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俺の住んでいる屋根裏部屋はもちろん、ルブランには体を洗う場所がない。かと言って汚い体でパレスに入り、仲間はおろかモンスターにまでも顰蹙をかう訳にはいかないので、近くの銭湯に通わざるを得ない。こうして四茶にある『富士の湯』は俺の行きつけの銭湯になっており、例に漏れず今日も今日とてそこに通っていた。
一回500円。
なんだワンコインじゃんラッキーといっても、これが毎日の出費となれば一介の高校生である俺にとっては馬鹿にできない。しかも、最近とある理由で模倣銃を四人分揃えたり、薬局にある絆創膏を買い占めないといけないようになったので尚更だ。最近温めに温めていた鴨志田の6000円も吹っ飛んでしまったし……。
ともかく。
微妙に立て付けの悪い扉を開けて、脱衣所で支度をしていると、なにやら浴槽から良い香りが漂ってきて……そうか、今日は木曜日だったっけ。
ドアを開ける。眼前に広がるのは、素朴でありかつ趣を感じる富士山の絵と――、
「よぉ。入ってんぜ」
……頭をワシャワシャと泡立てている、佐倉惣治郎……マスターだった。
「あんがとよ。男に背中を磨かれるのはめったにない体験だな。また頼むわ」
男には、ねぇ。
ちょっと、いやかなり気になる発言をした惣治郎さんの背中をゴシゴシとなぞる。やっぱり、モテそうだもんなこの人……。
「おいおい、まだ惣治郎『さん』って言ってんのか。別に惣治郎で良いからな。あとはまあ、マスターとかな。さん付けされるとなんか、ここら辺がかゆくなるわ」
心の中とか、店番をしている時はマスターと呼ばせてもらっているけれど、一応そうでない時は『さん』付けしていたのだけれど。マスターはそれが嫌だったらしい。首筋に爪を立て痒そうにそこをひっかく仕草をしている。
……ん?
『ここら辺』という話題に、何かデジャヴめいたものを一瞬感じる。あれは……そうだ、双葉だ。なるほど、いーっとなるのはそこだったのな。
「けどまあ、従順なもんだねぇ。人殴ったって聞いたときは、どんなならず者が来んだと思ったのによ。なんだか、拍子抜けしちまった」
ヒドい事を言う。
それはさておいて。
マスターの俺に対する物腰は、日を追うごとに柔らかくなっていった。どうやら双葉から俺が時々来ている事は知らされているみたいで、会った日の翌日は、気持ち、話しかけてくれる回数が多いように感じた。
とにかく、マスターは俺への警戒を、ある程度は解いてくれたらしい。最初双葉の存在を教えてくれなかったのも、そういうことだったのだろう。
「本当にお前さんが、ねぇ……」
「……」
「……別にいいけどよ。それより、双葉と話してくれてありがとな。秘策、役に立っただろ?」
悪い笑みを浮かべるマスター。俺もそれに応じたいところだけれど、如何せん完全に成功したわけではなかったので、微妙な笑みになる。
秘策。
それは俺が実行した、うみゃあ棒(お徳用)によって双葉の心を動かそうという無謀も甚だしい奇策であり愚策……と当時の俺はそう思っていたのだけれど、今思えば、俺より何十倍も双葉の事を考えてきたはずであるマスターが考えたものが、成功しないはずなかったのだ。……その結果が『食べ物で落とす』であったというのが、なんとも締まらない話ではあるけれど。
「……嬉しそうだったよ、あいつ」
ふむ。
好物のうみゃあ棒をあんなにたくさん食べれたのなら、さぞかし幸せだったに違いないだろう。
「違ぇよ。……まあいいか。野暮に口出しすんのは好きじゃねぇ」
と言って、マスターは屈託のない笑いを俺に見せる。いつものどこか含みのあるような笑顔とは、まるっきり正反対に感じる。
それは、俺にとっては始めて見た、マスターの心からの笑顔のように思えた。楽しんでいるような、喜んでいるような……それはきっと、双葉の事だからこそなのだろうと、疑いもなく腑に落ちる。
そういえば、マスターはどうして富士の湯にいるのだろう。まさかこんな事を言うだけの為に来たんじゃあるまい。佐倉家にはちゃんと浴室があるはずだし……、ここで見かけるのも初めてなのだ。偶には来るのだろうか。今日は薬湯だし、あり得ない話じゃない。
「あぁ、それには理由があってな。けどその前に……体流させてくれ」
ゆっくりとマスターはこちらを振り向いて、左手で自分の背中を指した。
「どんだけ背中洗うつもりだよ。皮まで剥がすつもりかよ」
今日お湯を貯めていると、浴槽から水が漏れていたという事を、湯につかりながら惣治郎さんは教えてくれる。
「まあ、偶には良いもんだな。薬湯が老骨には染みるよ」
今日は遅いから業者に頼めないとかで、明日運んで貰うらしい。
じゃあ双葉は来ているのかと、ふと思う。
「双葉、今日はお留守番するんだってよ」
……頑なに出ようとしないのな。予想を悪い意味で裏切らない。
しかしそれは流石に、ちょっと不潔だな……。一応毎日体くらいは水で流しているんだろう。いくら引きこもりだからと言っても、まさかシャワーも浴びないという訳にもいかないだろうし。
「おうよ。夜遅くに水の流れる音がしてるからな。一応気にはなるらしい」
ふむ。
じゃあ今日だけは我慢するということか。一日くらいは大丈夫だろうと判断したのだろう。なんたる引きこもり精神。
……。
待てよ……?
モワンとした、少しキツめの体臭を振りまくオーラを纏いながらアニメを見ている双葉を想像していると、唐突に未払いDVDの事を思い出した。6000円。仕返し。前倒し。
思考が、こんな時に限って凄まじく速いスピードで進む。頭の中にある情報をかき集め、吟味し、再確認し、判断。……なんて大仰な事をやっている訳じゃないのだけれど。
悪さをするときは勢いが大事なのだ……と、どこかの誰かが言っていたような気がするし。
マスターに向き直る。湯の熱で少しふわふわとした気持ちになっているけれど、そこはちょっと抑えて、髪の毛一本分冷静に。
「そのお風呂の着工、もう少し待ってもらえませんか?」