「―――! ……――…―!」
「……」
目まぐるしく手順が入れ替わる。二人ともほぼ即指し。盤面は中盤を飛ばして終盤、双葉が一二三の陣形に攻め入っている状況だ。と言っても、双葉は囲いすらしない超攻撃型。序盤の構想なんて考えてもいないような、一見無謀とも言える非常に尖った戦法。
「……―。――……? ……―…」
「……」
プロの棋士である一二三なら攻め入ることができる場面がいくらでもあったはずだが、未だに動きをみせていない。
一方で彼女の口撃は増すばかりだった――自身を、そして自陣の駒……いや、戦士達をも叱咤激励する咆哮が戦場にこだまする。……少しだけ口調が移ってしまった。
対照的に、双葉は盤面では動きを見せていなくとも、始まってから一言も声を発していない。しかし時折聞こえてくる鼻歌が、彼女がこの勝負を楽しんでいるということをなによりも示していた。
「―……――。――………!」
「……♪」
駒が飛ぶ。大駒が縦横無尽に81マスを駆け巡る。
そして――、
「……」
双葉が一二三を見た。さながら悪役のようなその目つきから、宣戦布告の合図が読み取れる。
双葉が指を離す。線対称の五角形に彫られた文字は『龍馬』。
その(一二三曰く)飛馬が利いている場所にあるのは――一二三の『王』
王手。
「……――」
一二三がそれを躱す。が、すかさず双葉が別の駒で再王手。それを合駒でいなして、また切り込む。
ノーガード戦法みたく大量の駒をつぎ込んでいく双葉を、一二三が捌く。
まるで試合を早送りで見ているかのような、即指しに即指しを重ねた格好がいつまでも続くかのように思われた。
それは意地と意地のぶつかり合い。
俺の想像を遥かに凌ぐ空中戦が今、天才たちとの間で繰り広げられている。
「あ、れ……?」
双葉がついに、沈黙を破った。彼女の右手は、持ち駒があるはずの場所でスカスカと宙を舞う。
どうやら……駒が切れてしまったようだ。
双葉が、もう一度前を見る。目が開き、冷や汗を掻いて、何が起こったのか分からないといった表情。
その視線の先には――まるでこの時を待っていたかのように口元に手を当てて笑う、一二三の姿があった。
「―――!」
その彼女が放った一手は、ここに来て初めての攻める一手だ。双葉は虚を突かれたのか一瞬表情を強張らせて、今の現状を読む。
一転攻勢――高速に動く盤面の中で、一二三はそれをやってのけたのだった。
「あ……」
「……」
一二三が攻める。
「ぐ……うう」
「……それも」
一二三が攻める。
「……この……」
「それも……それも」
一二三が攻める。
「どれもこれも最善手なように、私には思えます。センス、勘、それらを形にする理詰めの想像力と実行力……どれも超一級品ではあります。ここにきて一手も間違えない終盤力も、目を見張るものがあります」
「……」
一二三が語る。
その一方で双葉は――苦しそうな唸り声を上げ、目に涙を溜めていた。それでもなお、その
だけど……。
「しかし貴方には足りないもの……そうですね……ざっと五つくらいはあるんじゃないでしょうか。それを得ない限り、貴方は私に勝つことはないでしょう。私は貴方に負ける事はないでしょう」
あまり、将棋を舐めないでいただけませんか……と、底冷えしそうな声で、一二三は努めて冷静に言う。彼女が双葉に対して怒っているのは、誰の目から見ても明らかだった。
そう言い放った彼女が指した一手は、王手。瞬く間に陣形を立て直した末に放った、力強い一手だ。
「……」
双葉は何の反応もみせない。この期に及んでも双葉は思考を諦めていなかった。十五秒をフルに使って、その状況下で最上の一手をひねり出す。しかし一二三は容赦なしに追撃をかける。逃げる。攻める。逃げる――。
そして双葉が投了をしたのは、王も何も動かせなくなった実に十分後の事だった。
「う」
電車の中。
平日ならこの時間帯は、仕事帰りでもう少し賑わっているのだけれど、今日は休日なのも手伝ってか乗客の数はまばらだ。
けれど、同じ車両に乗っている人の目は総じて……ある一点に向けられていた。
「うう」
その視線の先は、俺……の直ぐ右斜め下隣にいる、双葉だ。何度宥めても止めどなく溢れる大粒の涙を、床に落としている。そろそろ水たまりができるんじゃないのか……と、昔聞いた曲の歌詞を思い出してなんとなくそう思った。
「ううう」
将棋に負けて悔しいからか。それとも『将棋を舐めないでもらえますか』という言葉が効いたのか。初めて――挫折を味わったからか。
あるいはその全部か。
ともかく、双葉はさっきからこんな調子でずっと泣き続けている。そのうち干からびてしまうんじゃないかと内心危惧しているのだけれど。
それにしても、ずいぶん異常なまでに悔しがるのだなと思う。相手はプロで、さらにハンデ無しなのだから、勝てる訳でもないだろうに。それでもなお悔しがっているのは……自身の才能をもってしても、勝てない何かを一二三から見出したからだろうか。
双葉の才能は、確かに一二三の言う通り凄まじい。駒の動かし方という最小限の知識のみで、あそこまでの読みのスピードと直観力は正直常軌を逸している……と、素人の目からしてもそう思う。
しかしそれは彼女にとって当たり前なのだ。俺のスマホに勝手にウイルスやら彼女自身のLINEのアドレスを入れてきたのも、恐らくそういう生き方で培ってきたものだと。
「うううう」
しかし、一二三は百戦錬磨の経験によって、もしかしたら双葉のそれとは劣る才能を磨いてきた。勝って負けて、その度に自分の才能見つめなおしてきた。
それが――双葉と一二三との違いなのだと。一二三はそれを言いたかったんじゃないのか? と愚考する。
まあ……。
そういった事で説教を垂れるのは、あまりするべき状況ではないだろう。今はただ、双葉を温かく見守っていれば良い。
「ううううう」
……。
しかし……。
こうも泣かれると、その……なんか、慰めたくなる衝動が湧き出てくるな。
ううむ……こうも母性を刺激される少女が、かつて今まであっただろうか。やべえ、めちゃくちゃウズウズしてきたぞ。
そんな感じで手をワキワキさせていると、ふいに右手に違和感を感じる。
見ると……双葉の手が、繋がれていた。
「うう……ヒック」
双葉からの反応はない。さきほどと同様に、嗚咽時々しゃくりあげの雨模様が続いている。
その手が、俺の手と妙に馴染む。双葉と手を繋ぐの、これで何度目だっけ……とつらつら、益体のないことを考える。
そうしていると、あっという間に四茶に着いた。電車を一緒に降りた後、双葉の手が離される。
「……今日、ちょっと寄るとこあるから。じゃ……じゃあな!」
一人で帰れるのかと問う前に、双葉は駅構内の階段に吸い込まれていった。それはとても覚束ない足取りだったけれど……何か強い目的を持っているように思われた。
右手には、まだ温かみが残っている。それをぎゅっと握りしめて、俺はルブランを目指した。