臼井君が晴香部長に恋心を抱く話   作:shin1

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1期10話後半らへんです。

遠くの方から聞こえるトランペットの音が、
誰の音なのかは皆さんのご想像通りです。



臼井君が晴香部長に恋心を抱く話6

 小笠原は静かに椅子へと腰かけた。両手に大事そうに握られているバリトンサックス。ベル付近の管体には手彫りの彫刻が施されている。臼井はおずおずと小笠原に話しかける。沈黙が耐えられない。

「あの・・・、ごめんね。純子も思う所があるんだよきっと、ね?」

「ねぇ、臼井君はどう思う?」

 小笠原の視点は、腰かけた椅子の少し先に整然と並べられた机の脚に向けられている。喜怒哀楽のどれにも当てはまらない、全くの無表情で臼井に質問を投げかけた。

「え、えっと・・・、うん。正直、純子の言ってる事も分からなくもないかなぁ。なんかね、高坂さんの音って周りからちょっと浮いてる気がしてて…。上手過ぎるからなのかな。ははは」

 痛い程重々しい空気を少しでも軽くしようと、カラ笑いを含めながら答える。

「あ、でも、高坂さんは間違いなく上手だから、滝先生が贔屓したとは僕も思わないかな。滝先生は、本気で全国大会目指してるよ。だから、3年生を優先しなかったのかなって」

「そう・・・」

「なんて言うか、中世古さんに同情する人の言い分も高坂さんを擁護する人の言い分も分かるっていうか・・・。なんかどっちつかずだよね。ごめんね。ははは・・・は・・・」

 臼井は相変わらずカラ笑いを浮かべたままだ。こんなに一生懸命空気を軽くしようとしているというのに、一向にその兆しが無い。

「私さ、この前葵が退部した時に部活休んじゃったでしょ?」

「えっ・・?」

 思わず声が出た。臼井は小笠原の横顔を見る。肩を流れる栗色の髪の隙間から、彼女のほっそりとした白い首筋がのぞく。虫にでも刺されたのだろうか。滑らかなその表面に、ぷっくりと膨らむ赤い痕。表情は相変わらず無のままだ。

「あの時、体調不良って事で休んだんだけど、本当は葵の退部を止められなかったのがショックで休んじゃったの」

 小笠原は訥々と話し始めた。臼井は、放たれる言葉を僅かでも聞き洩らさないように細心の注意を払いながら耳を傾ける。

「あすかが部長なら、葵は辞めなかったのにって。私は、部長を務められるような有能な人間じゃないんだって、ふさぎ込んでた」

 正確なリズムで淡々と紡ぎ出される言葉。まるでエチュードのようなそのフレーズは、しかし臼井の心を掴んで離さない。

「でもその日、香織がうちにお見舞いに来てくれて。その時香織は、私には勇気があるって言ってくれたんだ。部内の人間関係がボロボロになってたあの頃の部活で、晴香が部長を引き受けてくれたから今の部活があるんだって。少なくとも、上級生はみんな分かってるって、言ってくれた。だから、葵ともちゃんと話して、気持ち切り替えて、部活に戻れた。だから、あすかや香織に頼りっきりにならないように頑張ろうって思った。でも、今部活がこんな事になって・・・。私、何も変わってない。あすかや香織が居ないと何にもできない。やっぱり私ダメなのかな・・・」

 無表情のままの瞳は、ごく僅かに潤んでいるように見えた。独白の終わった空間には、やはり沈黙。臼井はおもむろに口を開き、その沈黙を強引に引き裂いた。

「で、でもさ!誰かに頼る事って、悪い事じゃないと思う!」

 やや下に向けられていた小笠原の顔が、少し上がり臼井の顔を覗いた。

「僕だって、純子やヒロネや、クラパの皆が居ないと何もできない。ナックル君や千円君が居ないと部活続けられてないと思う」

 脳内での言葉の整理がままならないまま、ただ感情によって口から言葉が放たれ、緩い放物線を描き教室内に飲み込まれていく。

「純子も言ったけど、吹奏楽って一人じゃできないじゃない?それは演奏だけじゃなくて部活運営もきっとそうだよ。田中さんも中世古さんも、確かに何でも出来るし楽器も上手だし凄いなって思うけど、きっと2人も晴香部長が居ないとダメな事あると思う。だから、晴香部長はダメじゃないよ!」

 小笠原はじっと臼井の目を見つめている。その瞳にはキラキラと輝く水の膜が張られている。

「中世古さんの言う通り、去年晴香部長がこの部活を引き受けてくれたから、今僕たちはこうして吹奏楽やれてると思う。だから、少なくとも上級生はきっと、最後にはみんな晴香部長に付いて行くよ!」

 ごちゃごちゃとした感情の塊を、臼井は無理矢理言葉に変換して何とか紡ぎきった。

「ありがとう・・・」

 小笠原の声は震えていた。

「私、頑張ってみる」

 そしてすぐ、元気にそう言った。穏やかで、しかし芯のある声に、臼井は安堵の表情を浮かべた。不器用な言葉の羅列でも、なんとか小笠原にこの感情は届いたようだ。

「取り敢えず、練習しよ。純子居ないけど、合わせられる所を今のうちにやっとこうよ」

 臼井は譜面台に置いたファイルをめくり、課題曲がファイリングされている箇所を開いた。あちこちになされた書き込みは、去年の比ではないほどびっしり書かれている。

「そうだね!まずは演奏をちゃんとしないと」

 小笠原はハキハキと返答しながら譜面をめくる。角のない穏やかな筆跡で書かれた書き込みが、楽譜の上に所狭しと並べられていた。

 

・・・

 

「あ、もうこんな時間だ。臼井君ゴメン、これからちょっとあすかと話しないとだから抜けるね」

 小笠原は教室の時計に目を向け、申し訳なさそうにそう言った。

「あ、そうなんだね。・・・ソロの件?」

「あ、ううん、今度のホール練の事でちょっとね」

「そうなんだ。大丈夫だよ。じゃあまた合奏でね」

 臼井はいつもと変わらない挨拶を小笠原に差し出した。

「臼井君、さっきはありがとう」

「いや・・・、なんか纏まんない言い方しちゃってごめんね。とにかく、無理しないで」

「ありがとう。やれる所までやってみるよ」

 小笠原はそう言い残し、バリトンサックスを持ち、畳んだ譜面台と楽譜を片手に教室を出た。合奏まではもう少し時間がある。臼井は改めて課題曲の譜面に目を通す。ここだけ少しやっておこうかな。3の厚さのリードが、銀色に光るリガチャによってマウスピースに固定されている。

「いた!ちょっと臼井聞いてよ~!」

 突然教室のドアが開き。同時に眉を吊り上げながらクラパートの3年生部員が教室内に入って来た。彼女は先程まで小笠原の座っていた椅子に腰かけ、滝や麗奈への不満を上げ連ねる。臼井は、苦笑いを浮かべながら彼女の言葉に耳を傾ける。男子部員にとって、内容の如何を問わず女子部員の愚痴を聞くというのは、極めて重要な役割なのだ。

 遠くの方から微かに、自由曲のトランペットソロのフレーズが聞こえてきた。外から聞こえてくるので、麗奈が外で練習しているのだろうか。その音色は伸びやかで、鮮やかで、こんなにも僅かな音量しかこの教室には届いていないというのに、ソロに相応しい音色だと思わせるだけのものであった。愚痴を言い続ける3年生部員の耳にも、この音色が届いているはずではあったが、反応を示す事はなかった。


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