雪ノ下雪乃の消失   作:発光ダイオード

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「雪乃ちゃんね……四月に交通事故に遭って、一ヶ月くらい学校を休んでたの」

 

雪ノ下さんがそう言ったのは、俺がこれまでの出来事をひと通り説明し終えたあと、会話が途切れてしばらくし経った頃だった。

 

「そうなんですかっ?」

 

足下で椅子がガタリと音を立てる。同時に、思っていたよりも大きな自分の声に慌てて口を噤む。

周りの様子を窺うと、来た時は貸切状態だった店内にもちらほらと客が増えはじめ、気づけばささやかな賑わいを見せていた。壁に掛けられた時計は既に11時を回っている。テラス席から見える大通りも、景気が良さそうに賑やかな人の波で揺れていた。

幸いこっちを気にする客はいなかった。俺は咳払いをひとつしてからテーブルに居直る。

 

「大丈夫だったんですか?」

 

「ええ。まぁ、実際に車にぶつかった訳じゃないからね」

 

雪ノ下さんは、そう言ってコーヒーカップにつける。

 

「どういうことですか?」

 

「ぶつかる直前に車がハンドルを切って、雪乃ちゃんの側のガードレールに突っ込んだの」

 

ソーサにカップを戻すと、ほっとした様な笑みを見せた。

 

「ただ、雪乃ちゃんも避けようとした時にちょっと足を挫いたみたいで、一応病院で見てもらうことにしたの」

 

雪ノ下さんの表情につられて、俺もふっと肩の力が抜ける。

一ヶ月も学校を休んだなんて言うのでどれ程の怪我だったのか心配したが、思っていたよりも軽傷だったみたいで安心……

いや、ちょっと待て。

 

「そんな大怪我じゃなかったのに、一ヶ月も学校を休んでたんですか?」

 

流石に足首を捻っただけにしては長すぎる。

眉を顰めながら訊くと、雪ノ下さんは視線をカップに向けたまま、その縁を指でなぞる。

 

「怪我は大したことなかったんだけどね、ちょっと記憶が混乱してて……退院してからはしばらく実家で安静にしてたの」

 

思わず動きが凍りつく。

 

「混乱ってどんな……」

 

「今は十一月じゃないのかとか、自分は総武高校の生徒だとか……」

 

それってつまり…

 

「さっきの比企谷君の話と一緒だね」

 

俺がどんな表情をしているのかなんて見なくてもわかるとでもいうように、雪ノ下さんは俯いたまま言った。

ごくり、と喉が鳴る。雪ノ下さんが顔を上げ、じっと俺を見つめる。

 

「まぁそれも最初のうちだけで、数日したらいつも通りの雪乃ちゃんに戻ったけどね」

 

俺は自分を落ち着かせるように、小さく深呼吸する。

三秒待って、訊く。

 

「雪ノ下さんはどう思いますか?」

 

「どうって?」

 

「雪ノ下の記憶は事故に遭う前に戻ったと思いますか?それとも…」

 

「少なくとも……表面上は、私の知ってる雪乃ちゃんだったよ」

 

表面上は……。つまり雪ノ下さんも、雪ノ下に対して何らかの違和感を感じているようだ。

 

「そういや、さっき俺の話は信じれないって言ってませんでした?」

 

「比企谷君の話だけじゃ、って言ったんだよ」

 

「そんな挙げ足取りみたいな…」

 

雪ノ下さんは、からかうように笑う。

 

「でも…そうね。雪乃ちゃんのことは基本的に信じてあげたいんだけど、今回は話が話だしねえ。

それにさっきも言ったけど、正直わたしは雪乃ちゃんや比企谷君の話が嘘か本当かなんてどっちでもいいの。ううん、むしろどっちかっていえば信じていないかもね」

 

再びカップに口をつけ、雪ノ下さんは小さく喉を鳴らした。手にしたカップを中空で揺らしながら、呟くように言う。

 

「いわばこれは遊びよ。雪乃ちゃんが変わることを諦めたわたしの、気まぐれな遊び」

 

雪ノ下さんの表情に一瞬、屈託が混じって見えた。それから、

 

「期待はしてないけど、うまくいくといいね」

 

と言うと、いつもの柔らかい笑顔を浮かべた。

 

 

 

 

 

「さてと……。じゃ、そろそろ行くね」

 

テーブルの上の伝票を手に取ると、雪ノ下さんはゆっくりと立ち上がる。俺を見下ろしているのか、俯いているのか……少しだけ立ち尽くす。

 

「…比企谷君は、雪乃ちゃんの気持ちわかる?」

 

「……」

 

何も答えられない俺に、雪ノ下さんは小さく息を漏らす。

 

「わかんないか。そうよね。比企谷君、あんまり人を見ないもんね」

 

俺は一般的な高校生に比べれば、自分が人間観察には比較的優れてる方だと思っている。

だが、胸を突かれた気がした。

 

「正確には、周りの人間に関心を寄せなかった……かな。君は観察眼には自信があるみたいだけど、人の思考は読み取れても、感情は理解できてないんじゃない?」

 

容赦のない口撃に反論できずにいる俺を見つめながら、雪ノ下さんは言葉を継ぐ。

 

「人ってね、例え自分のことでも、本当は何をしたいのかとか、どんなことを思ってるとか、案外わからなかったりするものよ」

 

それは俺に言っているのか自分に言っているのか……はたまたもっと別の誰かに言っているのか。よくわからなかったが、最後に雪ノ下さんはこう付け加えた。

 

「心ほど正直で当てならないものはない……。

雪乃ちゃんのこと、しっかり見てあげてね」

 

 

 

 

 

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夕闇に包まれた渡り廊下の屋上。輪郭を失い始めた地面に紛れ込むように、紫色の影が三つ伸びている。ひとつは雪ノ下。ひとつは由比浜。そして、ふたりから少し離れたところに俺は立っていた。風はさっきからぱたりと止み、この場所だけ世界から切り取られたような静寂が辺りを包んでいる。妙な静けさが、余計に夕闇を深く感じさせた。

 

「ゆきのん……」

 

最初に口を開いたのは由比ヶ浜だった。擦れるような細い声が渡り廊下の屋上に広がる。

 

「あのね、ゆきのん…。ホントのこと言うとね、わたしも最初……ちょっとだけほっとしたんだ」

 

雪ノ下は俯いたまま、なんの素振りを見せない。

 

「あっちの世界でさ、わたし達みんな変な感じになっちゃったじゃん?どうしたら前みたいに一緒に笑えるかなって考えたんだけど、色々考えてもよくわからなくってさ……」

 

由比ヶ浜は天を仰ぐ。その口許から長い息が漏れた。

静けさの後でおもむろに、

 

「けっこう不安だったんだよね」

 

と言って、頬に物哀げな笑みを浮かべる。

 

「あの日ゆきのんを探してたら、知らないうちにこっちに来ちゃって……。ヒッキーに聞いても、なに言ってるか全然わかんないし、頭の中ぐしゃぐしゃになって、訳わかんなくちゃってさ……。

でもそれと同時に思ったの。そっか、もう悩まなくていいんだ……って」

 

由比ヶ浜は、訥々と語り出す。その声はさっきと変わらないくらいの大きさだったが、どうしてかよく聞こえた。

 

「だから、ゆきのんの気持ちもわかるよ」

 

視線が天から降りて来る。微笑は霧のようなものに変り、普段はまず見られないシリアスな顔で、由比ヶ浜は言った。

 

「でも、でもね。やっぱり違うなって思ったんだ」

 

一歩、雪ノ下に近づく。

 

「確かにゆきのんが言うみたいに胸の支えが取れた気もした。でも…それと一緒に、なんだか胸にぽっかり穴が開いた感じがしたの。

大事なものが全部消えて無くなっちゃったみたいな、すごく辛くて苦しい感じ……」

 

由比ヶ浜の手が硬く握られる。全身を強張らせながら、潤んだ瞳で雪ノ下を見つめる。

 

「ねぇ、ゆきのん……。三人で過ごした時間を無かったことになるなんて……、わたし、やだよ」

 

由比ヶ浜はまた一歩、雪ノ下のすぐ側まで近寄った。

雪ノ下は変わらず俯いたまま、言葉を返す素振りを見せない。しかし由比ヶ浜の声は確実に届いているようで、身体が僅かに震えているのがわかる。いま、雪ノ下はどんな顔をしているのだろう。

 

「雪ノ下。俺は由比浜みたいに周りの空気を読んだり、相手の気持ちを推し量ったりすることはできない。だから、お前がなにを思ってなにに悩んでいたのか…その気持ちを、全部わかるとは言わない」

 

雪ノ下はこっちの世界に来てから……いや、元の世界にいる頃からずっと悩んでいた。それこそ、俺なんかとは比べ物にならない様々な思いを鬱積させてきたんだろう。もし俺が、雪ノ下の抱える思いを本当にわかり得ているとしても、それで雪ノ下が少しでも救われるなんて思い上がるつもりもない。

 

「でも俺も、少しだけなら、わかる気がする」

 

奉仕部を守るために、俺も自分なりに色々やってみた。だけど結局駄目で、こっちの世界に来てからも、元の世界に戻るべきか迷っていた。関係が崩れてしまったあの世界と、新しい世界で一からやり直すのとどっちがいいのか……。由比ヶ浜と元の世界に戻ると約束した今でさえ、正解を図りかねている。

けれど……

 

「正直に言って……何が正しいのかなんて今もわからない。

でも、あの時部室で言った…本物が欲しいって言った、その言葉は本物だ。そしてそれは、多分こっちには無い。俺の本物は今でもあっちの世界にある。だからっ……」

 

ふっと一瞬、三人の間を風が逆巻いた。

雪ノ下はゆっくりと独りごつ。

 

「……わからない」

 

唇をふるわせもう一度、

 

「……わたしには、わからない」

 

冷えた風が吹き抜ける。その風に煽られるように、雪ノ下はゆっくりと顔を上げた。濡れた瞳に力はなく、胸許を押さえるように掴んだ手は強く握られていた。

風で乱れた髪を直そうともせずに、雪ノ下はかすれ気味の声で尋ねる。

 

「あなたの言う本物って、いったいなに?」

 

「それは……」

 

俺にもよくわかってはいない。そんなもの、今まで見たことがないし、手にしたこともない。だから、これがそうだと言えるものを、俺は未だに知らないでいる。

 

俺が答えられずにいると、それを補うかのように由比ヶ浜が一歩踏み出し、雪ノ下の肩にそっと手を乗せた。

 

「大丈夫だよ、ゆきのん」

 

「…なにが大丈夫なの?」

 

雪ノ下が訊くと、由比ヶ浜は困ったように照れ笑いする。

 

「わたしも実はよくわかんなかったから……」

 

誤摩化すようにお団子髪を撫でながら、由比ヶ浜はその笑いを引っ込める。そして、さらにもう一歩雪ノ下のほうへ踏み出し、もう片方の手も雪ノ下の肩に置いた。

由比ヶ浜は真正面から雪ノ下を見つめる。

 

「だから、話せばもっとわかるんだって思う。でも、たぶんそれでもわからないんだよね。それで、たぶんずっとわかんないままで、だけど、なんかそういうのがわかるっていうか……。やっぱりよくわかんないや……。でも、でもね……、わたしさ……」

 

由比ヶ浜の頬を、つっと一筋の涙が伝った。

 

「わたし、今のままじゃやだよ…」

 

由比ヶ浜は雪ノ下の肩を引き寄せて抱くと、緊張の糸が切れたように泣きじゃくる。雪ノ下はそれを抱きとめることもできずに、吐息を漏らして唇を戦慄かせた。

俺は、そんなふたりから少しだけ視線を外す。

 

雪ノ下が持っていた信念。由比ヶ浜が求めた関係。俺が欲した本物。

そこにどれほどの違いがあるのか、俺はまだわからないでいる。

けれど、素直な涙だけが伝えてくれる。今この時は間違えてなんかいないと。

 

雪ノ下は自分の肩に押し付けられた由比ヶ浜の髪をそっと撫でる。

 

「なぜあなたが泣くの……。やっぱりあなたって、……卑怯だわ」

 

そう言って、ぐっと縋りつくように由比ヶ浜の肩に顔を押し付ける。静かな嗚咽が漏れて聞こえる。

 

雪ノ下も由比ヶ浜も、お互いを支えにするように佇んでいた。やがて雪ノ下は大きく息を吐くと、顔を上げる。

 

「……比企谷君」

 

雪ノ下は俺のほうを見てはいない。それでも決然とした強い意志のある声がちゃんと届いてくる。

 

「還りましょう。みんなで一緒に」

 

「ああ」

 

僅かに頭を下げる。こんな短い言葉なのに、声が震えてしまいそうだ。俺が顔を上げると、由比ヶ浜も雪ノ下の肩から顔を上げた。目が合うと、潤んだ瞳で笑顔を見せる。

俺は意味もなく、つい空を見上げてしまった。

オレンジの空は、滲んで見えた。

 

 

 

 

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東の空に星が輝き始め、夕闇に包まれた渡り廊下の屋上に最終下校時刻を告げるチャイムが響いた。

 

「冷えてきたな」

 

俺は空を見上げながら白い息を吐く。ずっと屋外にいたせいで、身体は指の先まで冷えていた。

 

「とりあえず中に入ろ」

 

由比ヶ浜は、吐息を当てながら両手を擦り合わせる。

 

「そうね。後のことは、それから考えましょう」

 

雪ノ下と由比ヶ浜は寄り添いながら歩きだす。俺もふたりの後についていこうとすると、校内へ繋がる扉ががちゃりと開く。続いて、よく聞く声。

 

「君たち、ここにいたのか」

 

平塚先生は扉に寄りかかりながら肩をすくめ、大きく溜息をついた。

 

「部室に姿がないから探してみれば、こんなところに……」

 

「なんか用ですか?」

 

俺がそう訊くと、平塚先生は表情と声に苛立ちを滲ませながら言う。

 

「チャイムは聞こえただろう。もう最終下校時刻だ。さっさと帰りたまえ」

 

しまった、もうそんな時間か。今の今までまったく気にしていなかった。

 

「わっ、ほんとだ!すいません。さっ、ふたりとも。早く行こっ」

 

由比ヶ浜は慌てて時計を見ると、平塚先生に小さく頭を下げた。

それから、雪ノ下の背中を押してせかせかその場を去ろうとすると、すれ違いぎわに平塚先生は雪ノ下を呼び止める。

 

「そうだ、雪ノ下」

 

おもむろに、手を差し出す。

 

「……なんですか?」

 

雪ノ下は訝しんだ後、少し戸惑いながら差し出された手に自分の手を乗せる。握手だろうか?

 

「なにをしてるんだ君は」

 

「えっ?だって…」

 

平塚先生は、浅い溜息をついた。

 

「寝惚けているのか?鍵だよ、鍵。部室の。今日はもう遅い。私が返しておくから、君も比企谷達と一緒に帰るといい」

 

「鍵なら比企谷君が…」

 

雪ノ下が手を引っ込めながらそう言うと、平塚先生はくるりと俺の方に首をめぐらせた。

 

「そうなのか?」

 

「あ…はい」

 

今日は部室を開けたあと、鍵はカバンにしまわずそのままポケットに突っ込んだはずだ。

えっと…、どのポケットだ?

俺がポケットを弄っていると、平塚先生は雪ノ下に視線を戻す。少し眉をひそめて、

 

「まぁ別にいいが……雪ノ下がいる時は、そういう貴重品はなるべく自分で持っていたまえ」

 

と言った。

 

「わたしですか?」

 

首を傾げる雪ノ下。平塚先生は、わかりきったことを訊かれたとでもいうように目をしばたたかせる。

 

「部長なんだから、当然だろう」

 

「…部長?」

 

「えっ、それってゆきのんの事ですかっ?」

 

雪ノ下と由比ヶ浜が戸惑いの色を見せると、平塚先生は口許に手を当て、何か酸っぱいものでも噛んだような顔をした。

 

「おいおい由比ヶ浜まで…。君たち、本当にどうしたんだ?」

 

項垂れる平塚先生の隣で、雪ノ下と由比ヶ浜は揃って俺を見る。

ポケットに入れたはずの鍵は、いつの間にかなくなっていた。俺は手をポケットから出して、その掌をふたりに見せる。

 

ほんの少し、雪ノ下は俯いた。真剣な表情で深い息をつき、胸の前で小さく手を握った。そして、制服の上着のポケットに手を入れる。

おもむろに、ゆっくりと手を抜き出す。

 

「あぁ」

 

由比ヶ浜から感嘆の声が漏れた。

雪ノ下のその手には、奉仕部の部室の鍵が握られていた。

 

 

 

 


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