雪ノ下雪乃の消失   作:発光ダイオード

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放課後を知らせるチャイムが鳴る。

その音を最後まで聞かないまま、わたしは教室を飛び出した。ローファーに履き替えてバス停まで走っていると、タイミングよくバスがやって来る。その勢いのまま飛び乗ると、バスはわたしを乗せてゆっくりと走り出だした。

今日はクリスマスイベントの会議は休みだ。だけどその代わり、ゆきのんと一緒に準備に必要な物や当日使う物の買い出しに行こうという話になって、わたしは今駅に向かっている。

ちなみに、それが終わったらふたりでケーキを食べるという約束もしている。

 

バスは予定どおりに駅に着く。スマホを見ると待ち合わせにはまだ少し時間があった。わたしは足を止めて、道沿いに並ぶショップのウィンドウに映る自分の姿をチェックする。スカート…は大丈夫。ブレザーも大丈夫。顔は…バスの中が暖かかったからかほんのりピンク色に染まっていた。マフラーを緩めるとほっぺにひんやりとした風が当たって気持ちいい。髪に手櫛を掛ける鏡の中のわたしは、とても楽しそうに笑っていた。

 

待ち合わせ場所に着いたわたしはすぐにゆきのんを見つける。綺麗な女の子が立っているというだけでも目を引くのに、その凛とした姿は夕方のぼんやりとした空気の中でくっきりとわたしの目に映った。

 

「ゆきのん、お待たせー」

 

手を振りながら駈け寄る。ゆきのんは一瞬睨むように顔を上げたけれど、わたしだと判ってふっと表情を緩めた。

 

「ごめんなさい。またナンパだと思って…」

 

「ううん、待たせちゃってこめんね」

 

「別に待ってないわ。私も今来たところよ」

 

今来た人はそんなに何回もナンパされないと思う。どのくらいかは判らないけど、多分待っててくれたんだろう。

 

「それに、今日頼んだのは私の方だから」

 

ゆきのんは目線を逸らして、なんだか気恥ずかしそうに言った。

 

「ううん、わたしも誘ってくれてすごく嬉しい」

 

そんな表情がとてもくすぐったく感じて、わたしも笑いながらこたえた。

 

 

 

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わたしは友達は多い方だ。みんなと話すのは好きだし楽しいし、初対面の人とも比較的すぐ仲良くなれる。交友関係は自分でも割と広いと思ってるし、多分周りのみんなもそんなふうに思ってると思う。

でも、本当はそんなんじゃない。本当のわたしはとても臆病で、ただ誰かに合わせていないと不安なだけだ。何か言って意見を否定されることが、自分を存在ごと否定されるみたいで怖いのだ。

だから、ずっと周りの空気を読んで自分を合わせてきた。わたしが髪を染めたり制服を着崩したりスカートを短くするのもみんながそうしているからだ。多分友達がみんな真面目な格好をしていたら、わたしも同じようにしていたと思う。

自分がないなんて言われるかもしれない。でもそうやって来たから、周りの些細な感情を敏感に感じる事ができるようにもなった。

良くも悪くも流されやすい性格…だけど、そうすることは悪くないと思っていた。たとえそこにわたしが居なくても、居るのが言葉を繰り返すだけのお人形でも、誰とも嫌な雰囲気にならないなら、それが一番じゃないか。

 

ずっとそう自分に言い聞かせてきた。

 

だけどヒッキーやゆきのんと出会って、わたしは自分の考えが間違っているのではと少し思い始めた。ふたりが全く相手に合わせないで本音を言い合い、それなのに楽しそうにしているのが、なんだか凄く羨ましく見えた。

ゆきのんは自分と同性なのにまったく正反対のタイプで、人目を気にせずに建前やごまかしとか一切口にしない姿が、わたしの目にとても輝いて映った。

このふたりと一緒にいたら、わたしも何か変われるんじゃないか…そう思った。

 

 

 

「どうかした?由比ヶ浜さん」

 

視線を上げると、向かいの席に座ったゆきのんがティーカップに指を掛けながらこっちを見ている。テーブルにはティーポットと紅茶の注がれたカップがふたつ、それに注文したケーキがひとつずつが置かれている。

買い物をすませたわたしたちは、例のお店にやって来ていた。

 

「ううん、なんでもない」

 

「そう?」

 

ゆきのんは少しだけ首を傾げる。それから紅茶を一口飲むと、ちいさく息を吐いた。

 

「ねぇ由比ヶ浜さん。実はあなたに話したいことがあるの」

 

「なあに?」

 

聞き返すと、ゆきのんは視線をティーカップに落としてその淵を何回か指でなぞる。少しの沈黙があり、わたしも紅茶を一口飲む。

 

「…その前にちょっと聞きたいのだけれど、比企ヶ谷くんの事どう思ってるかしら?」

 

「えぇっ!べ、別にっ、何とも思っていませんけれどっ?」

 

思いもよらない質問に思わず紅茶を吹き出しそうになる。

 

「ごめんなさい、聞き方が悪かったみたいね。あなたから見て、比企ヶ谷くんはどんな人間に見えるかしら」

 

「あぁ、そういう…」

 

いきなり聞いてくるから思わず勘違いしてしまった。

わたしは心の中で深呼吸してからヒッキーのことを思い浮かべる。

 

「ヒッキーは…いっつも一人でいるし、目つき悪いし、意味わんないこととか無神経なこととかよく言うし、面倒くさがってすぐサボろうとするし……けど、捻くれてるけどちゃんと自分を持ってて、捻くれてるけど本当に困ってたら絶対助けてくれて、捻くれてるけど…それにほんとは優しいと思う」

 

上手く言葉になってるかわからないけど、わたしは自分が思っているままに喋る。それでもゆきのんはまっすぐこっちを見て真剣に話を聴いてくれる。

 

「そういえば、由比ヶ浜さんは奉仕部じゃないのに部室に行っているそうね」

 

「うん」

 

「それは何か理由があるの?」

 

わたしは少し言葉に詰まる。それは今まで誰にも言ったことのない話だった。もちろん、自分から誰かに話すつもりもない。でも、なぜかゆきのんになら話してもいいと思った。

 

「…ヒッキーってね、入学式の日に交通事故で入院しちゃったの。それで一カ月学校に来れなかったんだけど、その頃にはもうほとんどのグループができちゃってたの。だからヒッキー登校してからも全然みんなと喋らなくて、今でもずっと一人でいるの」

 

「安心して由比ヶ浜さん。例え交通事故にあってなかったとしても、あの男はきっと今でも独りよ。いくらあなたが優しいと言っても、友達になってあげられない事を悔やむ必要はないわ」

 

ゆきのんはわたしを慰めようとして言ってくれるけど、そこまで言われると逆にヒッキーが可哀想になる。

 

「ううん、そうじゃなくって。交通事故にあったのは、わたしが飼ってる犬が轢かれそうになったのを助けてくれたからなの」

 

「…それじゃあ、比企谷くんに謝りたいの?」

 

なにか言いたそうにこっちを見るゆきのんに、わたしは首を横に振る。

 

「わたし、ヒッキーにちゃんとお礼が言いたいの。それでもっと普通に話がしたいの」

 

ヒッキーが今みたいになった原因は少なくてもわたしにはある。だけどそうじゃない。わたしがヒッキーだったら、謝って欲しいなんて思わない。

“怪我させてごめんなさい”ではなく“助けてくれてありがとう”

そう言ってほしい。

 

タイミングはいつでもあった。ずっとそう思っていて、何度も何度も言おうとして、だけどわたしは言えなかった。

ヒッキーはいつもひとりで、クラスでもかなり浮いていた。休み時間もあまり教室に居なくて、居ても本を読んでるか寝てるかで話しかけるなオーラをバンバンに出していた。そんな中わたしが声を掛けたらみんなになんて言われるか…そう考えると、周りの目を気にするわたしはただ遠くからヒッキーを見ている事しかできなかった。

だけどそのうち、さきさきが奉仕部に入った事を知って、さらにずっと一緒にいたはずの姫菜も奉仕部に入っていた。

出し抜かれた気分だった。自分がなにも行動を起こさなかっただけなのに、本当なら自分がそこに居たかもしれない…わたしの方がずっと前からヒッキーを見てたのに…と、心の中に黒い感情が浮かび上がり、その度に「あぁ、わたしはなんて嫌な人間なんだろう」と、自分自身に落ち込んでいた。

 

「謝罪ではなく感謝を…。やっぱりあなたは優しいわ」

 

そう言って優しく微笑むゆきのんに、思わず胸の奥がじんと熱くなる。

ずっと情けなさや悔しさ、後悔を抱えていた。だけどヒッキーやゆきのんと話すようになって、その考え方や気持ちに触れて、ちょっとずつだけどわたしも本当の気持ちを話せるようになってきた。

だから、今ならちゃんとヒッキーに気持ちを伝えられる気がする。

 

「クリスマスイベントの手伝いに毎回来てたのもそのためなのかもしれないけれど、問題はあの朴念仁のほうね。あの腐りきった目じゃ、どうあってもあなたの気持ちに気付かないわよ」

 

たしかにそれは否定できない。

 

「でもね、他にもヒッキーの変な夢についても一緒に調べようって約束してるよ」

 

「…変な夢?」

 

ゆきのんが訝しげな表情をする。

 

「わたしも半分聞いた話なんだけど、ちょっと前にヒッキー寝ぼけて、ここは過去の世界で自分は未来の別の世界から来たとか言ってたんだって。なんかその世界ではクラスがひとつ多かったり、奉仕部もヒッキーとわたしと、もうひとり別の女の子が部員だったんだって」

 

「だだの夢でしょう?」

 

「そうなんだけど、ヒッキーも結構気になってるみたいだったし、だったらどうしてそんな夢見たのか調べようって話になったの」

 

「…そうなの」

 

そう呟くと、ゆきのんは口許に手を当てて黙り込んでしまった。

わたしはケーキをひと口食べる。甘いバニラの香りが口の中に広がり舌の上で溶けていく。

 

「そいえば、ゆきのんの話ってなんだった?」

 

たしか最初はゆきのんの話を聞くはずだった気がする。

 

「いいえ、それはもういいの。それより…」

 

ゆきのんは思い出したように聞くわたしをまっすぐ見つめて、言葉を選ぶように、

 

「…由比ヶ浜さん、あなたにお願いがあるの」

 

「お願い?」

 

「そう…とても大切なお願い」

 

真剣な表情で言った。

 

 

 

 

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「最近の比企谷君ってどう思う?」

 

比企谷が被服室に向かった後、海老名は隣に座っている三浦に聞いた。

 

「いや、あーしあいつと話すようになったの最近だし。昔のヒキオのことなんか全然知らないんだけど」

 

「そっかぁ、そうだよねぇ。けど私、なーんか変な感じするんだよねぇ…」

 

海老名はこめかみに指を当てながら煮え切らない表情を浮かべる。

 

「見た目とか性格とか?」

 

「んー、そういうのは変わってない思うんだけど、何か違うというか違和感というか…」

 

考え込む海老名を見て、三浦は興味薄げに天井に視線を投げ出す。

 

「ヒキオねぇ…。教室じゃアレだけど、別にここにいる時は割と普通にみんなと話してると思うけど…」

 

何気なく呟くと、その言葉に反応して海老名の赤いメガネフレームがキラリと輝き、勢い良く三浦に身体を向ける。

 

「それだよっ」

 

「何が?」

 

「みんな普通なんだよっ」

 

「だから何がよ?」

 

「ちょっと前までの比企谷君ってさ、何かさきさきにだけ甘かったり優しかったりした気がするんだよね」

 

「そうなの?」

 

「まぁ…小指の先くらいだけどね」

 

少し落ち着きを取り戻し、海老名は小指を立てながら背もたれに身体を預ける。

 

「いつ頃からそうじゃなくなったの?」

 

「んー、そうでさねぇ…結衣が来るようになったぐらいからかなぁ」

 

「あぁ、あーし分かったかも」

 

「何が?」

 

きょとんとする海老名を見て、三浦の口許がにやりと笑う。

 

「ほら、結衣って可愛いじゃん?明るくて、人懐っこくて、ポワポワしてるし、おっぱい大きいし。いかにもアホな男子共が好きになっちゃいそうなタイプじゃん?」

 

「まぁ…そうかもね」

 

「所詮ヒキオも同じ穴のタヌキだったって訳よ」

 

「てことはつまり?」

 

「…三角関係だね」

 

「三角…関係…」

 

部室に穏やかならざる空気が立ち込める。

すると、風雲急を告げる様に廊下からパタパタと足音が聞こえてきた。足音はだんだんと近づいてきて、やがて部室の前で停まる。と同時にガラリと勢いよく扉が開く。

 

由比ヶ浜だった。急いで走って来たのか肩で大きく息をしている。

 

「結衣?今日は用事があるから帰ったんじゃないの?」

 

三浦は驚いた様に聞くが由比ヶ浜はそれには応えず、整わない呼吸のまま、

 

「ヒッキーどこに居るか知らないっ?」

 

と急く様に訊いてくる。その勢いに海老名と三浦は思わず気圧される。

 

「被服室に居ると思うけど…」

 

「ありがとっ」

 

そう言ったかと思うと、由比ヶ浜は扉も開けたまま旋風のように走り去って行った。残されたふたりは開け放たれた扉を呆然と見つめ続ける。やがて三浦がぽつりと呟いた。

 

「…修羅場じゃん?」

 

危急存亡の秋である(違う)。

 

 

 

 

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夕陽に染まる校舎をわたしは全力で走っていた。

ゆきのんの話を聴いたわたしはすぐヒッキーに電話をした。だけど、どれだけ鳴らしても出ないし、いくらメールを送っても全然返事は返ってこなかった。ヒッキーは「スマホなんて持ってても目覚まし時計くらいにしかならない」って言ってるぐらいだから、ひょっとしたらケータイを携帯してない可能性がある。そう思ったわたしは11回目の不在着信の後、痺れを切らして学校まで戻って来たのだ。

 

他の生徒はもう帰ってしまった後で、廊下にはわたしの足音だけが響いている。奉仕部にヒッキーは居なかったけど、かわりに優美子と姫菜が被服室にいることを教えてくれた。

部室を飛び出し階段を降り、渡り廊下を中程まで来た辺りで、わたしの足はとうとう勢いを失う。普段あまり走ったりしないせいか息も切れ切れだった。もう諦めてしまおうか…そんな考えが頭をよぎるが、ダメだダメとわたしは頭を振る。

ゆきのんの話は、普通に聞いたら信じられないような話だった。だけど、説明してる時のゆきのんの目は真剣そのもので、とてもふざけてるようには見えなかった。正直、なにが本当なのかも全然わからない。でも、伝えないといけない事だけはわかった。そうしないと、きっとみんな後悔する。ヒッキーも、ゆきのんも、そしてわたしも。

 

わたしは再び前を向く。そして息を整えようと深呼吸したとき、不意にチャイムの音が鳴り響く。突然の大きな音に一瞬自分が何をしていたのか記憶が飛んでしまったが、すぐに思い出し呼吸を整える様に息を吐く。

 

そうだ…部室から出てったゆきのんを追いかけて…

 

 

「早くゆきのん探さなくちゃ…」

 

わたしはまた走り出す。

 

 

学校中を探しまわり、あと見ていないのは渡り廊下の屋上だけだ。わたしは階段を昇って外へ出る扉の前に立つ。

 

「…絶対ここにいる」

 

自分に言い聞かせるように呟いてドアノブに手をかけると、ピリリとした冷たさがわたしの体温を奪っていく。扉は軋む音を立てながらゆっくりと開く。

 

 

そこには誰もいなかった。

 

 

心臓がドクドクと音を鳴らす。思わずスマホを取り出して電話を掛ける……出ない。もう一度………

 

「もしも…

 

「ヒッキーっ!どうしようっ、ゆきのんがどこにもいないの!さっきから、探してるんだけど全然…」

 

スピーカーから声が聞こえた瞬間、わたしは勢いにまかせて言葉をぶつける。

 

「落ち着け由比ヶ浜。買い物中にはぐれでもしたか?俺に電話するよりも雪ノ下に直接掛けた方が見つかるのが早いと思うぞ」

 

さっきまであんなに辛そうな顔をしてたのに、電話越しのヒッキーは妙に落ち着いていていた。まるでなにも覚えていない様な態度にわたしの口調はキツくなる。

 

「何言ってんのヒッキー?こんな時にふざけるのやめてよ」

 

思わず叫ぶと、スピーカーの向こうから神妙な空気が伝わってくる。

 

「雪ノ下とは連絡がとれないのか?」

 

「うん…さっき電話したけど出なかったし」

 

「由比ヶ浜、おまえ今どこにいる?」

 

「渡り廊下の屋上だけど…」

 

「駅前じゃないのか?」

 

「…なに言ってるの?」

 

なんだかさっきから話が上手く伝わっていない。

 

「おまえ…学校にいるのか?」

 

「だから言ってるじゃんっ。部室から出てったゆきのん追いかけて学校中探したけどどこにもいないのっ。ねぇヒッキー…わたしどうしたらいいの?」

 

「………今すぐ行くからそこで待ってろ」

 

ヒッキーはそう言うと電話を切った。わたしはそのまま地面にへたり込む。

やっぱりわたしじゃ無理だったんだ…ヒッキーじゃないとダメなんだ…。

自分の無力さや高慢さに、悲しさや悔しさ、様々な感情が押し寄せてくる。 

 

「ゔぅ…ううっ…うっ」

 

わたしは声を漏らすように泣いた。膝を踞る袖はみるみるうちに濡れていった。

 


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