東京湾からの海風が落ち葉を吹き散らす今日この頃。一日の授業が終わって、クラスメイトは部活や委員会など思い思いの場所へ散っていく。
学校を出た俺は、いつものようにコミュニティ一センターに向かってゆらゆらと自転車を漕いでいた。偉いもので最初の頃はペダルを回すのも億劫だったコミュニティセンターまでの道のりも、いつの間にか躊躇うことなく向かえるようになっていた。放課後になれば、当たり前のようにコミュニティセンターに足を運び、逆にそうじゃない日には違和感さえ覚える…恐らく多くの社会人も、こうやって社畜に調教されていくのだろう。
そんな通い慣れたはずの道のりだが、今日はなんだかいつもと違った。一転して気が進まない。
何故そう感じるのかと言えば……休日に色々と厄介事に巻き込まれたからかもしれないが、やはり一番の原因はこれから行われる会議のせいだろう。
今日の議題は、イベント当日の役割分担とその動きの確認だ。両校の生徒会役員と会議に参加しているサポートメンバー、それに当日手伝ってくれる助っ人が一堂に会する、全員参加のミーティングになる。
それ自体は別にいいのだが、問題は俺が助っ人を集めることができなかったということだ。人数の関係から各校五人ずつ…合わせて十人ほど助っ人を集める予定だったが、結局俺は三浦と川崎と海老名の三人にしか頼めなかった。俺は物事を綿密に分析し尽くした挙げ句、おもむろに万全の対策を取る男だ。むしろ万全の対策が手遅れになることも躊躇せずに分析するまである。しかし今回は、休日雪ノ下さんに呼び出されたせいでほとほと疲れ果て、分析することはおろか会議の存在すら忘れてしまっていた。
先日雪ノ下が俺を罵った時に見せた、目の据わった笑顔が脳裏に浮かぶ。このまま会議に参加しても、確実に雪ノ下に罵られるだろう。かといって会議をサボれば、それもやっぱり罵られるだろう…。
どう転んでも無傷じゃすまない。
「はぁ…」
ため息混じりの吐息が、舞っては後方に消えていく。寒風は向かい風のように吹きつけ、回すペダルも心なしか重い。
何も考えず能天気にいられたらどれだけ楽なことか…。
少しでも時間を稼ぐために愚策を巡らせた俺にできるのは、自転車を漕ぐ足を緩めて、いつもと違うルートでコミュニティセンターへ向かう事ぐらいだった。
勝手知ったる通路を避けて、いつもは通らない道を辿って行く。
風の通り道になっているのか、車幅の狭い通りに沿岸から冬の冷たい風が吹く。住宅街に差し掛かり公園の前を通り過ぎる時、一本足の東屋の軒下に猫がいるのを見つけた。こんな寒い中、気持ちよさそうに身体を丸めてくつろいでいる。黒い毛並みの、なんだかツンとした顔の猫は、どことなく雪ノ下に似ている。
「よう」
自転車を停めて片手を挙げると、ブレーキは思いの外大きな音を立てる。びっくりしたのか猫は逃げてしまった。悪いことをした。もう少し静かに近づいていたら、三十分は時間を潰せていたかもしれない…。
再びコミュニティセンターに向かって自転車を漕ぎ始めると、知らない路地が増えてくる。高校に入学してから毎日のようにこの辺りを通っているが少し道を変えるだけで見知らぬ場所に行けるのだから、随分と安上がりな生き方をしている。まぁ、俺は由比ヶ浜のように方向音痴じゃないし、場所もそんなに離れているわけじゃないので多少道を変えたところで迷うことはない。ここをこう、こう、こう行って、だいたいここを曲がれば…。
角砂糖を積み上げたような真っ白な建物が姿を現した。
自分の土地鑑に満足する反面、結局いつもとあまり変わらない時間にコミュニティセンターに着いてしまい、なんとも複雑な気持ちになる。
のろのろと駐輪場に自転車を留めて、やおら建物の前に立つ。徐に、茶色く出っ張ったポーチを見上げる。
「たかすこみゅにてぃいせんたあ」
なんとなく読んでみた。ぴゅうと風が吹いて、同時に急に虚しくなった。俺はいったい何をしてるんだろうか。
さすがにこんな遅延行為を重ねてもなんの意味もないだろう。むしろこんな所を雪ノ下に見られては余計に怒られる。さっさと覚悟を決めて行った方がよさそうだ。
俺は数秒立ち尽くした後、はたと思い出したように入り口の階段を登っていった。
建物の中に入ってすぐ、自販機に備え付けられたベンチに人が座っているのが見えた。川崎だ。学校を出る時は由比ヶ浜達と一緒だったはずだが、その姿は見当たらない。ひとり背もたれに身体を預けて、天井に視線を漂わせながら手にしたペットボトルを弄んでいる。
「ひとりか?」
無造作に近づいて声を掛けると、川崎は上を見上げたまま視線だけこっちに向ける。
「…あいつらなら二階にいるよ」
気怠そうに返事をして、視線をまた元に戻す。
「おまえは行かないのか?」
「行ったけど、下りて来たの」
川崎は眉根を寄せながら、のそりと身体を起こすと、
「正直、ああいう雰囲気苦手なんだよね」
と言って、あからさまにため息をついた。
「あんたもそうでしょ?入り口でぼーっと突っ立ってるくらいだし」
どうやら見られていたらしい。建物に入ってすぐ川崎に気付けるくらいだから、当然こっちからも俺の姿が見えたのだろう。もう少しシャキッと入ってくればよかった。
川崎は俺と一緒でぼっ…独りを好むタイプだ。他人と一緒になにかをやるのは苦手だろうし、大勢の人間がいるところをあまり好まない。加えて上にいる連中は大半がリア充で、且つウェイ系の割合も多い。仕事じゃなかったら絶対に関わりたくない人間ばかりだ。
「まぁ、なんだ…無理に来てもらって悪かったな」
「別にそういう意味じゃなくて…」
なんだか申し訳なくなって謝ると、川崎はもう一度、今度はわざとらしさのないため息をついた。
「つーか、あんたこそ大変だったでしょ。ずっとあんな連中の相手して」
「別に。仕事のうちだよ」
「なにそれ」
俺が苦笑いをすると、川崎も小さく笑みを返した。
「そういや川崎、お前料理は得意なんだよな?」
「得意っていうか、まぁ一通りはできるけど…」
川崎は少しだけ声を上ずらせる。口ではそう言うが、弟妹の面倒をみているだけあってそれなりに自信はあるらしい。
「ならケーキとかクッキーとか、お菓子は作れるか?」
「…いやっ、私お菓子とか地味なのしか作れないし…」
「地味ってどんな?」
言いづらいのか川崎は口をもごもごと動かして、
「お団子とかおまんじゅうとか…」
ぽつりと呟いた。
……地味だ。
二階に上がると、一階の静謐さとは打って変わって騒めきが響いていた。普段は足音くらいしか聞こえない廊下に広がる声は、どうやえら講習室から漏れてくるようだ。中からは人の気配も伝わってくる。普段とは違うその賑やかな雰囲気から、今日呼んだ助っ人達の声だ。
リア充の波動を感じる。
気圧されながらも近づいて行くと、講習室の後ろの扉が開き、中から由比ヶ浜が顔を出した。きょろきょろと当たりを見回して俺と川崎を見つけると、ほっとしたような表情をする。
「ふたりとも!ちょうどよかった」
「どうかしたの?」
「早速、問題でも起こしたか?」
「ち、違うし」
「…じゃあ、なんなんだよ」
そう訊くと由比ヶ浜は視線を逸らし、曖昧に言葉を濁す。
「いやぁ…、これから起こりそうっていうか起こるかもっていうか…」
なんだか嫌な予感がする。
由比ヶ浜に引かれるように室内に足を踏み入れると、廊下まで響いていた声はよりはっきりとに聞こえるてきた。各校の生徒は幾つかのグループを作り、ロの字に並べられた机の左右に分かれて、和気藹々と話をしている。
そんな中、講習室の後ろで他とは違う雰囲気を醸し出しているのは、雪ノ下と三浦、それに海老名の三人だった。雪ノ下と三浦は黙って互いに睨み合い、その横で海老名は居心地悪そうに愛想笑いを浮かべている。
「あんたが雪ノ下さん?」
三浦は腕を組みながらそう訊いた。声にはあからさまな険があったが、雪ノ下は臆することなく睨みを返す。
「そう言うあなたは随分な礼儀知らずで、おまけに世間知らずみたいね。人に名前を訊ねる時はまず自分から名乗るって小学校の時に習わなかったかしら」
「え、えっと。雪ノ下さんっ。この子は三浦優美子。わたし達結衣の友達なんだけど、今日は比企谷君に頼まれてイベントの手伝いに来たのっ」
海老名が慌てて雪ノ下と三浦の間に割って入る。
いつもは素知らぬ顔でひょうひょうと物事をやり過ごしている海老名だが、ふたりの鋭い剣幕に挟まれて浮き足立っていた。見ているこっちまでハラハラする。
「あなたは?」
「あっ、私は海老名姫菜」
「そう、助かるわ海老名さん。でもそっちの彼女は、とても手伝いに来たようには見えないのだけれど」
「はぁ?」
三浦の声に剣呑さが増し、それに合わせて雪ノ下も柳眉を逆立てる。
周りで話してた奴らもその険悪な雰囲気に気づいて、ふたりに視線を向ける。
「ちょっとヒッキー」
由比ヶ浜は俺の袖をついついと引っ張る。耳許に顔を近づけると、内緒話の様に小声で囁く。
「あのふたりなんとかならない?」
「………」
こいつは俺にあのふたりをどうにかできると思ってるんだろうか。
ご冗談を。そんな無茶言われても困る。
「ヒキオから聞いたけど、雪ノ下さんなんか隼人と付き合ってるって噂流してたらしいじゃん」
三浦は組んでいた腕を解いて腰に当てる。雪ノ下の眉がピクリと動いた。
クリスマスイベントの助っ人を頼む時、俺と由比ヶ浜は葉山のうわさ話の真相を三人に話した。雪ノ下はあまり知られたくないと言っていたが、由比ヶ浜はいずれ三浦たちには伝えた方がいいと思っていたらい。同じグループの仲間であるあいつらには知る権利があるということだそうだ。
俺からすればグループの仲間とか知る権利とかはどうでもよかった。どのみち会議に参加すれば、嫌でも知る事になるからだ。しかし、だったら変に隠すよりも先に言ってしまった方が後々禍根を残す事もない。
そう思って伝えたのだが…やはりそう上手くはいかないらしい。
「…そういうことね。大体わかったわ」
雪ノ下の表情から少しだけ険しさが抜け、同時にわざとらしく溜息をついた。
「なにがよ」
「要するにあなたは葉山君のことが好きで、噂話の相手である私が気に入らないんでしょう?」
「はぁ?何言ってんのよ」
三浦の頬がふわっと赤くなる。
「隠さなくてもいいわ。うちの学校にも似たような女子たちが山ほどいるもの。
まぁ、影でこそこそ言わないで直接言ってくる分、あなたの方がずっと好感が持てるけれど」
「隼人や周りの人をどれだけ振り回してるかわかってんの?」
「あなたはどうか知らないけれど……周りの人達が何もしてこなければ、そもそもこんな事する必要なかったのよ」
雪ノ下は冷ややかな笑みを浮かべて、自分の髪に二三度手櫛をかける。
「よく知りもしない人達からおかしなちょっかいを出される気持ち、あなたにわかる?」
『自分に悪い虫が付かないように姉さんが噂を流した』
前に雪ノ下が言っていた言葉が頭の中で甦る。その時はなんとなく聞き流していたが、今の言葉を聞いてそれは理由の一つに過ぎなかったことに気付く。
雪ノ下が告白してくる男子を片っ端から振っていたとすれば、振られた男子の中に雪ノ下を悪く言うやつがいてもおかしくない。加えてそいつの事を好きだった女子やその取り巻き、もともと雪ノ下をよく思っていなかった奴らなど、おかしなちょっかい…嫌がらせをしてくる人間は大勢いるだろう。雪ノ下の性格からそれに屈する事はないだろうが、毎日繰り返されたとなれば、さすがに身動ぎもするだろう。
そこで周りの奴らを黙らすために、葉山と付き合っているという嘘の噂を流す。各校を代表する美男美女で、おまけに家族ぐるみの付き合いがあるとすれば信じる奴も多いはずだ。海浜の男子達も、相手が葉山だと知ったら大半は諦めるだろう。それに、あくまでも噂だから葉山を好きな女子達も下手に手を出せない。嘘なら何もする必要はないし、仮に本当でも、なにかすればすぐに葉山に伝わる。そんなリスクを負いたがる奴は、恐らくいないだろう。
「でも…、だからって隼人に頼む必要ないじゃない」
「それが一番手っ取り早かっただけよ。それに葉山君だって、本当に嫌なら断れたはずよ」
「あんたが断れなくしたんじゃないの?」
「決めたのは葉山君自身よ。あなたがどうこう言う資格はないわ」
「あんたいい加減に…
三浦が頬を熱くして一歩雪ノ下に踏み寄ったその時、
「ちょっと落ち着くんだ、優美子」
張り詰めた空気に似合わない爽やかな声が飛び込んでくる。穏やかで落ち着きのある、少し低いけど耳障りのいい、いけ好かない声だった。
室内の視線がそいつに集まり、女子達が感嘆の声を漏らす。
「隼人っ!?なんで?」
三浦は驚いて動きを止める。葉山はゆっくりと周りを見回してからふたりに視線を戻し、徐に講習室に入ってくる。
「どうして葉山君がここにいるのかしら。無関係の人は立ち入り禁止よ」
「関係なくないさ。俺は頼まれて比企谷の手伝いに来たんだから」
雪ノ下がぎろりと俺を睨む。
「そうなの比企谷君?」
「……」
言葉が出ない。
「下に戸部もいる。もうすぐいろはと上がってくるはずだ」
葉山は俺を見たまま、指で下を指す。
いったい何を考えてやがる…。葉山の魂胆が見えず、無言のまま見つめ返す。視界の隅では雪ノ下が鋭い眼光を放っていたが、やがてふっと肩を落として、
「わかったわ…」
と、ため息をついた。
「ここで言い合いをするのも時間の無駄ね。そろそろ会議を始めましょう」
「ちょっと、まだ話は…」
食い下がろうとする三浦の肩に葉山が手をかける。
「ごめん雪ノ下さん。色々迷惑かけて」
「別に構わないわ。姉さんの言うとおりにしただけで、あなただってそうでしょう?」
雪ノ下はかぶりを振ってそう言った。葉山は少しだけ笑って何か言う素振りを見せるが、ガラリという音を立てて扉が勢いよく開く。
「あれっ、どうしたんです?みんなして突っ立って」
一色は屈託のない表情で首を傾げる。
「まぁ、色々とな…」
「へぇ」
説明のし辛さに言葉を濁すと、一色は興味無さげに返事をする。
「じゃあ、そろそろ始めましょうか」
自分の席へ向かうとすると、葉山が小さく右手を挙げる。
「ごめんいろは。ちょっと優美子と話がしたいんだけど、少しだけ抜けてもいいかな?」
一色は一瞬笑顔のまま動かなくなるが、直ぐに再起動してこくりと頷く。
「はい、大丈夫ですよ。それじゃあ後で先輩から聞いて下さい」
「いやなんで俺が…」
そもそも、会議のために来たって言ったのに、その会議に参加しないってどういう事だ。
「わかった。じゃあ優美子、ちょっといいか?」
「あ…うん」
俺が抗議する間もなく、葉山は三浦を連れて講習室を出て行った。