ヤマもオチもない日常の1コマ。ヒカルがちょっとだけアタフタする程度です。
それでも宜しければどうぞお付き合い下さい。
ピピピ……
いつもの朝。アラームが鳴る。
あかりは朝ご飯を作るためにまだ眠い身体を無理やり起こして顔を洗いに行く。
冬になろうとする11月。冷たい水が針のように刺さり、痛い。
それでも目が覚めるのは有り難い。
寒い日はいつまでも布団に入ってヌクヌクと温まっていたい。
けれど、お腹も空いてくるから何か食べたい。
ヒカルの今日の予定は和谷君家に午後から顔出し。きっと起きてくるのはもう少し遅くなるわね。
けれど、たまに不意に早く起きてくることもあるから少し早いけど3人分作ってしまおうと思う。
冷蔵庫を開けて、卵と野菜、ソーセージを取り出す。
元々私はパン派だったけど、ヒカルがご飯派だったので、いつの間にかご飯派に変わってしまった。
ご飯も味噌汁も前日に少し多めに作っておけば翌朝は温めるだけ。別の野菜を少し足せば「昨日の残りぃ?」なんて悪態をつかれなくて済む。
フライパンで玉子焼と野菜炒めを作る。
最初こそ慣れない料理に苦戦したけど、さすがに1日3食を作り続ければ何とかなる。
子供が産まれてからは本当に時間との戦いだったから、料理も効率的に作れるようになってきた。
秀輝も少し手が離れたので、時間に少しだけ余裕ができて、自分の時間も取れるようになってきた。
タイトル戦などが近づくとさすがにヒカルも緊張するのかピリピリした雰囲気が私にまで伝わってくる。
そんな時に決まってヒカルが言う。
「あかり、オレと打たねぇか……? お前と打てばこのピリピリとした感情が落ち着きそうだ」
最近は、秀輝とも良く打ってるから私と打ってくれる時間は本当に少なくなった。それでも、一番緊張がピークになるのか前日の夜は私と打ちたがる。
ヒカルの心の重荷を少しでも軽くできてるのかな、と私にとっては小さな、だけど大事な幸せな時間。
「はよー」
ヒカルが寝室から戸を開けて起きてきた。
「おはよう。ちょうどご飯できたところよ。一緒に食べる?」
「おぅ。……秀輝は?」
「まだ寝てる」
「そっか」
まだ眠いのか目をこするヒカル。
足が洗面所に向かったので、先に顔を洗いに行くようだ。
あかりはヒカルと一緒に食べようと2人分の食器とコップをテーブルに並べる。
「良い匂いだな」
戻ってきたヒカルが席に着きながら言うと、あかりは少し照れる。
男の人は全然褒めない。
ヒカルも例外じゃない。文句9割・賞賛1割。
だから、褒めてくれたときは本当に貴重。
まだ匂いしか褒められてないけど…。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせて挨拶。
箸を手に取って食べ始める。
ヒカルの右手側には扇子が置いてある。
現代なら当然スマホだと思うが、ヒカルはいつも不携帯。家に置きっぱなしも日常茶飯事。
お陰で色々連絡が取りたくてもなかなかリアルタイムで連絡を取るのが難しい。
だから、最も早い連絡手段はヒカルのスケジュール把握。どこにいるかが分かればだいたい一緒にいる人間も分かる。
数人の連絡先を私も交換してるので、ヒカルに掛けるより悲しいかな、早かったりする。
棋院もそれを分かっているのか、ヒカルよりも私のスマホに掛けてくる。
きっと今もスマホは寝室のままなのだろう。
「ヒカル、その扇子。大事に持ってるよね」
「うん。これは大事なものだからな」
あかりが扇子の話題を振るとヒカルは扇子に視線を移す。
扇子を触る手は優しく、だけど力強さを感じる。
「これは、あいつへの決意だから」
「あいつ?」
決意は、きっと囲碁関係だろう。
7冠を達成したり、倒れるまで頑張る姿を見てれば分かる。
そんなヒカル自身を支えていきたいと思ったから。
「うん、あいつ」
苦笑いで誤魔化そうとするヒカル。あかりはピンと来た。
「親友さんね! 咲似ちゃんが言ってた……」
「あ、うん…」
ビンゴって顔に書いてある。ヒカルの顔が少し赤くなった。
「そっか。その親友さんが居なくなったから親友さんの分まで頑張ろうと決めたんだね」
「……」
「そんな困った顔しなくて良いよ。私はいつでもヒカルの味方なんだから」
ヒカルは言い当てられて恥ずかしそうな顔をする。
あかりはそれをみて優しく微笑んだ。
あかりにとってヒカルは、何も知らされなかった頃より、少しだけ分かる今の方が愛おしく感じる。
小学生の時からヒカルの事を好きだったから、囲碁にのめり込んでいくヒカルを見て、囲碁に没頭する時期もあったし、嫉妬してた時期もあった。
けれど、今の話を聞けば家族同然の親友がいなくなれば当然の行動か。
その親友さんに嫉妬しちゃうけど、きっとヒカルの親友さんは単なる友情とか家族とかでは語れない関係なんだろう。
ヒカルの人生を変えた人なのだから。
私は、そんなヒカルを見続けてとても危なっかしく思っていた。
ヒカルがその人の後を追わなくて本当に良かった。
その親友さんもヒカルの事を大事に思ってたのね。だから、この扇子を渡したのかな?
私の後を追わないで。私の夢を追って、って。
「その親友さんに感謝だわ」
「え? なんで?」
ヒカルはキョトンとした顔になる。
あかりは笑って答えた。
「今、こうしていられるのはその人のお陰な気がするから」
「佐為のお陰?」
「そう、咲似ちゃんのお陰。だって、ヒカルが笑うのも泣くのもきっとその親友さん絡みでしょ? 今、院生師範をやってるヒカルは心から生き生きとしてるのが分かる。悔しいけど、私には出来ない。だけど、そんなヒカルを支えていけるのは私だけだと思ってるよ!」
「な……何を朝から恥ずかしい台詞言ってんだよ」
ヒカルは顔を真っ赤にして照れる。味噌汁を口に運び具をかけ込む。
そんなヒカルをあかりは見つめた。
「照れなくて良いのに」
「て、照れてねぇ!」
フフフとあかりが笑うと、ヒカルはあかりから少し視線を外して食事に集中する。
「ごちそうさん」
ヒカルは恥ずかしさに耐えれなかったのか残りの食事を急いで食べ終えると扇子を持って碁盤のある自室に入って行ってしまった。
「はいはい。昼ご飯が出来たら呼ぶね」
「おう!」
声だけは聞こえてたみたい。ドア越しに返事が聞こえた。
あかりはまたフフッと笑う。
何も知らなかった少し前より今の方がヒカルが傍にいる気がする。
ヒカルの気持ちが分かってきたからかな?
「味は褒めて貰えなかったな……」
褒めて貰えなかった事に少し寂しさを感じつつも、ヒカルが少しずつ自分のことを話してくれる事が増えたのは素直に嬉しい。
ーーまた話してくれるかな…
あかりは食べ終えた食器を片付けながら小さな幸せを噛みしめた。