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LINEアイコン右上にある、『427』という数字を見て俺はゲンナリとする。どうやらマスターが、この事件の全貌を語ったのだろう。確かに惨い事を計画しておきながら、宣戦布告をしないなんて公平さに欠ける。これで俺と双葉の立場は、丁度イーブンイーブン……どっちに転ぼうが恨みっこなしの状態となった。
相手の窮地に付け込んで仕掛けたのだから公平もクソもないだろうという進言は、この際は考えないものとする。
昨夜のマスターとの議論はかなりの時間を要した。正論を詭弁で退け、義憤を欺瞞で押しのけながらの撤退戦を余儀なくされていたのだけれど、あまりにも埒が明かなかったので、サウナ室で我慢比べという事になった。もちろん勝った。もちろんそれを提案したのも、言うまでもなく俺だ。スチームサウナでタコのように赤くなるマスターを見て、罪悪感と後悔が尋常じゃなかったけれど、しかしこれは大いなる野望と、深淵なる目的のため。マスターには申し訳ないけれど、犠牲になってもらう。
さて。
こうして俺は、通知の鳴りやまないスマホをポケットに入れて、佐倉宅の前に来ていた。
玄関扉をやや強めに開ける。これで双葉は俺の侵入に気付いたのだろう、スマホのバイブレーションがピタリと止んだ。……あまりにもの通知に、スマホの充電が切れただけかもしれない。
ともかく、扉を閉め靴を脱ぎ、階段をのそのそと上がる。そして見えた『PRIVATE/DO NOT ENTER』の文字。俺と双葉を隔てている、薄くも分厚い、鉄壁の扉。
それを俺は、今改めて、こじ開けようとしている。
「やぁ……待ちかねたよ。いつもワタシを、待たせてくれるな……」
どこかで、そしていつか聞いたような口調が、扉の向こうから流れてくる。その声は心なしか、怒りで震えているようだった。
「しかしよくワタシのLINEを開かなかったな。もし開いてたら、そのスマホ、ウイルスで使いもんにならなくしてたのに」
……マジか。なんてもの送り付けてたんだコイツ。
「まあ、それはいい。風呂だ。……ワタシが業者に電話すらできないコミュ障をいいことに、至福の時間のお風呂タイムを一日に飽き足らず、二日もお預けにする。なんてやつ! 極悪非道、衆悪千万。くっころ……ぐぬぬ」
そう言って、歯ぎしりをして……いそうな様子の双葉。相変わらずどんな表情をしているかは分からないけれど、なんとなくというか、どんな気持ちでいるのかが分かるようになった。それと、双葉は実はとても感情が豊かな子であるという事も……次第に、理解していった。
「理由は多分、分かる。あれは、その、ごめ……ん。あんなに高いとは思わなかった。そうじろーから貰った分だけで、足りるとか思ってた。……全然ダメだったというのは、貰った後で知った」
けれど、喜んだ時、楽しそうな時に見せる表情は、出会って一ヶ月経った今でも分からない。実際の双葉は、あの日UFOを食べた時で更新は止まっているのだ。扉越しで話しているのは、LINEで文章を送信しているのとなんら変わらない。ただ、無機質な情報のやり取りに肉声があてがわれただけなのだ。
「だ……だから、待ってほしい。ちょっと……そうだな、二か月後、くらい。それなら、お小遣いが溜まる」
それを取っ払ってみたいなんて、声付きLINEに終止符を打ちたいなんて思うのは、双葉の気持ちなんて碌に考えない、俺の単なるエゴだろうか? 降って湧いてきたような切っ掛けにかこつけて、俺と双葉を切り取る扉を無くしたいなんて考えるのは、一人じゃなんにもできない俺の、俺自身に対する言い訳だろうか。
なんて。
そんな詩的で自意識過剰な事を考える程、俺はそこまで賢くはない。もっと感情的で、論理に訴えない、間抜けに思われるようなやつ。
「お金は、払わなくていい……だと? じゃあ……なんで?」
双葉と会って、話したい。
何一つ、初めから変わっていない……それが俺の、この計画を実行した理由。
それ以上もそれ以下もない。
「……?」
スーハ―、スーハ―。
俺はどうやら、アドリブに弱い。
それは東郷の時に改めて感じた、俺の弱点のようだった。いきなり気の利いたことなんて思いつかない。当意即妙なんて言葉すら最近知ったほどに教養もないのだから、それは当たり前だ。
しかし逆に、ちゃんと何を言うかを準備して、しっかりと深呼吸したのならば、俺にも勝機はある……はずだ。モルガナに「大丈夫かよ……」なんて割と普通に心配されたけれど、あれほど練習したのだから、失敗しないはずがない。考えに考え抜いた台詞を諳んじて、それを咀嚼するようにうんうんと頷く。大丈夫、大丈夫……。
察しの良い人はもちろん、悪い人でも何を言うかぐらいは分かるかもしれない。けれど、それは俺が思いついた、多分一番無難な言葉。
何気なく、すっかり打ち解けた、友達同士のようなノリで。
よし。
3、2、1……。
「双葉、一緒に銭湯行こう」
「……」
「……」
「……」
「……?」
「……」
「……双葉?」
「……どこの、戦場?」
「いや、銭湯。戦闘じゃなくて、銭湯」
そんな軽いノリでドンパチしようと誘う奴があるか。
「いや、どどど、どうして、そうなる。脈略がない。前後の、繋がりに、欠ける」
……そうか?
とりあえず俺は、風呂に入れないのだから、銭湯に行ったらいいじゃないと、マリー・アントワネット論法で説明する。……なんだかマジックのネタバラシをしているようでちょっと、具合が悪い。
「だとしてもだ! 一緒に銭湯入るって、お……おかしい? 超展開すぎない!?」
「普通だ」
「普通なの!? そ……そうなんだ。ノーマル、なんだ……」
……多分。
「ちょ、ちょっと、セーブさせて」
「無理だ」
「ぐぬぬ……じゃあ、考えさせて、ほしい。一世一代。頑張る」
どう一世一代で、何を頑張るのかは判然としなかったけれど、双葉はそう言って黙り込んだ。心なしか、ドタドタと何かをしているような音が、扉から聞こえてくる気がする。
もう、後戻りはできない。
俺は、変化が欲しいと望んだ。……だから、どっちに転んでも、後悔はしないようにしよう……と、心に決めている。もしその結果関係が悪化したとしても、拒まれてしまっても……誰にも文句は言えないのだ。むしろ、勝算はきっと小さいのだろう。
……。
けれどやっぱり、ちょっと緊張しないでもない。
いや、めちゃめちゃしている。なんなら今は去った高校の受験の時よりも緊張しているかもしれない。呼吸が浅い。待ち遠しい。
「フ、フタバは……ケツイが、ミナギった」
と。
天井を見上げて、勝算を計算し結果E判定だという事に絶望しかけていると、突然
双葉が、目の前にいた。
あの日と同じ、ギークな服を着ていた。
恥ずかしそうな表情を、初めて見た。
髪は相変わらず、鮮やかなオレンジ色をしていた。
扉はもうとっくに、開いていた。
「シ、シクヨロな、トモダチィ」
こうして、俺は佐倉双葉と出会った。