葉山は三浦を連れて講習室を出て行った。
まだ夕方だというのに、室内には雪夜のような静寂が冷え冷えと広がる。参加したメンバーのほとんどが雰囲気の悪さに気を揉んでいる様子だったが、玉縄だけは普段と変わらない調子で会議を始める。もともとそういうのを気にしない性格なのか、それとも気付かないほど鈍感なのか…。しかし逆にそれが良かったらしく、いつもなら癪に障る玉縄の意識高い系のカタカナ語も、だんだんとエスプリの効いたジョークに聞こえてくる。次第に周りの気持ちもほぐれ、クリスマスイベント当日の動きの説明と役割分担が決まる頃には、みんないつもの調子に戻っていた。
その後はそれぞれ自分たちに割り当てられた作業に移る。さっきまで静かだった講習室も、人数が増えたことから、むしろいつもより賑やかになった。友達と話しながら作業をしている奴らもいるが、聞こえてくる内容のほとんどは、さっきの雪ノ下と三浦のやりとりと葉山についてだった。
雪ノ下は居心地が悪かったのか、会議が終わってすぐ講習室を出て行ってしまった。
そんな様子を眺めながら、机の端でひとり会議の議事録を纏めていると背中越しに声が掛かる。
「随分順調に進んでるみたいだな」
動かしていた手を止めて、机の上にシャーペンを置く。心の中で三つほど数えてゆっくり顔を上げると、葉山がこっちを見下ろすように立っていた。
「……そっちはもういいのかよ」
「あぁ。だいたい説明して、とりあえず解ってもらえたよ」
質問には答えず逆に質問を返したが、葉山は気にする様子を見せずに講習室の後ろを眺めた。視線の先には三浦がいた。いつの間にか戻って来て、由比ヶ浜たちと一緒に喋りながら作業をしている。
とりあえず…と言うくらいだから、恐らく三浦は心の底から納得した訳じゃないだろう。葉山の言うことなら何でも聞いてしまうあいつの性分を、葉山自身わかっているはずだ。今も心の中で何を思っているのか、俺には想像もつかない。
まぁ、なんにせよ俺がとやかく口出しする事じゃない。
「つーか、なんでここにいんだよ」
そう訊くと、葉山は思い出したように、
「そうだ、さっきは助かった。比企谷に知らないなんて言われてたら、今頃雪ノ下さんに追い出されてたよ」
と言って、肩をすくめる。
「お前に手伝いなんて頼んだ覚えないんだけど……」
「人数が集まってなかったんだろ?丁度よかったじゃないか」
からかうように微笑むと、葉山は手近な椅子を引いて腰掛ける。
「それとも、今からでも雪ノ下さんに言い直してくるか?」
確かに俺は助っ人を三人しか集められなかった。葉山(あとついでに戸部)が来なかったら、確実に雪ノ下に罵られていただろう。
「……言い直すもなにも、俺は最初から何も言ってねぇよ。単に雪ノ下が勘違いしただけだ」
勝手に勘違いしたものを、無理に訂正することもない。
「そうか」
そう頷いて葉山は笑った。
「で、何しに来た?」
「言ったろ?頼まれて比企谷の手伝いをしに来たって」
葉山はテーブルに両腕を載せて少し身体を預ける。素直に答える気のないつむじ曲がりな言い方に、俺は思わず眉をひそめる。
まぁ、だいたいの予想はつく。葉山は頼まれて来たと言っただけで、誰に頼まれたかは言っていない。勿論、俺が頼む訳はない。つまり俺以外の誰かが俺を手伝うように葉山に頼んだってことだ。
クリスマスイベントの手伝いなら生徒会長の一色、もしくは家族ぐるみで付き合いのある雪ノ下を手伝うのが普通だろう。わざわざ友達でもない只のクラスメイトの手伝いなんて、余程の事がなきゃしない。それに既に俺が一色の手伝いをしているのに、その手伝いの手伝いなんておかしな話だ。
そんな訳のわからない事を言われて、葉山が言うことを聞く相手はひとりしか思い浮かばない。
「……雪ノ下さんに何か聞いたか?」
「いや、陽乃さんには比企谷を手助けしてやれって言われただけさ。それが雪の……雪ノ下さんのためだって」
俺がそう言うのを予想していたのか、葉山は驚いた素振りも見せずに二、三どうかぶりを振って淡々と答えた。
「気にならないのか?」
「気になるって言ったら教えてくれるのか?」
「……」
単純な疑問が口をついて出たが、返って来た言葉に俺は口を噤む。睨み合うように互いに視線を交わし、葉山はフッと小さく息を吐く。
「俺がどんなことを思っていても、たぶんあの人には伝わらないよ。比企谷にはわからない話さ」
そう言って、無理に笑おうとでもしたような表情で俺を見る。それは、雪ノ下さんに校内放送で呼び出された時に向けられた、睨んでいるようにも見える眼差しとよく似ていた。
「葉山先輩っ」
不意に、明るい声が飛んでくる。若干の気まずさもあったので、すぐに葉山から視線を逸らすと一色がゆっくりと近寄って来ていた。
「ちょっとこの書類の書き方がわからないんですけど」
一色は手に持っていたA4サイズのプリントを差し出す。葉山はそれを受けとると、机に置いて少し俺の方へ寄せる。横目に見るプリントにはなんだか見覚えがあった。
「いや、お前この間普通に書いてたじゃねぇか」
なんでわざわざ、しかも今日来たばかりの葉山に聞くのか。
「まぁ、いいじゃないですか」
一色は手をひらひらと振って、柔らかく笑う。
「それに葉山先輩がこんなところにひとりでいたら、女の子達にすぐ囲まれちゃいますよ」
「いや、ひとりじゃないだろ」
室内という単位で見れば人は大勢いるし、半径1メートルの範囲で考えれば少なくとも俺がいる。
「なに言ってるんですか。先輩なんて誰も眼中にないんだから、見えてる訳ないじゃないですか」
一色は辛辣な言葉をさも当然の様に言ってくる。こいつも大概失礼な奴だ。しかし、あながち間違ってもいないので否定も反論もできない……。
ちらりと周りを見わたすと、一色の言うとおり数人の女子達がこっちを気にしているのがわかる。確かに葉山に気がある奴らからすりゃ、周りにいる男子はみんな背景としか映らないだろう。仮に映ったとしても、それはもうただのお邪魔虫だ。
「どこ行くんです?」
のそりと席を立つ俺を見て、一色は首を傾げる。
「……休憩だよ。下で飲み物買ってくる」
そう言って、俺は講習室を後にした。
------------------------------
「何か隠してる事ない?」
朝のカフェテラスに一陣の風が吹き抜ける。
内心の動揺が表に出たとは思わないが、雪ノ下さんは全部お見通しだと言わんばかりに鋭い目つきで俺を見つめる。目は口ほどに物を言うとはよく言うが、その瞳はまさにこの人が何を考えているのかを雄弁に語っていた。隠しても無駄だ。さっさと白状しろ。そんな声が頭の中まで響いて聞こえる。
……そして俺は、今日までの事全てを雪ノ下さんに話していた。
・
・
・
「そうなんだ……。大変だったね」
話を聞き終えた雪ノ下さんは、静かに呟いた。気がつけば、さっきまでの威圧感はいつの間にか消えていた。
「信じるんですか?」
自分で話しておきながら、予想していなかった反応に思わず声が上ずる。
「んー、比企谷君の話だけ信じるのはちょっとねぇ……。ほんとにそうならすごいけど」
雪ノ下さんはからからと笑う。
ぬか喜びをしたみたいで若干恥ずかしくなるが、むしろこの反応のほうが正しいはずだ。いきなり別の世界から来たなんて言われて信じるほうがどうかしてる。
「それで、比企谷君はこれからどうするの?」
雪ノ下さんは興味が出たのか、身体を丸テーブルに寄せる。
やはりこの人が苦手だ。どこまで本気で言っているのか分からない。しかし、今更誤魔化す意味もない。
「……雪ノ下に話そうと思います」
「雪乃ちゃんは信じてくれるかな?」
「どうですかね。けど、まぁ邪険に扱われることはないと思います……たぶん」
俺だけならどうか分からないが、由比ヶ浜もいるしたぶん大丈夫だろう。
「ふーん……信頼してるんだね、雪乃ちゃんの事」
雪ノ下さんはそう呟くとすっと右手を上げる。店主がやって来て、空になったのコーヒーカップをトレーに下げる。雪ノ下さんは同じコーヒーをもう一杯頼む。店主は俺にも注文を聞いてきたが、俺は大丈夫と言って断った。
店内に戻る店主の背中を眺めていると、店の中に客の姿が見えた。気付けば、他の商業施設もオープンしだす時間になっていた。通りにも徐々に人が増え始め、少しずつ賑わい始めている。
再び居直ると、雪ノ下さんは肩肘をつきながらこっちを見ていた。
「わたしも手伝ってあげよっか?」
不意の言葉に、俺は返事をするのを忘れて雪ノ下さんをただ見つめ返す。
「……正直に言うとね、その話が本当か嘘かなんてどっちでもいいの。けど、比企谷君が雪乃ちゃんにとって特別だってことはわかったわ。
だからもし、比企谷君がその話を雪乃ちゃんにして、それが雪乃ちゃんが変わるきっかけになるなら……」
雪ノ下さんは、ふっと短く息をつくと俯いて、微かに笑った。
「私も手助けしてあげる」
俺はなにも答えなかった。
協力してくれるのは有り難いが、雪ノ下さんの言ってる事がいまいちよくわからない。雪ノ下が変わるとはどういうことだ?また何かよからぬ事を企んでいるんだろうか……。
雪ノ下さんは再び顔を上げると、
「やだなぁ。なにも裏なんかないよ。ただ、私がしたいって思っただけ。それに、それほど期待してるわけじゃないから」
と言って、大げさに手を振った。
暫くすると、店主がコーヒーを運んでくる。雪ノ下さんはカップに二、三度息を吹きかける。ゆっくりと口をつけ、こくりと小さく喉を鳴らした。
「それにしても、そっちの世界の私はまだ雪乃ちゃんにそんなちょっかい出してるのね。妹が可愛いのはわかるけど」
妹が可愛いというのには概ね賛成だが、ちょっかいという言葉では収まらないくらいに……
「かなり当たりが強かったと思うんですが」
「そう?雪乃ちゃんを好きって気持ちが溢れてるじゃない」
雪ノ下さんは手にしたカップを中空で揺らしながら、中のコーヒーを見つめる。
「まぁ、諦めが悪いと言うか何というか……随分と愚かしい事をしてるのは確かね」
呟くように言うと、俺を見ながらうっすら笑顔を見せた。
皮肉めいたその笑いは俺に向けられたのか、それとも自分に向けたのかわからないが、どこか割り切れない感情を伴っているようなぎこちなさがあった。
「私もね、何年か前まで同じような事をしてたわ。私の後を追ってくる雪乃ちゃんはすごく可愛かった。でもそれって雪乃ちゃんのためにならないじゃない?ちゃんと自分で決めて欲しい。楽な道を選んで欲しくない。
だから、時には辛く当たったわ。それが雪乃ちゃんのためだと思わない?」
俺に考える間を与えず、雪ノ下さんは言葉を継なぐ。
「まぁ、嫉妬が全くなかったとは言わないわ」
苦笑いを浮かべ、雪ノ下さんの手が固く握られる。
「けれど、私はやり過ぎた。ある日、とうとう雪乃ちゃんは泣き出した」
「……」
「小さな子供みたいにわんわんと。そりゃもうビックリしたわ。でも、それを見た時思ったの。あぁ、この子は本当に私がいないとダメなんだ、何一つ自分で決める事もできない可哀想な子なんだ。私がこれから全部決めてあげなきゃってなってね。
そう思ったら、なんだかすごく愛おしい気持ちになったわ。これが愛じゃないなら、なんて言うのかしらね。」
優しそうに言うと、雪ノ下さんはコーヒーカップをソーサーに戻す。かちりと小さい音が鳴る。
雪ノ下さんが言うことも、わからなくはない。俺だって一生小町を構っていたいと思う事もある。だけど、雪ノ下と奉仕部で一緒に過ごした日々を思い出すと……、あいつのしてきた事を無下にはできない。
「雪ノ下を海浜高校に行かせたのもそうなんですか?」
「そうよ」
「同じ高校の方が良かったんじゃないですか?雪ノ下もそう望んでたみたいだったし」
雪ノ下さんはきょとんとした表情をする。
「知ってる?雪乃ちゃんって優秀なのよ」
「そりゃまぁ」
「可哀想じゃない?勝手に姉と比べられて、勝手に落胆されるなんて」
雪ノ下さんが笑いながらそう言った時、一瞬だけ笑顔の仮面が歪んで見えた。それは氷を毛布で包んだような、思わず背筋がゾクリとする笑顔だった。
------
カフェでの会話を思い返しながら、俺はコミュニティセンターの階段を降りていく。
雪ノ下さんに話した時点で他にも知られる覚悟はしていたが、結局雪ノ下さんは葉山に何も言わなかったらしい。俺としてはその方がありがたいが、なにも知らされていない葉山を少し不憫に思う。少しくらい教えてやってもいいのにとさえ思ってしまう。
それにしても…葉山も葉山で、何も知らないまま、よくもまぁ言うことを聞く気になったもんだ。
一階に降りて、自販機で缶コーヒーを買う。ここにはマッ缶が売ってないのでいつも別のコーヒーを選んでいたが、ずっと飲み続けていせいか味に慣れてきて、今では結構気に入ってきている自分がいた。というか、今月はマッ缶よりも飲んでいる気がする。
缶コーヒーで手を温めながら周りを見回すと、ベンチに雪ノ下が座っているのが見える。どうやらここで時間を潰していたようだ。俺は気付きやすいように、わざとらしく正面からゆっくり近づく。
「お前も休憩か?」
雪ノ下は俺に気付くと、少し左にズレながら座り直す。
「少し気を落ち着けてただけよ」
俺が隣に腰掛けると、こっちを見ないまま、
「三浦さんの様子はどう?」
と、訊いてくる。
「さっき戻って来て、由比ヶ浜達と一緒に作業してたよ」
「そう……」
雪ノ下は少しほっとしたような、安堵の表情を戻見せる。
元の世界でも雪ノ下は三浦と度々言い合いをしていた。林間学校では厳しく論破して泣かしてしまったこともあったらしい。いつでも冷静に見える雪ノ下も、さすがに人の涙には弱いらしく、こっちでも自分の負けん気の強さは多少気にしてるようだった。
「そう言えば、葉山君と知り合いだったのね」
葉山と聞いて、ピクリと身体が反応する。雪ノ下はいつもの表情に戻っていた。
「別に。クラスが一緒ってだけだよ」
「それにしては随分と打ち解けてたみたいだったけど」
「どこがだよ」
あの状況…しかもあんな短い時間で、なぜそう思えるのか理解できない。
「葉山君っていつも周りに対して笑顔でいるじゃない?でも、さっき比企谷君に見せた態度はそうじゃなかった」
「……それって全然打ち解けてなくない?」
「普段とのギャップから不遜な態度にも見えるけれど、たぶん対等でいたいっていう気持ちの表れだと思うの。そういう関係を友達と呼ぶんじゃないのかしら」
「よく見てんだな、葉山のこと」
缶コーヒーを手の中で転がしながら言うと、雪ノ下は小さくため息をつく。
「小さい頃から付き合いがあるだけよ」
「前に、三浦にも似たようなこと言われたよ」
「そう……。本当に葉山君のことが好きなのね、彼女」
雪ノ下はそっと呟いて、ロビーに視線を彷徨わせる。
ふっと、図書館の扉が開く。出て来たのは小学生で、学校帰りだったのかランドセルを背負っていた。男子ひとりに女子ふたり。三人は仲良さそうにコミュニティセンターを出て、冬の夕暮れに消えて行く。その様子を、雪ノ下は物憂げな表情で眺めていた。