そのままの君が好き。   作:花道

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♯4 甘いね。

 

 

 

 比企谷八幡の記憶に残っている雪ノ下陽乃は言葉通りの完璧な存在だった。

 容姿、才能、作法、家柄、作り上げたそれら全てが同年、先達、後輩の誰よりも優れていて、飛び抜けていた。

 

 彼女がなにか言えば全員が頷いた。

 彼女が歩けば誰もが視線を奪われた。

 彼女がなにかを行えば全てが正しくなった。

 

 だから、陽乃が家を棄てたと雪ノ下雪乃から聞いた時は驚いた。

 そして同時に、「もう二度と逢えないんだな」と思っていた。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 まだ陽乃の涙は止まらない。

 比企谷は優しく陽乃の頭に手を置いて抱きしめながら撫でた。

 抱きしめた陽乃の身体は比企谷の思っている以上に華奢で、簡単に折れてしまうのではないか、と思わせるほどに細い。

 女の子特有の柔らかさはあるが、それ以上に細いという印象が強かった。

 

「ごめん、比企谷君」

 

 陽乃はまた謝罪を続ける。

 比企谷は変わらず抱きしめる。

 抱きしめながら、比企谷は陽乃に言葉をかける。

 

「違いますよ陽乃さん」

「え?」

「こういう時は謝るんじゃないです」

 

 謝る以外には、なにも解らないという表情をする陽乃に比企谷は肩に両手を当てて正面を見る。

 陽乃の顔を見つめたまま、比企谷は言葉を続ける。

 

 

「ありがとうで良いんですよ」

 

 

 そう。ただ、その一言で、それだけの言葉でいい。

 それだけの言葉で人は嬉しくなるものだ。

 そう聞いて、陽乃は比企谷の手を掴む。

 両手でしっかりもその手を握る。

 男らしいゴツゴツした手。そのくせに指先は女の子のように細く長い。

 

「……」

 

 もう仮面はない。

 もうプライドは剥がれ落ちた。

 自尊心は砕けた。

 残っているのは本当の雪ノ下陽乃だけ。

 今までの上部だけのありがとうじゃない。

 今の陽乃なら、本当に心の底からのありがとうが言えるはずだ。

 

 

「……ありがとう……比企谷君」

 

 

 今度は陽乃の方から比企谷に抱きついた。

 力の限り、強く抱きしめた。

 もう陽乃の眼に涙はなかった。

 優しく微笑んだ陽乃がいる。

 人肌が恋しかった。

 誰かと話したかった。

 暖かい食事を誰かと食べたかった。

 手を繋いで、普通に、普通の女の子として生きていきたかった。

 好き好んであの家に産まれたわけじゃない。

 あの生き方しか選択肢がなかった。

 他の生き方なんて選べなかった。

 抑え込んでいた感情がどんどん溢れてくる。

 家を出てから数ヶ月。

 なにをしても上手くいかなかった。

 雪ノ下と言う名の武器を棄てて初めて実感した。

 外に出ればこんな名前なんの意味もないことを。

 騙されたこともあった。

 街を出て行けばチャンスがあると思っていた。

 でも、この街を離れたくなかった。

 親しい後輩はいても、本当の友達はいなかった。それでも生まれ育った故郷を離れたくなかった。

 棄てるのは簡単なはずなのに、それができなかった。

 この街を棄てればもう二度と逢えないと思ったから。

 もし、あの時この街を棄てていれば今、こんな状況にはなっていなかった。

 

 

 解っている。

 今、抱いてはいけない想いが心にあることも。

 いつもどこかで抑え込んでいた。

 彼には妹の雪乃やその友達の由比ヶ浜結衣がいる。

 だから、陽乃の抱いていた想いは間違っているのだと。

 だから、棄てるべきなんだと。

 何度も言い聞かせたのに。

 

 

 溢れた想いが再び、彼を好きだと再認識させる。

 

 

 比企谷の顔を見つめる。

 その後の行動を予測したのか、比企谷は陽乃の肩を掴んで、離した。

 

「駄目です。陽乃さん」

 

 比企谷は目線を背ける。

 

「それはそんな簡単にしていいことじゃないです」

 

 解っていた。

 比企谷はノリに流されない。

 今の陽乃でもそんなこと簡単に予想ができた。

 でも、それでも。

 

 

 

 ーーーごめん、雪乃ちゃん。

 

 

 

 彼の頬に手を当てた。

 

 

 触れ合いそうだった唇が寸前で止まる。

 比企谷の頬に触れていた手が崩れ落ちる。

 陽乃は視線を落とす。

 ただ一言だけ陽乃は呟いた。

 

 

 

 ーーーやっぱり裏切れないや

 

 

 

 と。

 

 

 

 

 

 夕食を終えた二人の間に会話はなかった。

 陽乃は後悔していた。

 あんな軽率な行動をしてしまった自分自身を恥じていた。

 比企谷八幡は誰とも付き合っていない。あの時はそうだった。だけど、今は? 今比企谷八幡の隣には誰がいるのか。雪ノ下雪乃か。由比ヶ浜結衣か。それともあの生徒会長か。もしかしたら、陽乃の知らない誰かが彼の隣を歩いているかもしれない。

 浅はかだった。

 変わらない。

 やっぱり馬鹿だ。

 自分を軽蔑してしまう。

 

「陽乃さん」

 呼ばれて視線をあげる

「……これ飲みます?」

 

 彼の手にはMAX(マックス)コーヒーがある。

 確かものすごく甘い缶コーヒーだ。

 

「うまいですよ」

 

 手を伸ばして受け取る。

 手が触れ合うだけで心がざわつく。

 

「ありがと」

 

 両手で缶コーヒーを持つ。

 片手でタブを弾いた比企谷が陽乃の隣に座る。

 隣で美味しそうにMAXコーヒーを飲む比企谷。

 釣られて陽乃もタブを弾いてMAXコーヒーを飲む。

 舌の上に広がる強烈な甘み。鼻を突き抜けて、香りまでもが甘い。

 思わず、顔をしかめてしまう。

 比企谷は変わらず美味しそうに飲んでいる。

 

「すごい甘いね」

「それがいいんですよ」

 

 そう言って比企谷は笑う。

 凛々しくなった横顔。

 やっぱり低くなった声。

 意外にまつ毛も長い。

 もう一口、飲む。

 

 

「……、」

 

 

 ーーーやっぱり甘いや。

 

 

 

 ♯4 甘いね。

 

 

 

 


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