思考がまとまらない。
今朝からずっとこんな感じだった。今日は社会科見学があってテレビ関係のありがたい話なんかを聞いたはずなのだけれど、頭を抱えてもサッパリと思い出せない。竜司がいつもの調子でオラついていたというくらい。むしろいつでもあのスタンスを取れるのは、普通にすごい事なのかもしれないな……と今思った。
いや……今朝というよりかは、三日前からか。
勿論昨日一二三から言われた事は覚えて、肝に銘じているつもりだ。しかし何度も頭の中から取り払おうとしても、ウォーキングデッドの例えそのままにいつの間にか頭に居ついている状態だった。忘れたくても忘れられないって現象――なんて言うんだったっけな。
ともかく。
俺は屋根裏のベッドに深く沈み込んで、制服のまま寝転がっていた。当にルブランは開店していて、カチャカチャとコップや何やらが擦れる音が聞こえてくる。マスターが何か洗い物でもしているのだろうか。
モナはスイーツと杏殿に目がくらんで、遊園地に行ってしまったし。今頃ゲロ酔いマシーンに乗って、さぞ三半規管を揺すられているに違いない。
徐にスマホを開けて、今日何度目か分からない通知が来ていない事を確認する作業をする。
……女々しい。
もういっそ寝てしまおうか。寝れば少なくともこんなにジメジメ考える必要もないし。ナントカはマイナス思考の元、なんて箴言を一二三から言われたくらいだから――制服とセットは……ええい、もういいや。
ワックスが付いた髪を枕に押し付ける。すると、だんだんと思考が鈍化していくのが分かった。ひつじがい………っぴき。
「―――!? ……―…?」
なにやら下が騒がしい。おもむろに首を上げて耳に意識を集中させると、ギシギシと階段がなる音がした。
誰かが、上がってくる。それも、おっかなびっくりの忍び足で。
頭が見えた。なんとなく反射的に、頭を枕に打ち付ける。
……お。
オレンジ色だった……。
フタバ? フタバナンデ? 取り敢えず、寝たふりをして様子を見てみるか……。
「ね……寝て、る?」
早足でこちらに寄ってくるのが、気配で分かる。度重なる扉を隔てたコミュニケーションで培った、俺のスキル。
「ど、どうしよう。うーん……起こすのもなんだか、悪いし……な」
と言いながらも、足音で双葉が直ぐ近くにいる事を悟る。息遣いまで聞こえてきた。どうやら近いどころか、超至近距離にいるらしい。
鼻から、口から。空気が出て、時折漏れる音が、耳をゾワゾワさせた。
やべぇ……。
「ぐ……ぬぬ……」
顔に、細い何かが垂れる感触がある。これは――双葉の髪、だろうか。
てか今どんな状況なの今。
もしかして、顔を見られている……のか?
「……はぁ」
無駄に研ぎ澄まされた耳に、双葉の息がかかる。あったかい。……じゃなくて!
めちゃくちゃこう、ムズムズする。更に髪の感触も合わさって……もうムリ。
目を開ける。と、目の前に双葉の目があった。おおう、想像していたよりも近かったぜ。起き上がれば、普通に頭突きになってしまう距離感だ。
「……」
双葉が目を見開いたまま、固まる。これも、既視感のある光景だ。
「……」
やっぱり余りにもフリーズしている時間が長いから、前はどんな感じだっけあの後どうなったっけと思い出す余裕が出てくる。
散らばったUFO、ゴロゴロと転がった丸椅子、尻もちをついたマスター……いや、もっと前。
マスターに体当たりした前。扉がひとりでに開いた前。双葉がもの凄い形相で逃げて行った前。
あ――。
「ひ」
手を。
双葉のその、か細い手をしっかりと掴む。折れてしまうんじゃないかと思う程に。
いや、折れてしまうのは流石にマズいのでちょっとだけ力を緩める。
けれど今回ばっかりは――逃げられずに済んだ。
「ひぃいっ……ぐえほぁ」
叫ぶためのエネルギーが、叫びそびれたので暴発したのかせき込む双葉。すげぇ音出したな。
「お……ゴホッ……おひさ。ゲンキ、してた?」
距離感を計りかねているのか、微妙な軽いノリで挨拶を投げかけてくる双葉。手で掬われた涙が出た目に、大きな隈が出来ているのが見て取れた。
こうして俺と双葉は。
さしてそこまで久しぶりでもない再会を果たした。
「ごめんなさい」
頭を下げる双葉。突き出された頭髪からピョコっと飛び出た一房のアホ毛も、さも謝っているかのようにしなしなと垂れ下がった。自我を持っているだと……。
そんな冗談は置いておいて。
俺も直ぐカッとなってしまったのも、少なからず悪いと思っていた。いやむしろ、この三日間でどれほど後悔した事か。柄でもない事をすると、本当に痛い目にしか合わないな。
「いや……それは違う。ちゃんと怒っていたから、自分の間違いに気付いた。いや、悪い事だって事は分かっていたんだけれど――なんかこう、『ちゃんと』分かった的な? うーん……伝えづらし」
ちゃんと。本当の意味で自分がしていた事に気付いた、という事なのか?
「そそ、そんな感じ。表層的な事実じゃなくて内在する繋がりが解けた過程に従って敷衍せしめた真実を逆照射する事に成功した、うん」
なるほどわからん。
「と、とにかく。今は反省もしているし……後悔もしている。だからさ! その……いいよな?」
零れ落ちそうになった眼鏡を直しながら、もう一方の手で後ろから何か物体をチラチラと見せてくる。確かあれは……ああそうだ、
「じゃーん。盟約の~と~」
盟約ノート。双葉がひきこもりから完全脱却するために創作された、なにやら名前が物騒なノートだ。どうしてちょっとなんか、カッコよい感じの名前になったのかは忘れてしまった。
使い方は単純明快。そこに自分たちが決めた双葉にさせる盟約を書いて、それを彼女に交わして貰うといった物だ。ズバリ、この盟約ノートに書かれたものは、絶対。
「ええと、その①……人が大勢いる所に行く、だって!」
人が大勢いるところか……遊園地。
「遊園地! いんじゃね?」
いや、今行くと色々面倒な事になりそうだ。竜司や杏の誘いを断ったのにも関わらず、その遊園地に居る所を目撃、遭遇されてしまうと実に気まずい事になる。
「じゃあ……やっぱ、あそこだな!」
うんうん、と激しく三回頷いて、ドタドタと階段を下りて行った。早い。
俺も置いて行かれないように、鞄に財布があるかどうかをちゃんと確かめ、足早に階段へと向かう。
「遅くならねぇ内に、帰って来いよ」
カウンターの向こうから、マスターの声がする。口元の笑みを片手で押さえているけれど
、隠しきれていない。軽く会釈をして、入り口を目指す。
ドアノブに手を掛ける。ガラスの向こうからは、朱色のアホ毛が嬉しそうに、ピョコピョコと跳ねているように見えた。