時間が来て、戻ってきたアキラ。
目を覚ますと、母・明子と妻・久美子が笑顔で出迎える。
「アキラさん、お帰りなさい」
「ただいま」
明子の挨拶にアキラは答える。
「お父さん、何か言ってたかしら」
すぐに泣きそうな顔に変わる明子が質問する。
一番に聞きたい言葉。
「『愛してる』って」
「……そう。ありがとう、アキラさん。最期の言葉をちゃんと聞けて、嬉しいわ」
遂に涙が頬を伝う。それでもこの涙はきっと嬉し涙だろうと思うアキラだった。
あの日ーー行洋が亡くなる日。
進藤が来たのを確認して自分が戻ると、久美子が青い顔をしながら行洋の危篤を知らせに来た。
急いで病院に駆けつけると、そこには母・明子が憔悴した状態だった。
聞けば、最近の行洋は特に寝ていることが多くなり、起きてこれば元気なものの、近くに居ながら遠くにいるような何とも言えない感覚に襲われていたらしい。
アキラがアプリで神様の世界に行けばいつも行洋がいたから、明子の言うことには直ぐにピンと来るものがあった。
佐為から死期が近いことも聞いていたから、アキラ自身は覚悟が出来ていた。
しかし、行洋は明子には何も告げていなかったのだろう……。
いよいよ、病院スタッフから呼ばれて病室に入ると幾つもの管に繋がれた行洋が見える。
心拍計が弱々しくピ…ピ…と音を立てる。
行洋の顔が明子に向くと、明子はベッド横に走り寄る。
「明……子……」
意識が戻ってきた行洋は明子を呼ぶ。
「何ですか? 私はここにいますよ」
固く手を握り締め、顔を行洋に近付ける。
「あぃ……」
何か伝えようとしたが、力尽きる行洋。
人工呼吸器が声を曇らせて、聞き取れなかった明子はその場で泣き崩れたのだった。
悲しみにくれる暇もなく、葬式の手配やら棋院への連絡やらで目まぐるしく過ぎていく。
喪主となった明子は通夜・葬式は気丈に振る舞うのであった。
一段落着いた実家の一室、仏壇に飾った行洋の写真を見て、明子はアキラに気付いて居ないのか、
「あなた……最期に何て言ったの? 何を伝えたかったの?」
と涙を流して話しかけていた。
アキラはその姿にいたたまれなくなる。
「今から聞いてくるよ」
アプリについては明子や久美子には内緒だが、あまりに辛そうな明子にアキラはそう言ってスマホを取り出す。
「アキラさん?!」
明子は驚いて振り返る。
スマホの【sai】アプリを起動して意識が飛ぶ。
「アキラさん!」
混乱する明子。オロオロとする明子に、
「お義母さん?」
久美子がタイミング良く顔を覗かせる。
「大丈夫ですよ」
アプリの起動中画面を確認して久美子は明子を落ち着かせる。
いつもは寝室で起動させるアプリをこんな所で使うアキラに少し疑問を持って明子に話を聞く。
「……そうだったんですね。じゃあ、あのアプリはお義父さんにも会えるものなんですね」
久美子は笑うと、明子も落ち着きを取り戻していく。
「安心して下さい。3時間程で戻ってきますから」
と、どっしりと構えた久美子の言葉に明子は安心感を覚える。
3時間後、本当に目を覚ましたアキラを見て明子はホッとする。
と同時に気になっていた行洋の最期の言葉を質問すると、『愛してる』と返されたその一言に今まで行洋と歩いた人生が次々と思い出されて幸せの涙が溢れるのだった。
「棋院に行ってくるよ」
アキラは電話連絡しか入れていなかった棋院にも報告しようと立ち上がる。
「行ってらっしゃい」
と久美子が笑顔で見送る。
理解のある久美子をアキラは有り難く思いながら棋院に向かうのだった。
棋院に着いて事務所の階にエレベーターが止まるとヒカルの声が聞こえた。
「進藤?」
遠くからでも響く声。何やら揉めているのだろうか? と心配で早足で事務所に入る。
「だから何でダメ何だよ!」
「進藤君、君一度倒れてるじゃないか! これ以上無理したら体に障るだろう!」
「無理しないからやらせてよ」
「だからやること自体、無理をするんだって」
ヒカルと事務員のやりとり。
「どうしたんですか?」
アキラは横で心配そうに見守っていた別の事務員に話しかける。
「進藤君が院生師範をやりたいって言い出して……」
「院生師範?」
「4~5年前に一度過労で倒れてるから棋院としてはやらせたくないみたいなんだけど…」
事務員はハァとため息をつきながら2人のやり取りを見守っている。
「なぜ進藤は院生師範をやろうと?」
アキラは進藤の真意を読み取ろうとするも
「さぁ。いきなり来て『院生師範やらせろ』って言い出して、あれだから」
との事務員にアキラも言葉を失う。
「そうですか……。ありがとうございます」
取りあえずお礼を言って、行洋の死で棋院にも迷惑を掛けたため謝罪と報告を済ませる。
終わった後もまだヒカルと事務員のやり取りは続いていた。
アキラはハァと大きくため息を付いて、ヒカルに近寄る。
「進藤!」
「! 塔矢…」
ヒカルがアキラの声に気付き、横を向く。
「院生師範になりたいんだって?」
「そう。でも許してくれなくて!」
アキラはヒカルに内容を再確認する。ほっぺを膨らませてへの字に口を尖らせ怒りを表現するヒカル。
「君は何故院生師範になりたいんだ?」
「……碁を、繋げたいんだ。塔矢先生みたいに」
「お父さんみたいに? お父さんは院生には何もしてなかったよ」
「塔矢先生は自分の碁を、お前や緒方先生に託したって言ったんだ。だから俺も……佐為の碁を色んな人に繋げたいって想ったんだ」
ーーお父さんがそんなことを進藤に…
アキラは暫し思いを巡らす。
「本人がやりたいと言っているんだ。やらせましょう」
後ろから緒方が歩きながらやってきた。
「緒方先生?!」
事務員は驚いて
「でも一度倒れてるのでこれ以上負担を掛けるのは…」
「5冠を3冠くらいに引きずり下ろしてやれば出来るだろう」
反論しようとする事務員に、緒方が畳み掛ける。
アキラを見ながら言った『引きずり下ろす』の言葉にアキラは苦笑いするしかなかった。
自分のやりたい事をやらせてくれようとする緒方に一瞬顔が明るくなったヒカルだったが、引きずり下ろすと言われてすぐにムッとする。
「体調が優れないようなら直ぐに辞めさせれば良いですよ。こいつがやると言った以上やるまで引き下がりませんし、私がこいつの面倒を見ます。少しで良いのでやらせて貰えませんか?」
緒方が事務員に優しい言葉で再度お願いする。
「……分かりました。篠田先生と話して、月1くらいなら何とか」
「本当? やったぁ!! ……イテッ」
「ありがとうございます」
緒方が礼儀のなってないヒカルの頭をコツッと殴り、事務員に向かって礼を言う。
「進藤、出るぞ」
と緒方はヒカルを事務所から連れ出す。
事務員達はこの騒動がやっと終わったのを安堵しつつも、またヒカルがやらかしてくれたと溜め息を大きく付くのだった。