3-a
周りの世界が変わってから数日、この生活にも少しずつ慣れ、非日常は日常として俺の中で回り始めていた。
今日も今日とて奉仕部に通い放課後を過ごす。
部室には川崎と海老名、それに由比ヶ浜がいて、何やらお互いのスマホの画面を見せ合っている。由比ヶ浜が奉仕部に来る様になって以来、部室も賑やかになり、あの様によく三人でかたまって話している。
別に一人だけ仲間はずれにされて寂しいなんて思ってないんだからね!
「でね、これがこの間ピクニック行ったときのサブレでー」
「あんた相変わらず犬好きだね」
飼い犬の写真を見せてくる由比ヶ浜に川崎は呆れ顔で言う。けれどその声は柔らかで、どことなく楽しそうだ。
「さきさきの家にもカワイイ子いるよね」
スマホから顔を上げ、海老名が思い出した様に言う。
「えーどんな子?チワワ?あっ、ポメラニアンとか?」
由比ヶ浜は興味津々といった様子で、子犬がしっぽを振る様に話に食いつく。
まぁその気持ちは分からんでもない。確かにチワワとかポメラニアンとか超カワイイ。膝の上に乗せて癒されたい。
「じゃなくて、さきさきの妹だよ」
「あぁ、京華のこと?」
「へぇー、京華ちゃんって言うんだ。写真とかあるの?」
「いや、そんな大層なもんでもないし…」
そう言いながら川崎はスマホを操作し写真を探す。口調とは裏腹にその顔はデレデレというかウズウズというか、見せたくてたまらないという感じだった。これだからシスコンというやつは…。
「わー、カワイイっ」
「これこの間さきさきの家に行ったときのだね」
黄色い声を飛ばし盛り上がる女子たち。カワイイと叫ぶのはいいが、女子は無闇にカワイイと言い過ぎじゃないだろうか。最近じゃ消しゴムやセロハンテープにまでカワイイと言ってる女子もいたし、これは“カワイイ”=“存在してる”ぐらいの認識が正しいのではないだろうか。
まぁ川崎は無愛想で口も目つきも悪いが顔立ちは割と整っているので、そう考えるとその妹がカワイイと言われるのはあながち間違いではないのかもしれない。
そんな事を考えていると、写真を見ていた由比ヶ浜が声をあげてこっちを見てきた。
「あっ…」
「どうかしたか?」
その反応が気になったので俺は由比ヶ浜たちに近づく。そして由比ヶ浜が持っている川崎のスマホの画面を覗き込むと、そこには居間に座る三人の人影が写っていた。
一人は川崎、少し照れた様に笑みを浮かべている。何か料理をしていたのか、エプロン姿が家庭的な雰囲気を出していて、普段のツンツンした雰囲気とのギャップに思わず目が惹かれる。その隣には川崎の妹らしき幼女。姉妹というだけあって顔立ちはそっくりで、なるほどと思える程度に可愛らしく満面の笑顔をこっちに向けている。そしてそんな幼女を膝に抱えるひどく縁起の悪そうな男。目は腐って死んだ魚の様に濁り、笑い慣れていないのか奇妙に歪ませた口元が甚だ不気味だ。夜道ですれ違えば十人中八人はその存在に気付かず、残り二人は悲鳴を上げて嫌悪感を示す。そんな孤独の中に生息している様な妖怪はどこと無く俺に似ている。まるで俺である。俺と瓜二つである。むしろ俺そのものである。ていうか俺本人である。
「えっ?これどういう…」
口をパクパクさせていると、海老名は横からスマホの画面を覗き見て、あぁと頷く。
「このまえ二人でさきさきの家に遊びに行ったじゃない?その時私がさきさきのスマホ借りて撮ったんだよ」
いや別に川崎のスマホに川崎自身が写ってる事に驚いてんじゃねぇよ!何?ぼっちは友達いないから自分の全身が写った写真は撮れないと思った?残念、今は自撮り棒とか色々便利なアイテムがあるんですっ!まぁ俺はSNSとかやってないし、そもそも自撮りなんかしないんだけどね!
ていうかそうじゃなくて、なぜこっちの世界の俺は同級生の女子の家に遊びに行ったりしているんだ!こんな死んだ魚の様な目をして、性格のひん曲がった人間にリア充イベントなんてこなせるはずがないっ。いや、逆に考えてどうして見た目も性格も同じはずなのに、俺にはそんなリア充イベントが起こらなかったのか……ひょっとして俺はこのままこっちの世界にいた方が幸せなんじゃ…。
「それにしても京華ちゃんヒッキーによく懐いてるね」
「だねぇ。ずっと比企谷君の膝の上から離れなかったしね」
由比ヶ浜がスマホをスクロールして写真を眺めながら言うと、海老名もうんうんと頷く。
「いやいや、お兄ちゃんが溢れ出てますなぁ」
「…うるせぇ」
からかう様に笑う海老名の態度に、俺はフンと鼻を鳴らして悪態をつく。
「何か妙に気に入っちゃってね。二人が帰った後“はーちゃんはどこ”とか“はーちゃんは次いつ来るの”とか騒いで大変だったんだから」
川崎はその時の事を思い出してため息をつく。
「それでどうしたの?」
「“はーちゃんはけーちゃんがいい子にしてたらまた来てくれるよ”って言ったらその日から家の手伝いする様になったよ」
「ふふっ、なんかカワイイ」
「なら京華ちゃんのためにまた比企谷君連れてってあげないとね」
談笑する三人は何だかほっこりした雰囲気になる。
けど何でそんな約束勝手にしちゃうの。まぁ俺にも小町がいるから年下は嫌いじゃないけども、せめて当人の了承は取ってほしいものである。
「あっ、そっか!」
突然海老名が何か思い出した様に手を叩く。
「だからさきさきこの間、比企谷君の事はーちゃんって言ってたんだ」
海老名の言葉に、川崎の顔はみるみる赤くなる。まるで煮だこの様で、そりゃもう真っ赤っ赤である。
「ちょっ!海老名、あんた急に何言ってんのよっ」
「だってこの間さきさムグぅっ…」
川崎は海老名に飛びかからんという勢いで口を塞ぐ。それからジロリとこっちを見る。
「あんたもっ、あの事はさっさと忘れる事っ!いいねっ!」
「あ…、はい」
あの事が何なのかさっぱり分からないが、顔を赤らめ睨みながら言う川崎の台詞は一種のクーデレの様である。何というか、これはアレだ…一体どんな高校生活送ってたんだ、こっちの世界の俺。
自分の知らない比企谷八幡の一面を見て意気消沈していると、コンコンと強めに扉がノックされる。それから返事をする間もなくガラリと扉が開き一人の女子生徒が入って来る。金髪縦ロールに制服を着崩したギャル風な風貌…いかにもリア充筆頭という感じである。
「あれっ、優美子、どうかしたの?」
突然現れた三浦に驚いたように海老名が言う。
「依頼…あんだけど」
三浦の言葉からトゲの様なものを感じた俺は、どことなく漂って来る不穏な空気にゴクリと生つばを飲むのだった。
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「最近どっかの誰かがあーしの友達に付きまとってるみたいなんだけどさぁ、そーゆーの止めてほしいんだよねー」
席に付いた三浦はじろりと睨む様に俺を見てくる。その鋭い眼差しを向けた意味を察した俺は、思わず心臓がキュっと掴まれた気分になる。
これはマズい。友達というのは恐らく由比ヶ浜の事だ。最近奉仕部に顔を出す様になったのをあまりよく思っていないんだろう。そして付きまとっているというのは十中八九この俺…。依頼と言いつつ、三浦は明らかに俺を糾弾しに掛っている。
ちょっかいなんて出した覚えはないし(声を掛けはしたかもしれないが)、付きまとっているなんて濡れ衣もいい所だ。だがここ最近の由比ヶ浜の行動を考えれば、そう思われてもおかしくないだろう。なんとか誤解を解いて三浦の怒りを収めなければ…。
そう思っていると由比ヶ浜が心配そうに口を開く。
「それってストーカー?優美子大丈夫?」
いやこれ君の事言ってんだけどね。
自分の事だと気付かない由比ヶ浜に、心の中でツッコミを入れる。
声を掛けられた三浦は視線を俺から由比ヶ浜へと移す。
「結衣さぁ、今日用事あるから先帰るっつってたけど、何?用事ってこれ?」
氷を毛布でくるんだ様な視線を由比ヶ浜に向ける。口調は優しく落ち着いている様にも聞こえる。だが、本人に自覚があるのかは分からないがその態度は高圧的で、見ようによっては詰問している様でもあった。
「え…えっと……あの…、ごめん」
「何謝ってんの?あーしただ聞いてるだけだなんだけど」
「そ…そだよね。あはは、何言ってんだろ私」
由比ヶ浜は誤魔化す様に笑う。どうやらここに来ている事を三浦にちゃんと話していなかった様だ。
「つーか、何でここに来てる訳?姫菜は部活だとして、結衣は関係なくない?」
「そ、それは、止むに止まれぬ事情といいますか…」
由比ヶ浜のはっきりとしない態度に、三浦はだんだんと苛つき始める。
「あんさぁ、別に結衣が放課後どこで何してようがとやかく言うつもりはないけど、あーし黙ってコソコソされたり、隠し事されたりすんのってマジむかつくんですけど!」
「ごめ……」
由比ヶ浜は謝りかけて、咄嗟に口を抑える。沈黙が流れ、部室には重たい空気が漂う。
そんな二人のやり取りを見て、俺は出会ったばかりの頃の由比ヶ浜を思い出していた。
由比ケ浜結衣……クラス内カースト最上位のグループに属し、社交性がありコミュニケーションスキルも非常に高い。一方、人に合わせないと落ち着かない性分で、周囲の空気を読んで自分を合わせようとする。
そうした性質が災いし言いたい事を素直に言えず、時にはそれが周りを苛立たせる原因ともなっていた。特に三浦はそうしたはっきりしない態度を好まず、時折その事を由比ヶ浜に指摘しているのを耳にした。
向こうの世界では奉仕部に入部する事によって徐々に本音を出せる様になり、三浦にも好意的に受け取られていた様だが、どうやらこっちの世界ではそうはならなかったらしい。
「言いたい事あんならはっきり言えば」
「……」
三浦の迫力に、由比ヶ浜は声を失う。
この重たい空気はさすがにツライ…思わず教室から逃げ出したくなる衝動を必死に抑えていると、沈黙を破る強烈な一言が思わぬ方向から飛んでくる。
「要するにあんた、友達とられて寂しいんでしょ」
二人のやり取りに割って入ったのは川崎だった。
「はぁ?意味分かんないんだけど。つーか、関係ない人は黙っててくんない?」
三浦はギロリと川崎を睨む。
「あぁ?あんた依頼に来たっつったよね。私も一応、ここの部員なんだけど?」
互いにガンを飛ばし火花を散らし合う二人。マジコワい。
俺は助けを求める様に海老名に視線を送る。今部室にいる中でこの二人をなだめる事ができるのは海老名だけだ。しかし海老名は俺の視線に気付きはしたが、優しくこちらに微笑み返すだけだった。その菩薩の様な表情は、まるでお前がなんとかしなさいと言っている様にも見えた。
「ま、まぁまぁ優美子もさきさきも落ち着いて…」
二人の間を取りなそうと割って入る由比ヶ浜だったがその声は弱々しく、そんなんじゃ収まるいざこざも収まらないと思えた。それに由比ヶ浜はこの騒動の一翼を担っている訳で、むしろ逆効果な気もする。
「結衣はちょっと黙ってて」
「由比ヶ浜っ、あんたたまにはコイツに一言言ってやたいとか思わないわけ?」
「はぁ?」
「あぁ?」
やめて!ちょーコワい!
由比ヶ浜は二人の権幕に気圧され、助けを求める様にこちらを見てくる。そんな目で見ないでっ。生憎この二人の言い合いに割って入る気概を俺は持ち合わせていない。しかしこのまま放っておく訳にもいかないし、由比ヶ浜は今にも泣き出しそうである。さすがに今泣かれてはこの場の収拾はつかなくなるだろう……むしろ更にややこしくなるまである。それに最初に由比ヶ浜に声を掛けたのは俺なわけだし、多少の責任を感じていなくもない……。
頭の中で八幡会議が幾重にも繰り返された結果、俺は意を決して口を開く。
「…川崎、ちょっと黙っててくんない?話がややこしくなるから」
「は?…………あっそ」
俺がそう言うと、川崎は一瞬呆気にとられた様な顔をして、それからムッと頬を膨らませてぷいっとそっぽを向いてしまった。
海老名に目配せしてフォローを頼むと、それに気付いた海老名は川崎の方へ椅子を寄せて川崎をなだめる。
「三浦、俺たちは別に由比ヶ浜にちょっかい出したり付きまとったりなんかしてない」
俺がゆっくりと口を開くと、さっきまで川崎に向けられていた三浦の眼光が再びこちらを向く。
「由比ヶ浜が勝手に来てるだけで…俺に関して言やぁ、由比ヶ浜がここに来たって来なくたって、別にどっちでもいいと思ってる。」
「ヒッキー……」
由比ヶ浜が寂しそうな表情を浮かべるが、俺は構わず言葉を続ける。
「……けど、由比ヶ浜がここにいるのは由比ヶ浜自身の意思だ。それをどうこう言う権利なんて俺にはねぇよ」
「……」
三浦は何も言わず、ただこちらを睨んでいる。俺はふぅと息を吐いて、視線を三浦から由比ヶ浜に移す。
「由比ヶ浜、お前三浦とはいつ頃から付き合ってるんだ?」
「…えっと、中学の時からかな?」
突然話を振られ驚いた様子だったが、由比ヶ浜は思い返す様に答える。
「てことは四、五年くらいか。そのくらい付き合ってたら何となく相手の性格とか分からないか?三浦はお前の事なんとなく分かってるみたいだが…」
「…うん、そうだね」
由比ヶ浜は目線を逸らして小さく頷いた。まるで聞きたくない事でもある様な仕草を見た俺は、由比ヶ浜の性格の一端を見た気がした。
「俺が見た感じ三浦は、クラスの女子の中心的存在で、プライドが高くて、かなり自己中心的でわがまま。だがその分自分の身内には優しく、敵対しなければ意外と面倒見もよくて良心的で、言うなれば姉御…オカン的な人間だな。性格は曖昧さを嫌って白黒はっきりつけないと気が済まない性分…良く言えば実直、悪くいえば融通の利かないタイプだ」
「ち…ちょっと、あーしの事分かったみたいに話すのやめてくんない?マジでキモいんですけど」
三浦は上擦った声を上げる。鋭く睨む眼力はそのままだが、さすがに気持ち悪いと思ったのか身体を反らして俺から距離を取ろうとしている。
まぁ当然と言えば当然の反応である。
「まぁまぁ優美子。比企谷君ぼっちなだけあって人間観察だけは自信があるみたいだからさ、話だけでも聞いてあげようよ」
三浦をなだめる様に海老名がフォローに入る。助け船を出してくれるのはありがたい…しかし心が痛むのは何故か。
俺は咳払いをひとつして話を続ける。
「三浦の事をよく知らない俺でもこのくらいは分かるんだ。なら三浦とずっと一緒にいる由比ヶ浜なら当然分かってるはずだ」
「……」
由比ヶ浜は返事を返さない。
「三浦が怒ってる理由…それはお前の態度…というか性分についてだ。由比ヶ浜、お前はコミュニケーションスキルの高い人間だ。周りの空気も読めるし協調性もある。だが一方で、人に合わせないと落ち着かない性格で、周囲の空気を読んで自分を合わせようとする。自分に自信が無いから曖昧な物言いしかできず、誰からも嫌われたくないから自分の意見を通せない。その事を何度か三浦に指摘されただろ。まぁ三浦の性格を考えれば当然かもしれないが…。結局お前は他人の事を考えている様で自分の事しか考えてなかったんだよ」
「………」
「ちょっとあんたそこまで言うっ?」
三浦が食って掛かってくる。
「別に由比ヶ浜にだけ言ってるんじゃない。三浦、お前にだって原因はある。お前は由比ヶ浜が本音を言えない時、どうしてそうなのか考えた事はあったか?自分じゃ気付いてないかもしれないが、お前のその高圧的な態度だって由比ヶ浜が自分の意見を言えない理由のひとつなんだよ」
「なっ…」
俺の言葉に反応し、今にも飛びかかってきそうな三浦の肩を海老名がそっと押さえる。
「由比ヶ浜、人と関わろうとするなら誰からも嫌われないなんて土台無理な話だ。確かに他人に否定されたり嫌われるのは辛いことだし、最初から自分を押し殺して都合のいい存在に徹しているほうが無難だと思うのは分かる。だが、自分の気持ちを言わない事が必ずしも嫌われないことだとは限らない。はっきり答えたって周りの空気を読まないって嫌われたりするし、周りの意見に合わせてたって責任逃れでずるいなんて言われたりもする」
「……」
「結局は本人次第なんだよ。八方美人なんて思い詰めてまでやる事じゃない。どっかに合わせりゃどっかがはみ出る。他人なんて曖昧な基準に合わせるくらいなら、こう在りたいっていう自分になる方がよっぽど建設的だ。離れていくヤツは離れていくし、それでも残ったヤツが友達って事なんじゃないのか。まぁいきなり変わるなんてのは無理かもしれないが、お前らは付き合いも長いんだし、お互い歩み寄ってちゃんと話し合えば大丈夫だろ……多分、知らんけど…」
「……」
由比ヶ浜は何も言わずにこっちを見ている。しかし、先程まであった不安そうな表情は少し晴れている気がした。
「まぁ本当に誰にも嫌われたくないなら、俺みたいにぼっちになる事だな。誰とも関わりがないかあら争いも起きない。世界的に考えて超ガンジー」
「学校一の嫌われ者がよく言うよ」
「確かに」
三浦のツッコミが入り、海老名もクスリと笑う。重かった部内の空気も元に戻ってきた。由比ヶ浜は軽く深呼吸し小さくよしっと呟くと、真剣な眼差しを三浦に向ける。
「優美子、ちゃんと話してなくてごめん。私ね、どうしてもここでやりたい事……ううん、やらなきゃいけない事があるの。だからもうちょっとだけここに来ちゃダメ…かな?」
「ふーん…あっそ……」
三浦は淡白な返事をする。その反応に不安を覚えた由比ヶ浜はちらりと俺を見る。
「まぁ由比ヶ浜もこうやって少しずつ自立しようとしてんだし、三浦も温かく見守ってやったらいいんじゃないか?」
「そんな事あんたに言われなくても分かってっし」
俺がそう言うと、三浦はこちらを睨んで反論してくる。しかし、向けられるその眼光は先程までのものに比べて幾分か柔らかくなっていた。
それから三浦は由比ヶ浜の方に身体を向ける。
「別に結衣のやる事にとやかく言うつもりないってさっきも言ったっしょ。ちゃんと言ってくれるならあーしもそれでいいし」
「ありがと優美子…」
ほっと安心した様に笑う由比ヶ浜を見て、三浦は思わず視線を逸らす。照れているのか頬がほんのり紅い。
「あーぁ、けど結衣も妃菜も部活なんじゃあーし放課後ちょー暇じゃん」
三浦は誤魔化す様にそう言うと、ため息混じりに肩肘を付く。
「まぁ、お前はお前でやりたい事やったらいいんじゃないか?…放課後暇なら葉山をデートにでも誘ったらいい」
葉山はサッカー部だから毎日とはいかないだろうが、今までグループでの行動が多かっただろうし葉山に思いを寄せる三浦にとってはいい機会だろう。
しかし、三浦の照れ隠しの罵詈雑言が飛んでくるかと思っていたのだが、どうもその気配はない。
その時、俺は周りの雰囲気がおかしい事に気付いた。何故か部室の空気がピシリと凍り付いていた。全員固まった様に動かないが、由比ヶ浜も川崎も海老名も、なにか信じられないという表情でこっちを見ていた。そんな中で三浦を見ると、呆然としていた表情が見る見るうちに変化し、最初部室に入ってきた様な…いや、それ以上の敵意のある顔になる。
「そんな事っ!あんたに言われる筋合いないしっ!」
震える様に叫び声を上げる三浦。こっちを睨むその瞳には見る見るうちに涙が溜まっていき、ぼろぼろと止めどなく溢れ出す。そして両手で顔を覆い、崩れる様に泣き出してしまった。
「比企谷!あんたそこまで言わなくてもいいんじゃないっ」
「ヒッキー…」
突然の状況を全く理解できずうろたえる俺に非難の声が飛ぶ。意味が分からない。なぜ三浦は急に泣き出した?俺は何かおかしな事を言ったのか。助けを求める様に海老名を見ると、困った様な微笑みが返ってきた。
「大丈夫優美子?」
「……うぅ…」
由比ヶ浜は嗚咽する三浦の背中を優しくさする。
「あんまり泣くと化粧が崩れるよ。ほら、これで涙拭きな」
「うぅ…」
川崎も三浦に寄り添いハンカチを手渡す。先程まであんなにいがみ合っていたのが嘘のようである。
それからしばらくの間、部室には三浦のすすり泣く音だけ聞こえ、誰も喋ろうとはしなかった。
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幾許の時間が流れ、三浦の呼吸も着いてきた。
頃合いをみて、俺は恐る恐る声をかけてみる。
「あの……三浦…さん?」
「………」
返事は返ってこない。再び沈黙が流れ、もう一度声を掛けようか迷っていると三浦の口から擦れる様な声が漏れてくる。
「………きて」
「は?」
「………て来て」
「いや、よく聞こえないんだけど…」
上手く聞き取れずにいると、三浦は業を煮やしたのかグワっと身体を起こす。
「喉乾いたから何か飲み物買ってこいっつってんのっ!」
叫ぶその顔は涙の跡で目が赤く腫れている。
「い…いや、言ってないだろ。全然聞こえなかったんだけど。ていうか飲み物ならそこに…
「うっさい!ヒキオのくせに口答えすんなっ!」
まるでどこぞのガキ大将の様な物言い。
大声を出した反動か、俺の言葉を遮る三浦の瞳には再び涙が溜まり始めていた。
「…分かったからそう睨むな。行ってくりゃいいんだろ」
俺は三浦の迫力に気圧され腰を上げる。それから由比ヶ浜たちを一瞥した後、背中に集まる六つの視線から逃げる様に部室を出た。
自販機へ向かい歩く俺は、先程三浦に言いかけた言葉を思い出す。
飲み物ならそこに紅茶があるだろ。
…いや、そんなものはない。雪ノ下が持ってきて毎日の様に淹れていた紅茶やティーセットはあの部室にはなく、雪ノ下の消失とともに、四月に振る雪の様に跡形も残さず消えてしまったのだ。
俺は再び現れた孤独感を背中に、一人ぽつぽつと廊下を歩いていった。