雪ノ下雪乃の消失   作:発光ダイオード

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夕陽に染まる校舎を、一人の少女が走っている。既に他の生徒の姿はなく、彼女の足音だけが廊下に響いている。

一刻も早く見つけなければいけない。下校してしまった可能性もるが、恐らくまだ校舎の何処かに居るはずだ。彼女はそう自分に言い聞かせながら、ひとつひとつ教室を探して回る。

彼女には伝えなければいけない事がある。今伝えなければ、きっと彼女たちは後悔する。それがわかるから、彼女は必死に走るのだった。

しかしそんな想いも虚しく時間だけが過ぎていき、学校中を駆けまわった彼女の足は渡り廊下の中程で勢いを失う。肩で息をする様子から、その必死さが伝わってくる。

これだけ探しても見つからないという事は、やはりもう下校してしまったんじゃ…。そんな考えが頭を過り諦めかけたその時、不意にチャイムの音が鳴り響く。突然の大きな音に一瞬自分が何をしていたのか記憶が飛んでしまったが、すぐに思い出し呼吸を整える様に息を吐く。

 

「早くゆきのん探さなくちゃ…」

 

そう呟いて、彼女はまた走り出した。

 

 

 

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いつもの様に登校した俺、比企谷八幡は昇降口で靴を棚に収め上履きに履き替える。俺があくびをしながら気怠げに教室に向かう姿も、周りの連中がおはようと挨拶を交し楽し気にリア充を振りまく様子も何一つ変わった所はないが、俺の普通と呼べる日常は昨日を境に一変した。

それは普通に考えたらあまりにも突飛であり得ない様な事だ。しかし“ありえないなんて事はありえない”とグリードさんも言っていた様に、世の中何が起こるかわからない。この常識では考えられない超常的現象だって現実だと思わざるを得なかった。

だって体験しちゃってるんだからしょうがないよね。

何故俺がこんな状況にも関わらず割と冷静を保っていられるかと言えば、まぁおそらく過去に発症させていた中二病のせいだろう。あの頃は突然闇の力に目覚めたりとか、女神の力で異世界に飛ばされたりなんて妄想を日々膨らませていた。そしてそのような事態に巻き込まれた時、どのように行動するのがベストなのか常に本気で脳内反芻していたのだ。

中二病を卒業した今となっては黒歴史意外の何ものでもなかったが、やっとあの頃のシュミレーションを実行する時が来たのだと思えば、妄想も無駄ではなかったと言える。

嗚呼、中二病万歳…。

 

 

 

くだらないことを考えながら階段を登り、それから廊下へ差しかかる角を曲がる。

その時、突然飛び出してきた女子生徒と身体がぶつかった。体格差のせいか女子生徒ははじかれる様にバランスを崩し後ろに倒れそうになったので、俺は咄嗟に手を伸ばし相手の腕を掴んで引き寄せた。

 

「悪ぃ、大丈夫か?」

 

「あ…ありがと。ごめんね、ちょっと前見てなくてー」

 

女子生徒はこちらを見ると、はにかんで申し訳なさそうに笑う。

引き寄せた際に、明るめに染められた茶色い髪からほのかにシャンプーのいい香りがしてきた。そして聞こえてきたのは、たった一日聞かなかっただけなのにもう随分と聞いていない様な、酷く懐かしい声……。

由比ヶ浜結衣がそこにいた。

 

「由比ヶ浜か…。朝から元気なのはいいけど、お前はもう少し落ち着きを持った方がいいな」

 

ため息混じりに言うと、由比ヶ浜はぽかんと口を開けたままじっとこちらを見ている。不思議に思ったが由比ヶ浜の腕を掴んだままだった事に気付き、俺は慌てて手を放す。

決して普段女子に触れる機会がないから、触れる時に触っとこうとかそういう疾しい考えじゃない…いやマジで。

しかし俺が手を離したのにも関わらず、由比ヶ浜の表情に変化はなく、未だこっちを見続けている。

 

「…どうかしたか?」

 

「あっ、ごめん。比企谷君、私の名前覚えてたんだなーって思って」

 

比企谷君…そう言われ、俺はハッとなる。

この世界では俺と由比ヶ浜はただのクラスメイトでしかないのだ。恐らく、こっちの世界には雪ノ下がいないため、俺が由比ヶ浜の飼い犬を庇って雪ノ下の乗る車に轢かれるという事故が起こらなかったんだろう。結果として由比ヶ浜が俺に対して好意的な感情を持つ事もなく、雪ノ下の姿に感銘を受け奉仕部に入部する事もなかったのだ。

出会い頭の事だったとは言え普段通りに対応してしまったのはマズかった。普通、ピラミッドの頂点に立つリア充がスクールカースト最下位の人間に気安く話しかけられたとなればブチ切れは必至……いや、由比ヶ浜ならそんな事思わないかもしれないが、こっちの由比ヶ浜も同じとは限らない。

 

「いや…なんだ、悪かったな…」

 

「あっ、ううん、そういうんじゃなくて…」

 

謝りながら目を逸らす俺を見て、由比ヶ浜は手をぱたぱたと振る。

 

「ほら、私たち同じクラスだけど話した事なかったじゃん?だから名前覚えててくれて嬉しいっていうかさっ」

 

そう言って由比ヶ浜はにっこりと笑う。それは修学旅行のあの日から久しく見ていなかったものであり、その屈託のない笑顔には懐かしさと安心感があった。

たった一人知らない世界に放り出された俺の目頭と胸の奥がグッと熱くなる。

 

「あっ、そうだジュース!それじゃ比企谷君、私行くねっ」

 

由比ヶ浜は思い出した様に言うと、階段を降りて行こうとする。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 

「ん?なぁに?」

 

咄嗟に呼び止めると、由比ヶ浜はくるりと振り返る。

 

「……」

 

「比企谷君?」

 

「…今日の放課後、部室まで来てくれないか?」

 

「部室…って、たしか奉仕部だっけ?」

 

「あぁ」

 

「…………うん、分かった。それじゃあまたね」

 

由比ヶ浜は少し考えた後そう答えると、笑顔で手を振り足早に階段を降りて行った。

 

 

 

 

 

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「じゃあ、今日はここまで。次回は問4の答え合わせからやるからちゃんと解いておく様に」

 

チャイムが鳴り、午前中の授業が終わる。数学教師が出て行った教室は授業モードから一転して昼食モードへと移行したが、俺は授業中と同じ格好でじっと頭を抱えたままだった。

 

何故俺は今朝、由比ヶ浜にあんな事を言ってしまったのか……自分の軽率な行動を反省する。

いきなり部室に来てくれなんて怪しすぎるだろ。確かにいずれ由比ヶ浜には話を聞こうと思ってはいたが、今来てもらってもどうしようもない。約束通り由比ヶ浜が部室に来たとして、何も分かっていないこの状況で一体何を話す事があるんだろうか。仮に本当の事を言ったとして、いきなり“実は俺、別の世界からやって来たんだ”なんて言おうものなら、いくら優しさに定評のある由比ヶ浜だってさすがにこいつは頭がおかしいと思うだろう。ましてそんな話がクラス中に知れ渡りでもしたら、ぼっちを通り越して迫害対象になるまである。

それに自分の行動を客観的に思い返してみると、初めて会話したクラスメイトの女子に笑顔を振り撒かれ、それを自分だけに向けられたものと勘違いし、挙げ句の果てに放課後に呼び出すというヤバいヤツ意外の何者でもない。

俺は中学の頃と同じ轍を踏もうとしている自分の姿に悶絶し、由比ヶ浜にもそう思われているかもしれないと考え消沈するのだった。

 

ちらりと教室の後ろに目をやると、由比ヶ浜は普段と変わらない様子で三浦たちと弁当を並べていた。

…とりあえずベストプレイスに行こう…そこで昼飯を食いながらゆっくり考えるのがいいだろう。

そう思いため息混じりに身体を起こす。すると、スピーカーからガサリという音とともに放送を知らせるチャイムが鳴った。

 

「二年F組比企谷君。平塚先生が待っています。至急奉仕部部室まで来て下さい」

 

クラスが少しざわりとする。まるで“二年F組ってこのクラスだけど比企谷って誰?”と言う声が聞こえて来る様だ。平塚先生からの呼び出しには慣れてるからいいのだが、そのたびにクラスメイトから“比企谷ってお前かよっ”という注目を浴びなければいけないのは、ぼっちとしてはいささか辛いものがある。

それにこの放送の仕方だと俺が先生を待たせているみたいなんですけど…。今聞いたばかりなのに理不尽じゃないですかね。

いっその事先生にはもうしばらく待ってもらって、俺はベストプレイスで昼飯でも……などと考えていると更に放送が続く。

 

「繰り返しまーす。二年F組の比企谷八幡くん。平塚先生が待ってるので早く部室に来て下さーいっ」

 

クラスのざわめきが大きくなる。

最初の畏まった口調とは一転して急にくだけた言葉遣いになった放送は、まるで友達か知り合いに話しかける様な喋り方だった。それは放送としては全く相応しくなく、下手したら生活指導の教員から教育的指導を受ける程だ。こんな馬鹿げた放送の仕方など教師はしないし、もちろん生徒だってしない。普通の人間はしないのだ。だが、同時に妙に納得している自分がいる。その声、その口調、放送のノイズ越しからでも伝わって来る楽しそうな気配……それらから連想されるあの人ならやりかねない。

そしてそう思った途端、俺は一刻も早く部室へ向かわねばと思うのだった。

 

ざわついていたいたクラスメイトたちはガタリと席を立つ俺に視線を向ける。決して話しかけられる事はないが、クラス中から集まる視線の集中砲火は、何か責め立てられている様でさすがに居心地の悪さを感じる。その中には川崎や海老名のものもあって、説明を求める様こちらを見つめている。

気まずく思いつつも教室を出ようと扉に手をかけた時、周りのそれらとは異なる、張り付く程に妙な視線を背中に感じた。ゾワリとして思わず振り返ると、俺の視線の先にはこっちをじっと見つめる葉山の姿があった。睨んでいる様にも見えるその眼差しは、期待や不安、対抗心や諦めや…他にも様々な感情が複雑に入り交じっている様に感じた。

 

数秒葉山と視線を交わす。それからスッと目を逸らした俺は、葉山のその視線の意味する所を理解しないまま教室を後にした。

 

 

 

 

 

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「失礼します」

 

そう言って俺は部室のドアを開ける。よく考えてみたら断りを入れて部室に入るなんて初めてかもしれない。

部室には放送で聞いた通り既に平塚先生がいて、入ってきた俺を見ると少し驚いた表情をする。

 

「比企谷か。まさか君がこんなにも早く来るなんて思っていなかったよ」

 

「いや、自分で呼び出しといてそれはないんじゃないですかね?」

 

まぁ確かに、あんな放送じゃなかったら確実にベストプレイスに行ってましたけどね。

 

「ところでさっきの放送なんですけど…」

 

「あぁ、いきなりすまなかったな。実は今私の知人が来ていて、君の話をしたら是非見てみたいと言って聞かなくてな」

 

ため息をついた先生は、やれやれといった感じで肩をすくめる。

 

「見てみたいって…俺は動物園の動物か何かなんですかね?」

 

「そんな可愛らしいものじゃないだろ、君は」

 

平塚先生はからかう様に笑う。

 

「…それで、その人は?」

 

「もうそろそろ戻って来ると思うんだが…」

 

そう先生が言うと、示し合わせたかの様に部室のドアがガラリと開く。

 

「ただいまー!あっ、いるいる」

 

そう言いながら嬉々とした表情で入ってきたのは、見た目において欠点が何一つない女性…肩の辺りで切りそろえられた艶やかな髪、袖やスカートから覗くスラッとした手足、服の上からでもわかるほどに強調された胸元。まさに容姿端麗と言うにふさわしく、すれ違えば十人中十人が見惚れるであろう美人…雪ノ下陽乃、その人だった。

予想通りではあるが、やはりいざ目の前にすると身構えてしまう。

 

「初めまして、雪ノ下陽乃です。あなたが静ちゃんのお気に入りの比企谷君?」

 

「……どうも、比企谷です。お気に入りかどうかは知りませんけどね」

 

初めまして…。やはりこの人もこちらの世界では初対面らしい。

雪ノ下さんは握手を求めて手を差し出して来る。俺も反射的にその手を取ろうとしたが途中で思いとどまり、手を引っ込めてからぺこりとお辞儀だけした。

それを見た雪ノ下さんは不意をくらった様でキョトンとする。

 

「ふーん、なるほどねー」

 

そう言ってニヤニヤと笑いながら、覗き込む様にこちらを見てくる。

 

「…俺に、何か用ですか?」

 

「ううん、別に。ただ、静ちゃんのお気に入りがどんな子かなーって」

 

「…そんなわざわざ来てまで見るような面白いもんでもないでしょ」

 

「そんな事ないよ。静ちゃんって面白いものとか変わったもの見つけるのが得意だからね」

 

「俺としてはそっとしておいて欲しかったんですけどね」

 

「うーん、捻くれてるなぁ君」

 

雪ノ下さんは呆れた様に言うが、その表情はやはり楽しそうである。

 

「それよりさっきの放送どうだった?びっくりした?」

 

「そりゃビビるに決まってるでしょ。危うくクラス中の視線に刺し殺されるところでした」

 

俺がため息をつくと、その反応を見て雪ノ下さんは嬉しそうに笑う。その表情や振る舞いからは人当たりの良さが伝わって来る。いかにも人に好かれそうな雰囲気であるが、それは雪ノ下家長女としての外面であって、かく言う俺も初めて会った時はその仕草に惑わされそうになったほどだ。

 

「…ていうか、いいんですか?こんな真っ昼間からこんな所になんか来てて」

 

「あっ、私社会人じゃなくて大学生だよ。静ちゃんとは友達だけど同い年じゃないからね」

 

「比企谷、陽乃は私の元教え子でこの学校の卒業生…つまり君の先輩だ」

 

「そんな事言わなくても知ってますって」

 

「まぁひと回りも違えばさすがに分かるよね」

 

「陽乃…私はまだ二十代だ…」

 

陽乃さんの言葉に反応して平塚先生がポツリと呟いた瞬間空気が凍り付く。シベリア鉄道もかくやというほどの極寒である。逆にもしここにいるのが俺と平塚先生だけなら、怒髪天を衝く勢いで燃え上がった先生の抹殺のラストブリットを食らわされていただろう。

 

「……」

 

失語する俺。アラサーなのに独身であることに危機感を覚えており現在も必死に婚活を続ける平塚先生には、今の雪ノ下さんの発言は相当効いただろう。さすがに可哀想過ぎて俺がもらってしまいそうだ…誰か早くもらってあげて。

 

そんな重苦しい部室内の空気でも、雪ノ下さんはどこ吹く風と言わんばかりに取り留めのない会話を続けた。その間平塚先生は話に入ってくる様子もなく、しゅんとして壁にもたれたまま俺達の会話を聞いていた。

 

雪ノ下さんの話を聞いて分かったことは、こっちの世界でも雪ノ下さんはやはり雪ノ下さんで、相変わらず千葉県内を跋扈している様だった。そして会話の中に雪ノ下雪乃の名前が出て来る事はなく、その存在を感じることはできなかった。

ひとしきり話終えて雪ノ下さんも満足した頃、俺は意を決して質問してみることにする。

 

「あの、雪ノ下さんは…

 

「ん?私のことなら陽乃でいいよ」

 

雪ノ下さんはニコリと笑って言うので、俺は愛想笑いを返して言葉を続ける。

 

「…雪ノ下さんにちょっと聞きたい事があるんですけど」

 

「なかなか強情だねぇ。なぁに?」

 

つれないなぁ、とでも言う様に雪ノ下さんは肩をすくめる。

 

「…雪ノ下さんって妹…いますか?」

 

「…どうして?」

 

少し詰まりながら尋ねる俺に、雪ノ下さんは笑顔で質問を返してくる。

 

「……いや、雪ノ下さんみたいな人が同学年に居たら、俺の高校生活ももっと違ったものになってたんじゃないかと思いまして」

 

俺が頭を掻きながらそう言うと、雪ノ下さんはクスクスと楽しそうに笑う。

 

「確かに私が比企谷君の同級生だったら、君を絶対に退屈させない自信があるけどねー」

 

それからすっと近づいてきて耳元で囁く。

 

「…でも残念。私に妹は居ないわよ」

 

俺はゾクリとする様な感覚を耳元に感じ、慌てて身体を反らして雪ノ下さんを見る。その表情は笑顔のまま崩れることはなく、綺麗に整った容姿も相まって作り物の仮面の様にも見えた。その微笑みの下に隠されている得体の知れないモノが何なのか、俺は知る術を持たない。

 

「けど私と比企谷君みっつしか違わないんだし、高校は無理だけど私と同じ大学に入学してくれたら毎日構ってあげるよ?」

 

雪ノ下さんはトトンと二三歩下がりながら、明るい声でからかう様に言う。

 

「出来たらそれは、遠慮したいですね…」

 

「大丈夫。比企谷君の成績なら、今から死に物狂いで勉強すれば間に合うよ」

 

雪ノ下さんの大学は県内にある国立理工系大学だったか。普通に考えて行く気も行ける気もしない。

 

「まぁ少し考えておいて。いい大学に行く事は君のプラスにもなる筈よ」

 

そう言って雪ノ下さんは時計を見る。気付けばもう昼休みも終わりに近づいていた。

 

「それじゃあ、そろそろ行くね。比企谷君、今度勉強教えてあげるね」

 

雪ノ下さんは手を振りながら俺に向かってウィンクをすると、颯爽と部室を去って行った。

 

 


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