はてさてどうしたもんか。
保健所への許可申請書を書き上げ、一旦作業を終えた俺は1階ロビーに備え付けてあるベンチにどかりと腰を降ろした。正面には事務室があり、顔を上げると中に居た事務員の中年女性と目が合う。さすがに何日も通っていれば顔も覚えるので、俺は心ばかりの愛想笑いを浮かべてからペコリと頭を下げた。あぁ、全然笑えてない。この社交性の低さよ。そのまま俯きつつ、俺は先程の講習室での事を思い返してみる事にした。
まさか由比ヶ浜が手伝いに来るとは予想していなかった。しかも、雪ノ下を加えて三人で作業することになるとは……。由比ヶ浜の事はいずれ呼ぼうとは思っていて、タイミングをみて声を掛けるつもりだったんだが、全く一色も余計なことをしてくれる。ひょっとしたら“俺たち3人が集まれば雪ノ下たちも何か思い出すかも”という僅かながらの期待もあったが、そんな都合のいい事はまるでなかった。
ぼんやりと床に視線を這わせていると、スラリとした足が視界の隅に入ってくる。こげ茶色の革靴に黒のニーソックスが流れるようなラインを強調している。顔を上げると、そこに立っていたのは雪ノ下だった。両手にはペットボトルが一本ずつ握られている。
「差し入れよ」
無造作に俺に手渡すと、雪ノ下は隣に静かに腰を下ろしてもう一本のボトルを手の中で数回転がした。それからキャップを捻って軽く口をつける。俺は受けとったボトルをしげしげと眺める。赤いラベルにはストレートティーと書かれていた。
「マッ缶が良かったんだけど…」
「わたし甘過ぎるのって嫌いなの。それにここには無かったわ。あなたの健康を思ってわたしと同じのにしてあげたんだから、もっと感謝してほしいものね」
俺が文句を垂れると、雪ノ下は笑いながらふんと鼻を鳴らした。
“こっちの雪ノ下”はよく笑う。それが、ここ数日雪ノ下を見ていて感じた事だった。見た目の印象や普段の態度は前の世界とさほど変わらないが、しばらく会話を続けているとだんだん表情が柔らかくなる。なんとなく雪ノ下さんに似ている気がする。あの強化外骨格のような“外面”がそのまま素になった感じだ。こっちでは随分と雪ノ下さんに懐いているようなので、多分その影響なんじゃないかと思う。
「…わたし、比企谷君に謝らないといけないことがあるの」
不意に雪ノ下が呟いた。
「ここで初めて会った時、わたしあなたに“一色さんは生徒会長に向いていない”って言ったでしょ」
確かにそんな事を言われた気がする。
「別に気にしてねぇよ」
「そう?それにしてはあの時、凄く嫌そうな顔してたわ」
「……」
「比企谷君は判ってたのかしらね、一色さんがやればできるってこと。だから、ごめんなさい。あの時のわたしは少し早計過ぎたわ」
「…まあ、一色もそれなりにポテンシャルはあったからな。だけど…前にも言ったが、そもそも雪ノ下が居なきゃ一色も玉縄もここまでやってこられなかった。そう言う意味じゃお前が謝る必要なんてどこにもねぇよ」
「…そう」
雪ノ下は優しく呟いた後、遠くを見るように視線を逸らした。
「比企谷君ならそう言うと思ったわ」
「そうかよ」
俺はペットボトルの蓋を開けて紅茶をひとくち飲む。やっぱりそう甘くはない…。
そのまましばらく座っていると雪ノ下が思い出したように、
「…そういえばこの間、姉さんに会ったらしいわね」
と言う。ギクリとなる。
「あ、あぁ」
「その時わたしの事を訊いてたらしいけれど…正直、身の毛がよだつ程気持ちが悪かったわ」
「いや、それはだな…」
「今からでも警察に通報しようかしら」
雪ノ下は意地悪そうに口角を上げた。
「そういうのじゃなくて…ものの例えと言うか、好奇心からのアレと言うか…」
変な汗が出て来た。確かに雪ノ下からしてみれば、顔も名前も知らない男から自分の事を訊かれた訳だから、当然いい思いはしないだろう。しかしあれは雪ノ下さんの事を訊いた(ように誤魔化した)つもりだったんだが、あの人にはそれもバレていたんだろうか…。
回遊魚並みに目を泳がせる俺を雪ノ下は冷ややかに見つめていたが、やがて吹き出すように息を吐くと口許に手を当てて肩を震わせた。
「冗談よ。姉さんから聞いてるわ」
楽しんでいるような仕草に、思わず肩の力が抜けて脱力する。そんな俺を見て雪ノ下は更にクスクスと笑った。
「確かに比企谷君が、姉さんと同じ高校生活を送れたら自分も何か変われるんじゃないかって思う気持ちも分るわ」
「いや、そこまで思って無いんだけど…」
「わたしも姉さんと一緒に同じ学校に通いたかったもの」
「いや、別に通いたくはないんだけど……そいや雪ノ下、お前何で海浜総合高校に行ったんだ?」
普通なら姉の通っていた高校を選びそうなもんだが…。
「姉さんにそう言われたからよ。それにわたしが入学する時に姉さんが居ないんじゃ、そっちに行っても意味ないもの」
雪ノ下はしごく当たり前のように言った。俺が感じた疑問など全く想像もしていない口ぶりだ。しかし、そこには仲の良さを通り越した一種の依存のようなものが見え隠れし、どうしようもない違和感が俺の心の中を駆け回った。
「でも、姉さんに興味を持たれるってすごいことよ」
「…そうか?」
「高校でも大学でも、姉さんには色んな人がその歓心を買おうと近づいてくる。でも、その中に姉さんの御眼鏡に叶う人間はなかなか居ない」
「……」
「けれど姉さんは、興味を持って比企谷君に会いに行った」
雪ノ下は目を大きく開いて、じっとこっちを見る。
「わたし、姉さんが興味を持つあなたにとても興味があるわ」
そう言って俺の直ぐ側に手を突くと、前のめり気味に上半身を寄せてくる。
「比企谷君の何が、そんなにも興味を引くのかしら」
その強い興味の発露に任せて雪ノ下はどんどん顔を近づけてくる。薄い唇、長いまつ毛。大きく見開かれた瞳は夕陽にキラキラと輝き、その中に顔を赤くしながら狼狽える俺の姿が映る。
「…顔が赤いぞ」
思わずそう言うと、雪ノ下は我に返ったように素早く身体を引いた。それから呼吸を整えるように、長い黒髪に手櫛を掛ける。
「夕陽が反射してるだけよ。比企谷君こそ真っ赤よ」
「俺も夕陽のせいだよ」
「あら、あなた逆光よ。そんな言い訳通じないわよ」
目を細めながらクスリと笑う。その表情に一瞬ドキリとしたその時、
「「えーっ!」」
と言う大きな叫び声がエントランス中に響き渡った。聞き覚えのある声だ。階段の方を見ると声の主であろう由比ヶ浜と一色、それに折本の姿が見えた。何故か全員階段の壁を盾にして頭だけ団子のように並べている。なにやってんだ?
他にも何人か居た地域の人たちからの疎ましげな視線を向けられ、由比ヶ浜たちは申し訳なさそうにぺこぺこ頭を下げる。それから俺と雪ノ下が見ている事に気付くと、3人は気まずそうにはにかみながら近づいて来た。
「何騒いでんだ、おまえら」
「公共の場なんだから、もう少し静かにできないのかしら」
「ごめんごめん」
「ちょっと予想外の事があってさ」
折本は俺たちに向かって手刀を切ると、由比ヶ浜と顔を見合わせておどけるように笑った。こいつらいつの間に仲良くなったんだ。さすがコミュ力MAXのリア充コンビ。ていうか、予想外の事ってなんだ?
「何かあったのか?」
「いやー、えっと…」
言葉を濁す由比ヶ浜たちに思わず眉を顰める。まさかトラブルでも起きたか?時間はまだあるとは言え、事と次第によっては手遅れになる場合もある。それなら早急に手を打たなければいけない。
…そんな事を考えていると、ふたりの後ろに居た一色が徐に一歩前へ進み出てくる。ベンチに座る雪ノ下を見下ろす様に立ち、屈託のない笑顔を向けて一言、
「雪ノ下先輩って、葉山先輩と付き合ってるんですかぁ?」
・
・
・
なんの脈絡もない発言に、その場の空気が凍り付く。て言うかちょっと待て。えっ、なんだって?葉山と付き合ってる?
「いろはちゃんっ!?」
「ちょっ、一色ちゃんっ!何言ってんの!」
「えー、でも気になりませんか?」
呑気に笑う一色とは反対に、由比ヶ浜と折本は慌てふためく。思わず雪ノ下を見ると一瞬だけ目が合うが、雪ノ下は避ける様に視線を逸らして、直ぐに一色へと顔を向ける。
「誰がそんなこと言ってたのかしら?」
「ひっ」
一色の口から小さな悲鳴が漏れる。目の前の雪ノ下はとても穏やかな表情を浮かべていたが、その口調は驚く程平坦で、まるで毛布で包んだ氷でも手渡しているかのようだった。その表情と口調の乖離が激しい程、菩薩のような仮面の下で雪ノ下がどんな表情をしているのかを想像してしまう。
「か、かおり先輩から聞きました」
「えっ!」
口早に答える一色。驚いた折本は目を丸くしているが、雪ノ下の視線が一色から自分に移ったのに気付き、慌てて誤魔化すように、
「いやぁ…学校で噂になってるっていうか…。別に信じてるとかそう言うんじゃなくて、ただどうなのかなーっていうか…ねぇ?」
と言って由比ヶ浜を見る。すると由比ヶ浜は、
「えっ!?あーっと、うちの学校でもちょっと噂になってる…かも、…ねぇ?」
そう言って、今度はふたりして俺を見る。いや、こっちに振ってくんじゃねぇよ。そんなに見られても困るんだけど。思わず顔を背けるが、既に雪ノ下の菩薩のような微笑みは一色、折本、由比ヶ浜を経て完全に俺に向けられていた。超こわい。
「まぁ…、ちょっとした騒ぎにはなってたわな」
ゴクリと生唾を飲んでからそう言うと、雪ノ下はしばらく黙ったまま動かなかった。それから俺たち全員をゆっくりと見回し、徐にため息をつく。
「隠してる訳じゃないから、別にいいけれど…」
「じゃあやっぱり、ふたりは付き合ってるんですか?」
「いいえ、一色さん。噂は本当よ。けど、別に付き合っている訳ではないわ」
雪ノ下は歯切れよく言うが、ちょっと何を言っているのかわからない。由比ヶ浜も一色も、同じように頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
「どういう事?」
「その噂を流したの、実はわたしの姉さんなの」
「えっ!そうなのっ?」
「でも何で?」
「最近やたら交際の申し込みが多くって…。それを姉さんに言ったら、変な虫が付かないようにって葉山君と付き合っている事にしたの」
雪ノ下は面倒くさそうに肩をすくめた。普通ならただの自慢にしかならないような話も、雪ノ下が言えばさもありなんと思えてしまう。しかし、あの人もよくよく面倒な事を思い付くもんだ。葉山もとんだとばっちりだな。少しだけ同情してしまう…。
「つまり、嘘の噂ってこと?」
「まぁ、そういう事になるわね」
「そうだったんだ」
由比ヶ浜と折本は顔を見合わせ、何故か安堵の表情を浮かべた。
「けど葉山君にそんな事言えるって、雪ノ下さんのお姉さん一体何者?」
「葉山君の家とは親同士で付き合いがあるのよ。幼い頃は3人でよく遊んでいたわ。葉山君も姉さんの事を本当の姉のように慕っているから、今回の事も快く聞き入れてくれたの」
それから雪ノ下は俺の方へ向き直る。
「だから、わたしと葉山君は別に付き合ってるわけではないのよ。わかった?比企谷君」
「お、おう」
反射的に返事をする。しかし、なぜこっちを見て言う。しかも名指し。
「確かに葉山君なら大抵の男子なんて相手にならないもんね」
折本も俺を見ながら笑う。だからなんでこっち見んの?
「でも、そしたらあんまり人に言わない方がよかったりする?」
「あー、わざわざ噂流すぐらいだもんね」
「そうね。姉さんがわたしを想ってしてくれたことだから…。別に強制するわけじゃないけれど、できればあまり公言しないでくれると助かるわ」
雪ノ下は少し俯いて、ペットボトルを手の中で転がしながら呟いた。
「うんわかった。言わないようにする」
「わたしも黙ってるよ」
由比ヶ浜と折本は大きく頷く。
「一色、お前も余計な事喋るなよ」
「むっ!ちょっと酷いでくないですか先輩。もっとわたしの事信用してくれてもいいんですからね」
「わかったわかった、信用するから。だから変なこと言うなよ。」
文句を言いながら袖を引っ張ってくるので適当にあしらうと、一色は更に頬を膨らませる。不満げに睨む姿は雪ノ下と違って、やはりと言うか、控えめに言ってあざと可愛い。
「助かるわ。それじゃあ、わたしはそろそろ戻るわね」
そんな一色を気にする様子もなく、雪ノ下は話を切り上げるとスっと立ち上がって足早にその場を去って行った。あまりに素早かったので返事をするタイミングもなく、残された俺たちの間には奇妙な静謐が漂う。
「はーっ、恐かったー」
折本の弛緩した声で、張りつめていた空気が一気に解放される。
「ちょー怒ってましたね。雪ノ下先輩」
一色も嘆息を漏らして俺を見る。最初に怒らせるような事言ったのお前なんだけどね。
「…まぁ、柘榴が好きそうなくらいには迫力あったな」
「比企谷、何言ってんの?」
「…なんでもねぇよ」
外面如菩薩内面如夜叉。外面が菩薩なら、内面は……っと、こんな事考えてるのを雪ノ下に知られたら縊り殺される。くわばらくわばら……。
「で、どうすんだ?三浦には言うのか?」
恐らく葉山が付き合っていないという事実を一番知りたがっているのは三浦だろう。由比ヶ浜も三浦の事を心配してたし、すぐにでも知らせたいだはずだ。
しかし、由比ヶ浜は少し考えるように俯いた後かぶりを振った。
「ううん。雪ノ下さんと約束したし、優美子にはまだ黙ってるよ」
「…そだな」
まぁ、ずっとこの状態が続く訳でもないだろうし、三浦に話せる機会はそのうちあるだろう。
「じゃあ私たちも飲み物かって戻ろっか」
「うん、そだね」
折本は真剣な表情の由比ヶ浜を気付かうように言った。由比ヶ浜も折本に小さく微笑み返し、ふたりは自販機の方へ向かって行った。
「一色、俺たちもそろそろ…」
戻ろうか、と声を掛けようとすると、一色は雪ノ下が昇って行った階段の方をぼんやりと眺めていた。
「一色?」
「あっ、はい」
「どうかしたか?」
「いえ…。私たちも戻りましょっか」
そう言ってかぶりを振ると一色は歩きだす。その様子を少し不思議に思いつつ、俺は一色の後を追って講習室へ戻って行った。