雪ノ下雪乃の消失   作:発光ダイオード

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朝。太陽は弱々しく輝き、風はとても冷たい。わずかに残っていた秋の気配はいつの間にか消え失せ、気づけば季節は今年二度目の冬を迎えていた。

自転車を漕ぐ俺の頬を切るような冷たさで、風が吹き抜けていく。通勤通学の時間帯だが、住宅街ということもあり歩く人は疎らで車通りも少ない。道路沿いの並木もすっかり葉を落とし、細く長い枝が薄曇りの空に向かって伸びている。

しばらく行くと段々と人が増えてきて、道の先に総武高校が見えてくる。この辺りまで来れば、周りを歩くのは前も後ろも総武高生だらけになる。ふと、目の前を歩く女子生徒の姿が目に留まる。明るめの茶髪。サイドで結ったお団子髪が、歩くたびに尻尾のようにぴょこぴょこと揺れている。見知った後ろ姿に、俺はスピードを落として自転車から降りる。ゆっくり近寄ると、タイヤのカラカラ鳴る音に気付いて、彼女はパッと振り返る。すかさず声をかける。

 

「おっす…」

 

「あっ、ヒッキーおはよー」

 

由比ヶ浜は白い息を吐きながら、俺を見るとにっこりと笑った。淡い桜色のマフラーを首許にぐるぐると巻き、両手にはニットの手袋をはめている。冬の冷たい風にも耐えうる、実用的な格好……と思わせて、短く捲り上げられたスカートに踝までのソックス。これはもうほとんど素足と言っていい。上半身に比べて下半身はまったくのノーガード。見ているこっちが寒くなる。

 

「準備はもうすんだのか?」

 

なるべく足元を見ないように校舎を眺めながら訊くと、由比ヶ浜も同じように視線を上げる。

 

「うん。て言っても、ちょっと飾り付けしただけだけどね」

 

「昨日は手伝えなくて悪かったな」

 

「ううん。小町ちゃんのお使いなら、ヒッキー仕方ないよね」

 

由比ヶ浜はそう言うとかたをすくめて、唇の間から歯をこぼした。

一色の急な思い付きからやる事になった、曰く“クリスマスイベントの準備お疲れさまでした&本番頑張りましょう”の会。えらく長ったらしい名前だが、まぁ要するにちょっとした決起集会のようなものだ。

当初の予定では、それはいつもの様にコミュニティセンターて行われる筈だった。しかしその日に限って予約が埋まっていて、どの講習室も借りる事ができなかったらしい。両校で都合を合わせていたため他にずらす事もできず、急遽別の開催場所を探した結果、総武高校の…それも何故か奉仕部の部室でやる事になってしまった。

会場が部室になった手前、由比ヶ浜の提案から部室の飾り付けをする事になったのだが、昨日俺は小町にお使いを頼まれていたので部活には顔を出さなかった。なので、現在部室がどのような有り様になっているのかまだ知らない。さらに言えば、具体的に何をやるのかも知らない。分かっているのは、今日の放課後には海浜高校の連中が部室に集まってくるという事だけだ。

 

「お昼みんなで部室で食べるから、ヒッキーも来る?」

 

由比ヶ浜はこっちに視線を戻す。

部室の事は多少気にはなるが、そのために女子達の昼飯の輪に混ざる程の気概は俺には無い。何かの間違いで一緒に食べることになったとしても、十中八九肩身の狭い思いをする事になるだろう。

 

「…いや、遠慮しとく」

 

校舎の時計は八時半を指そうとしている。俺達は少し歩調を早めた。

 

 

 

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総武高校の鳥瞰図は“ロ”の字に似た形をしている。校舎自体は“コ”の字で、開いた所を塞ぐように体育館が併設されている。もともと船をイメージして建設されたそうだが、度重なる改修により今ではその形状は若干崩れてしまっている。二本の横棒のうち、道路側に面した方は主に通常授業を行う教室棟。正門から見えるアーチ状の階段付きの玄関が、艦橋に見立てて造られている。もう一方が理系科目や芸術科目用の特別棟で、水面に浮かぶ様子でも表しているのか、こちらにはグラウンドが広がっている。縦棒は船主か船尾かはわからないが、もうひとつの校門に面していて、コの字の中心には一般棟と特別棟を繋ぐ連絡通路が架かっている。本当に鳥瞰したなら、校舎からいくつか渡り廊下が延びているのも見えるだろう。その先には図書館や合宿所などがある。

ちなみに、“ロ”の字の内側はリア充達の憩いの場……中庭である。

 

奉仕部が使っている教室は、特別棟の三階にある。それも廊下のどん詰まり、角部屋だ。うちの高校は文化部もそれなりに活発的で、この特別棟でも多くの生徒が部活動をしている。が、そういう活気は渡り廊下あたりを過ぎると次第に薄れてくる。奉仕部の部室の前まで来れば随分殺風景になり、辺りも一気に静まり返る。

総武高校という小世界にあって、これはほとんど辺境の地といってもいいだろう。普段は不便さへの呪詛と静謐さへの感謝が入り混じる立地条件だが、今回の決起集会にあってはもうひとつ別の考慮すべき事情が加わる。こんな校舎の隅っこに、果たして海浜高校の連中が迷わず来れるのかという懸念だ。加えて、奉仕部の存在は本校の生徒ですら知っている奴は少ない。そんな知名度を合わせて考えれば、なにも知らない他校の生徒が奉仕部の部室を見つけるのは、さぞ難しい事だろう。

 

 

 

 

「そろそろかな?」

 

「そうだねぇ」

 

由比ヶ浜が窓の外を見ながら呟いた。さっきから部室の中を行ったり来たりと、落ち着きなく歩き回っている。海老名も相槌を打ちながら、由比ヶ浜の隣に立って同じ様に外を眺める。時刻は四時過ぎ。確かに、そろそろ海浜高校の奴らが来てもいい頃だ。

 

「まぁ、そのうち来るだろ」

 

俺は、読みかけていた本に栞を挟んで机の上に置く。

どこの高校でもホームルームが終わるのがだいたい三時半くらい。それから校門に集まって学校を出て……ゆっくり来たとしても、四時半にはこっちに着くだろう。しかし、それよりも…

俺はぐるりと周りを見回す。部室には部員である俺と川崎と海老名、それに由比ヶ浜と三浦の五人。普段から部室に居る、いつも通りのメンバーだ。日常であればそれでよかったのかもしれないが、生憎今日は非日常。恐らくあと三十分もしないうちに海浜高校の連中がやって来る。にも関わらず、真っ先に来るべき奴の姿がまだ見当たらない。

相変わらずお気楽な奴だ。そう思った矢先、背後で扉が引き開かれる音。

 

「みなさん、準備できてますかー?」

 

一色だ。入ってくるなり、右手を高々と掲げて叫んだ。相変わらずノックはない。川崎はもう諦めたように静かにため息をつく。そんな事は全く気にしない様子で、一色は部室をぐるりと見回して、

 

「いい感じじゃないですか」

 

と、弾んだ声を上げてニコリと笑った。

いつも部屋の中央に置かれている長机は、畳んで隅に片付けられていた。替わりに、後ろに下げられていた学習机を四つ一纏めにした島が三組。黒板から見て前方に二組、後方に一組、Vの字を書くように並べられている。今俺が座っているのも後方のテーブルだ。テーブルの上にはそれぞれお茶やジュースのペットボトルと紙コップ、それにチョコレートやクッキーなどの菓子類が盛り付けられた木製のトレンチが置かれていた。

壁は紙の輪っかで作られたリースやモールが、部室をぐるりと一周する様に張り巡られている。窓ガラスには紙を切り抜いて作ったサンタやトナカイといった、クリスマスモチーフのオーナメントが貼り付けられている。どれもクリスマスイベント用に作った飾りの余りだ。昨日一日で準備したにしては、割とそれらしく飾り付けられている。

他の生徒会のメンバーも、ささやかなおもてなしの施された部室に感心したように視線を巡らせる。一色は振り返りながら、最後に入ってきた生徒に訊く。

 

「葉山先輩もそう思いません?」

 

誰だって?

思いもしなかった名前を聞いて扉の方へ目を馳せる。そこにいたのは、やはり葉山だった。

 

「なんでお前がいんだよ」

 

率直な疑問が口を衝いて出る。

 

「俺はいろはに言われて来ただけさ」

 

葉山は薄く笑って、肩をすくめた。

眉根をひそめたまま視線を葉山から一色に移すと、一色はやれやれという様に深いため息をつく。

 

「葉山先輩だって手伝ってくれたんですから、来てもらうに決まってるじゃないですか」

 

それは理解できるが、そうならそうで先に言って欲しい。

それから一色は、

 

「それに、葉山先輩がいた方が向こうの女の子の受けもいいですし…」

 

と、小さく付け足した。

 

「戸部っちは?」

 

「そいやアイツもいたっけ」

 

海老名がキョロキョロと葉山の後ろを見ながら訊くが、部室の外に誰かいる気配はない。

 

「戸部は部活だよ。俺も少し顔を出したら行くつもりだ」

 

葉山はそう言うと、後ろ手に扉を閉めた。

 

 

 

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それからさして長くない時間が経ち、再び部室の外から騒がしい声が聞こえてくる。先ほどよりも明朗とした、談笑の混じった声だった。

奉仕部の部室は角部屋で、その先に他の教室はない。つまり、部室の前を通り過ぎる人間はいないのである。稀に吹奏楽部員が廊下の隅に楽器を鳴らしに来るが、そういうのを除けば、ここまで来るのは必ず奉仕部に用がある人間だ。

どうやら海浜高校の連中が到着した様だ。足音は部室に前で止まり、話し声も小さくなる。コンコンと二回ノックの音が鳴り、僅かな沈黙が後に続く。

 

「…失礼します」

 

扉が静かに引かれ、様子を伺う様に玉縄が顔を覗かせた。俺たちの顔を見ると、強張った顔がほっとしたように相好を崩した。

 

「お招きありがとう。こうやってゲストとしてインビテーションされた事を、とても嬉しく思うよ。今日はより良いパートナーシップを築いていこう」

 

大袈裟に扉を開くと、玉縄は意気軒昂と部室に入って来る。若干のウザさが漂う。それに対して一色のは、のらりくらりと立ち上がって玉縄の方へ体を向ける。

 

「遅かったですねぇ」

 

「いやあ、ちょっと色々とね…」

 

玉縄が言葉を濁すと、後ろから折本がカラカラと笑いながら顔を覗かせる。

 

「総武高までは普通に来れたんだけど、ガッコの中に入ってから会長ちょっと迷ってさ」

 

「いやっ、話しかける人全員が場所を訊いても知らないなんて思わないじゃないか、普通」

 

やっぱり迷ったか。頬を赤くする玉縄に、心の中で合掌を贈る。

 

「それなら連絡してくれたら迎えに行ったのに」

 

由比ヶ浜も近づいて来ると、折本は掌をひらひらとさせながらかぶりを振る。

 

「ありがと結衣ちゃん。でも雪ノ下さんが分かるっぽくてさあ。皆でついて行ったんだー」

 

「雪ノ下先輩、場所知ってたんですか?」

 

一色は声を張り気味に、折本のさらに後ろ…雪ノ下に訊ねる。確かに海浜高校の生徒である雪ノ下が、奉仕部の場所を知っているなんて普通は思わない。

俺達の視線が集まる中、雪ノ下は一歩前に出る。それから、ひとつ呼吸をして見せる。

 

「前に一度、姉さんに連れられて来たことがあるの」

 

雪ノ下姉は総武高校の卒業生だ。平塚先生の話では、優秀だが真面目な生徒ではなかったらしい。在学中にまだ中学生だった雪ノ下を招き入れていたとしても不思議じゃない。

 

「よく覚えてましたね。一回しか来てないのに」

 

一色がふっと笑みを浮かべると、雪ノ下は淡々とした表情で見つめ返す。

 

「…一回で十分でしょう?」

 

…なるほどな。

雪ノ下はこの話はもう終わりとでも言う様に一色から視線を外すと、今度は俺の方に視線を向ける。柳眉は僅かに釣り上がり、心なしか気色ばんで見える。

 

「…何だよ」

 

「いえ別に。ただ、比企谷君もいるのねって思っただけよ」

 

何?いちゃいけないの?

 

「こういう集まりには参加しないんだと思ってたわ」

 

「一応部長…だからな」

 

慣れないセリフに若干言葉が詰まる。それを誤魔化す様に続けて、

 

「お前こそ、こういう集まりに参加するなんて珍しいじゃねぇか」

 

と言うと、雪ノ下は唇を尖らせ、やがて小さくため息をついた。

 

「私だって来る予定は無かったわ。家で読書している方がよっぽど有意義だもの」

 

目を伏せる雪ノ下に、由比ヶ浜がずいっと詰め寄る。と、見ているうちに、由比ヶ浜の頬が膨らんできた。

 

「私は嬉しいよっ。ゆきのんと一緒にこういう事できてっ!」

 

由比ヶ浜は雪ノ下の手を両手でぎゅっと握りしめる。

ほのかに桜色をした雪ノ下の頬が、ポッと赤らんだ。

 

 

 


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