総武高校は県内でも有数の進学校であり、総生徒数千人を越えるマンモス校で知られる。そのため校舎は他の高校にくらべて広く、例えば移動教室の時は授業の終わりのチャイムが鳴ったと同時に教室を移動し始めなければ次の授業に間に合わないなんて事も……まぁ滅多にないが、そのくらいに広い。
奉仕部の部室はそんな校舎の端…しかも昇降口からほどほど遠いなんとも立地の悪い所にある。普段から人の往来は少なく放課後ともなれば寄り付く人もほぼいない。そんな辺鄙な所へ敢えて足しげく通っている俺のひたむきさと言えば、まるで地方へ左遷された中年サラリーマンもかくやと言う程である。
対して向かっている図書室は今いる校舎とは別の棟にある。昇降口からは近い位置にあるが部室から俺の教室を挟んでちょうど反対側にあるので、移動にはそれなりの時間と体力を有する。
軽い旅である。もう学校横断である。誰か鉄道を引いてくれ。
廊下を歩きながら俺はふぅと息を吐く。手に持ったプリントが少し重くなった様に感じるのは疲れのせいではない。恐らく原因は俺の後ろを歩く一色……何故か移動中もずっと俺の背中を押し続け、加えて楽し気に鼻歌まで歌っている。当然周りの生徒たちからは奇異の目で見られ、こっちが見返すとさっと目を逸らされる。放課後なのでそれ程生徒が残っている訳ではないが、すれ違い様に聞こえる話し声が、変な噂を立てられるのではないかと気を滅入らせる。
ふと窓ガラスを見ると夕陽に反射して俺と一色の姿が映っている。二人連なって歩く姿はまるで電車ごっこである。俺の乗りたかった列車はこんなんじゃなかったはずなんだが、どうしてこうなった?
「どうしたんですか?ため息なんか付いて」
一色は弾む様な声で聞いてくる。
「…いや、何でずっと背中押してんの?超恥ずかしいんだけど」
「だってこうしないと先輩どっか行っちゃうかもしれないじゃないですか」
「そんなことしねぇよ…」
さすがにプリントを投げ捨ててまで逃げる気はない。比企谷八幡はそこまで鬼じゃない。
「まぁまぁ。それにほら、もう図書室に着きましたよ」
そう言われ気付けばもう図書室の前だった。一色はひょいっと手を離すと八幡電車から軽やかに下車し、そのまま一人で勝手に図書室へ入って行ってしまう。その様子を見て再度大きく息を吐いた後、俺も一色に続き図書室に入っていった。
室内は静かで、まるでそこだけ他の場所から時間が切り取られたような独特の空気に包まれていた。参考書を開いて勉強する生徒やまったりと本を読む生徒、資料を何冊も積んで調べ物をしている生徒など、様々な生徒が思い思いの時間を過ごしていた。
そういや俺も以前はよくここで時間を潰していたな。奉仕部に入部してからはめっきり来なくなってしまったが…。
俺が懐かしさを感じつつ辺りを見回していると、カウンターへ近づく一色の姿が目に入る。受付には図書当番の女子生徒が退屈そうに座っていて、一色が話しかけると気怠気に反応する。それから二言三言言葉を交わすと女子生徒は一色をカウンター内へ招き入れ、奥にある扉を指差した。どうやらあそこが司書室らしい。一色は制服のポケットから銀色の鍵を取り出し扉を開けると、少し開いた隙間に頭を突っ込んで中の様子を確認する。それからこっちを振り返ると、ちょいちょいと手招きをして見せた。俺は女子生徒に軽く会釈をしてカウンターをくぐり、巻き付けられた糸を手繰られる様に一色とともに司書室へと入って行った。
司書室は閉切られていたため空気は滞っていて、あまり使われていなかったのか若干の埃っぽさを感じる。資料保存の為か四方は壁で囲まれていて、換気をしようにも小窓くらいのものしか見つからない。俺たちは椅子や積まれたダンボールを避けながら室内を進む。部屋の広さの割に動けるスペースは狭く、大半は資料棚に占拠されている。確かにこれは人数が多い程作業がし辛い。俺たちは手頃な机の上にプリントを置き、近くにあった椅子を持って来て作業スペースに腰を下ろした。
「それじゃ、とっととやっちゃいましょっか」
「そだな」
「言っときますけど、二人きりだからって変な事しないで下さいね」
「……さっさと始めるぞ」
「もうっ、先輩ってば」
一色の言葉を華麗にスルーし、俺は手元のプリントに目を向ける。
プリントを項目事に分け、それぞれ所定のファイルに綴じる。それ程難しい事ではなくプリントもそこまで多い訳ではないのだが、問題はファイリングの方である。室内の中には様々な資料が納められていて、所定のファイルを見つけるのにも苦労しそうだ。
これを一色一人にやらせようとしていたとは…平塚先生もなかなかの鬼畜である。
とりあえず先にプリントの種類だけ分け終えた俺たちは、手分けしてファイルを探す。
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「そう言えば先輩。この間の用事って何だったんですか?」
しばらく作業を続けていると、一色がプリントを綴じながら尋ねてくる。俺は棚に目を向けたまま、背中で返事をする。
「この間?」
「ほら、この前私が部室に行った時、ちょっと急いでるからってどっか行っちゃったじゃないですか」
一色の面倒事に巻き込まれそうなときによく使ういい訳だが、どうやらこっちの世界の俺もそこは変わらないらしい。まぁ、ここは適当に話を合わせておくのが無難だろう。
「…あぁ、あれな。あれならもう大丈夫だ」
「そうなんですか……でもホントびっくりしたんですよっ。私がドア開けようとしたらいきなり先輩が飛び出してくるんですもん」
ピクリと身体が反応する。その状況には身に覚えがあった。
「ちょっ、ちょっと待て一色」
「?…何ですか?」
「その話、詳しく聞かせてくれないか」
いきなり振り返っておかしな事を聞く俺に、一色は眉をひそめたものの思い出させる様に説明をする。
「この間城廻先輩に言われて仕方なく、仕方なくですよ?先輩に生徒会選挙の時のお礼を言いに行ったんですけど、私が部室のドアを開けようとしたら先輩がいきなり飛び出してきたんですよ。その後も先輩急いでるからって私の話聞かずにどっか行っちゃいますし…。私ちょー傷付いたんですからね」
ぷりぷり怒る一色だが俺はそのあざとさに突っ込む事を忘れ、呆然と宙を見つめていた。
一色の話…それは俺がここが別世界だと気付いた一日前の話……つまり俺が雪ノ下を見つけられなかった日の話だ。俺はてっきり朝目が覚めたら世界が変わったのだと思っていたが、どうやらそれよりも前から既に世界は変わっていたらしい。
一体いつから変わった?
雪ノ下が部室を飛び出して行った時?
クリスマスイベントの企画が行き詰り、俺が二人に助けを求めて部室を訪れた時?
そういえば以前“雪ノ下が本当は生徒会長になりたかったのでは?”という考えが頭を過った事を思い出す。ひょっとして生徒会長になりたいと願った雪ノ下が世界を改変したんじゃ………いや、それならこっちの世界に雪ノ下がいないのはおかしい。それにこっちの世界で由比ヶ浜も奉仕部の部員じゃない事を考えれば、少なくとも雪ノ下と由比ヶ浜が部室を出て一人きりになるまでは元の世界のままだったはずだ。
「…ぱい……先輩っ!」
耳元で叫ぶ声が聞こえ、俺ははっと我に帰る。目の前にはこっちをじっと見つめる一色の姿があった。
「あ…あぁ」
「どうしたんですか、急に黙っちゃって。どこか具合でも悪いんですか?」
「…大丈夫だ。ちょっとぼーっとしてただけだ」
「ならいいんですけど…」
そう返事をするが一色は納得していなさそうにこっちを観ている。
一色が生徒会選挙の礼に部室を訪れたと言うなら、俺が扉を開けた瞬間に世界が変わったという事だろうか……そう考えた時、俺の中に新たな疑問が浮かぶ。
「なぁ一色。ちょっと聞きたいんだが」
「何ですか?」
「お前って俺に乗せられて、生徒会長になった…んだよな?」
「はぁ、まぁそうですけど……なんですかっ?今更否認とかしないで下さいよっ!?」
一色はありえないという表情でこちらを見てくる。
「いや、そうじゃねぇよ」
元の世界で俺は葉山をダシにて、一色が生徒会長をやる様に話を仕向けた。しかしこっちの世界では葉山は既に付き合っている彼女がいるらしいからその手は使えないはずだ。なら俺はどうやって一色を生徒会長に仕立て上げたのか…。
「お前って葉山の噂知ってるか?」
「葉山先輩ですか?そりゃ葉山先輩は人気ですし、多分学校中の女の子が知ってますよ……ていうか、何で今葉山先輩の話が出て来るんですか?」
一色は勘ぐる様に聞いてくる。
「…いや、お前葉山の事好きだったろ。仮に、もし葉山に彼女がいなくて生徒会の仕事を手伝ってくれるって言ったら、一色は生徒会長になるか?」
「は?…まぁ、そうだったらいいなって思いますけど、あの人彼女いるじゃないですか。私そういう実益のない話って興味ないんですよね」
一色はあっけらかんと答える。さすが男子をブランドバックの様に扱う女。いろはすぱねぇっす。
「ていうか……ひょっとして先輩、あの日の事覚えてないんですか?」
一色の睨む様なじっとりとした目に、俺はギクリとする。
「えっ…ナンノコトカナ?」
覚えてないと言うか全く知らないというか…。思わず誤魔化そうとするがバレバレっぽい。
忘れるとか超あり得ないんですけど!先輩サイテー過ぎます!
そう罵られると思い身を強張らせるが、想像していた言葉は一向に飛んでこない。代わりに一色は何かを理解した様にひとつため息をついた。
「…はぁ。なるほど、そういう事ですか」
一言そう言うと一色はストンと背後の椅子に腰を落とす。
「あーあ、私にあんな事までしておいて覚えてないとか…先輩ってホント残念な先輩ですねー」
「うっ…」
あの日の事とか、あんな事って…こっちの世界の俺は一色に一体どんな事をしたんだっ?
一色の寂し気な笑顔から様々な想像が頭の中を駆け巡る。
「で、結局なんて言ったの俺?」
「それは秘密です。罰として先輩が思い出すまで教えてあげません」
一色は口元に人差し指を近づけ、からかう様に微笑む。
いや、思い出したら聞く意味ないんですけどね。
「責任、とって下さいねっ!」
その何か企んでいる様な楽しそうな笑顔に一瞬ドキリとさせられ、やはり俺の後輩はあざと可愛いと心の中で呟いた。