこもりがちの双葉さんを外の世界へ連れ出し、秋葉原にて逢いびきする始末。惚れた腫れたどころの話ではありません」
逢いびきって。
ちょ、ちょっと待て。流石に冗談にしては言い過ぎじゃ――。
「……十五秒、経ってます」
「!!」
……やばい、とんでもない場所に打ってしまったぞ。
いかにも不機嫌そうだと言わんばかりに、目を細めて一二三を見る。すると、一二三もまた同様に、俺を睨みつけた。
「……まさかとは思いますが、その諸々の行動は、只の親切心でやったとでも仰るつもりですか?」
一二三が指す。
「そんな貴方に、女性の友人を紹介されたら……双葉さんは、どう思ったのでしょう、か」
いや……あの時一二三が不機嫌だったのは、天才同士の対抗意識があったから……だろう?
一二三が指す。
「勿論あったでしょう。だからこそ、彼女は……双葉さんは、負ける訳にはいかなかったのです。取柄の一つである、頭脳においては……劣ることは許されなかった」
……。
一二三が指す。
「しかし、現に双葉さんは私に負けました。……将棋は、ほぼすべてのスポーツと同じく……たった一戦で、実力差というものはお互い分かってしまいます。ですが、彼女は分かっていながらも、泣きながらも、決して白旗を挙げる事はしなかった――現に私は、何ゆえ彼女は諦めないのかと、不思議に思いました。ですが、今なら分かるような……そんな気がします」
そんな事情も知らないで、将棋云々と語ってしまった自身が恥ずかしいです……と、唇を噛む一二三。
しかし一二三は、手を休める事はしなかった。
見る見るうちに、俺の玉は追い込まれていく。
「……彼女は貴方に、見て欲しかったのでしょう。自身の雄姿を――格好良い所を。承認して、受け入れて欲しかった。だから彼女は……たった、一日で」
……。
一二三は、指す。
俺を糾弾するかのように、刺した。
――そして。
「――なんて、少し熱い事を言ってしまいましたが……これはもちろん……私の妄想です、ので。気にしないでいただ……すみません」
突然語調が弱まった彼女を見てみると、将棋モードの一二三は消えていた。
「……ですが……」
それもそのはず。
「どうか、最善を……尽くしていただけると」
俺の玉は、完全に詰まされていたのである。