双葉がベソをかきながら、自陣が壊滅状態と化した哀れな玉将に手を伸ばした。
こんな状況になったのたのはざっと一時間前の事で、今も絶え間なく、お気に入りのアスタリスクマークが入ったシャツに涙を落としている。始めの内はきちんと拭っていたのだけれど、半時間もたてば面倒になったのか、指していない方の手はズボンをぎゅっと固く握りしめている。それが中々に強く握っているので、跡が付いてしまうのではないかと内心俺はハラハラしていた。
双葉と相対するのは、予定調和のように手を盤上に滑らせる東郷一二三。しかし彼女なりにも苦戦しているのか、時折つく吐息が熱い、気がする。ひとしきり喋った後沈黙して、また自分を鼓舞するためかちょっと良く分からない横文字の単語を並べて、双葉を威嚇していた。
そんな世紀末のような激しい局面の中で、俺は彼女たちの間にひっそりと佇んでいた。もちろん俺からは何もアクションは起こすことができず、小二時間ずっとひっそりしている。どちらも俺の存在なんて気づいていないくらいひっそりとしているので、このままひっそりと帰ってしまいたかった。しかしこの泣きべそ少女を放っておくわけにもいかないので、どこぞの奈良の大仏のように彼女たちを温かく見守っている次第だ。
お話は、俺たちがこの教会を訪れる前に遡る――。
盟約ノートが、全然埋まっていない。
プロットを思うがままに好き勝手書いておいて、結局は書ききることができていないような作家の気持ちだった。「いや違う、これは時間の問題なんだ。する時間がないのだから、したくてもすることができないだけなんだ」と自分を慰めては早や二週間半、ついに双葉からお叱りの声を頂いた。
という経緯があって、俺は双葉を連れ立って神田の教会を目指していたのである。
埋める予定の盟約は『同世代のカルチャーを知る』。
誰と双葉を話させようかという事はかなりの時間悩んでいた。竜司や杏に任せるのも考えたけれど、怪盗団について知らない双葉と語らってもらうというのもなんだか気が引ける。それでは一般人である三島は……うん、彼からは並々ならぬ闇を感じるので、やめておいた。許せ三島。
そういう訳で、第一希望でもあったのだけれど、消去法的にも一二三に会わせる事にした。普段将棋の事しかあまり喋らないので、彼女のカルチャーに対する素養については分からない部分もあるのだけれど(失礼)、それが適任なのだと結論付けた。
四茶を出て表参道まで揺られて、メトロ銀座線に乗り換えて神田駅まで。電車内でも人が近くにいるからか、終始そわそわしていた双葉を宥めながら、ついに教会に着く。一二三には行くとLINEで連絡してあるので、中では一二三がいつものように将棋を指しているはずだ。
これから人と会う事がやはり怖いのか、またそわそわし始める双葉を宥めて、扉を開ける。中は意外とひんやりしていて、涼しい空気が俺たちの肌を撫でる。それにちょっとだけ身震いをして、辺りを見回した。ええと――、ああ、やっぱりいつもの場所にいるようだ。
そこまで言って、声を掛ける――前に、一二三が気付いたのか首をこちらに向けた。
「ああ……どうも。ええと、佐倉双葉さんというのは……?」
後ろを振り返る。すると、もの凄い緩やかなスピードで、トテトテと俺の歩みを追従している双葉がいた。心なしか、肩がこわばっている気がする。
「ど……ども。佐倉双葉……でしゅ」
あ、噛んだ。
「失礼……噛んだ」
「あ、はい……お話は、伺っております」
いつもの丁寧な口調で、一二三は席を一度立ち、中腰姿勢になる。そのまま彼女は指で、将棋の盤面と対になる所を指した。
「どうぞ……そちらへ」
「お、う、うん……」
いきなりの手厚い対応に調子が出ないのか、壊れかけのロボットみたいな足取りで指定された場所まで移動する双葉。視線をこっちに向けては一二三を見て、またこっちを向けては……とエンドレスに視線を彷徨わせる双葉。もしかしなくてもそれはSOSの合図なのかもしれないけれど、ここで助けてしまっては双葉の自立計画に背いてしまうことになる。
が、そのまま一二三に預けてしまうのも無責任なように思えるし、少し双葉も可哀そうだ。
LINEでも一応伝えてはいたのだけれど、改めて一二三に双葉の事を話した方が良さそうだ。
「それでは……今日貴方がここに来た理由を教えて貰えますか」
「え、えと……文化、カルチャーが、知りたくて。あんまし、そこらへんググっても良く分からないから……」
……。
バイトの面接みたいだ。
「なるほど……了解しました。それではまず、あなた自身の事をお聞かせ願いますでしょうか」
だから。
バイトの面接みたいだって。
「わ……ワタシ? え、えと、えと……あわわ」
それでもってこちらは、初めての面接でドギマギしている新社会人を見ているようだった。
ともかく。
このままでは流石に埒が明かないと判断して、手短に今回の経緯を改めて話す。
「ええ、分かって……います。貴方が教えてくださいましたので」
ではどうして双葉に訊いたのだろう。……双葉を試したとか?
……。
一二三の強かな一面を垣間見た気がする。
「これ……」
そんな勝負師らしい盤外戦術に俺がドギマギしていると、突然双葉が声を発した。
そちらを見てみると、双葉が勝手に将棋の駒を取って、見事に王を寄せていく。ってなにやってんの双葉。
止めようとすると、一二三が目線で俺を制した。
双葉はそんな動向もお構いなしに、一二三とは対照的に軽やかな手つきで、王を、金を、銀を――すべての駒を捌いていく。
――そして。
「詰んだ」
あっけらかんと。
凄まじく長い長い手を終えた後、そんな何気ない調子で、双葉は一二三を見た。彼女にそれを示すかのように。それが難しくともなんともないような事を、強調するように。
そして――一二三に、挑発するように。
アの口で一二三が口を開いたかと思えば、小さな顎に手を当てて考える素振りを見せる。どうやら言葉を選んでいるらしかった。
一息ついた後、すっと射貫くような目で双葉を見据えた。そこにはもう、普通の女子高生としての一二三は、見る影もないように思えた。
「将棋経験者ですか?」
「いや。ルールくらいなら知ってるってだけ」
「では、なぜ――」
「これくらい余裕。猿でもできるんじゃね」
「おい、双葉」
失礼だぞ、と言っても、双方の顔の向きは、相対したまんまだ。どうやら二人とも、お互いに睨みつけている相手に集中しきっている。
双葉も双葉で、先ほどまでのキョドリ具合とは似てもつかないくらいに、言葉が淀みなく出ていた。そして目も据わっていて――あれは確か、真の尾行に気付いた時と同じ目だ。
「天才がなんぼのもんじゃい」
と。
いつか耳にした事を、双葉は言う。その台詞から伝わる感情は、やはり一二三に対する対抗心のように思えて、そして。
示し合わせたかのように、双葉と一二三は一斉に駒を並べ始める。双葉の方はてんでバラバラに、適当に並べているようだけれど、一二三は、王、金、銀――の順で、そして完璧なまでに揃えながら、マス目の真ん中に駒を配置していく。
並べ終わり、辺りは静寂に包まれた。空気が張り付めて、教会に入った時よりも冷たい印象がした。
ふぅ、と一息ついてから、一二三が口を開けた。
「ハンデ無し、一手二十秒の早指しで。先攻は貴方に譲りましょう。それでは――」
「参ります」「参る!」
彼女と彼女の声が、共鳴するように重なる。
こうして、天才同士の戦いが幕を上げた。