楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうもので、喋りながらの作業でも気づけばプリントも数枚残るほどになっていた。雪ノ下さんはわたしの取り留めのない話にも笑顔や相槌を返してくれて、最初のクールな印象とは違って、笑った時にキュッと目を細める仕草がとても可愛らしく見えた。
それから数分とかからず作業は終わり、雪ノ下さんは「ご苦労さま」と言って書類を纏め上げるといろはちゃんの所にそれを持っていった。ヒッキーもちょっと休憩してくると言って部屋を出ていってしまい、残るわたしはまた独りぼっちにされてしまった。さっきまでの浮かれていた気持ちが急に冷えてくる。どうしよう、途端に落ち着かなくなってきた。何かやる事はないかなと思って再び辺りを見回してみると、向かいの机に座る海浜高校の女の子の姿が目に入ってくる。広げたノートを睨みながら、小刻みにスマホの画面を人差し指でタップしている。
「何か手伝うことある?」
近づいてそう訊くと、女の子はゆっくりと顔を上げる。への字に曲がっていた口許が緩み、難しそうだった表情がぱっと明るくなった。
「ホント!助かるー」
「何やってたの?」
「今イベントで作るケーキとかクッキーの材料費の計算しててさー。男子ってば全然手伝ってくれないんだよ、料理は苦手だからとか言って。関係ないっての、ねぇ」
からからと笑いながらそう言った。周りには海浜高校の男の子達も何人か居るけどみんな自分の作業に集中している。彼女もそれを分かっているらしく、特に責めている雰囲気は伝わってこなかった。
「あっ、わたし折本かおり。よろしく」
「わたしは由比ヶ浜結衣。よろしくね、折本さん」
「かおりでいいよ」
「わかった。ならわたしも結衣でいいよ」
おりちゃん、かおかお…かおりんもいいかな。
「おっけー。そしたら結衣ちゃんさ、これやってくれない?」
そう言ってかおりんはすっと紙を差し出してきた。わたしは隣の席に座りながらそれを確認する。プリント用紙とノートを破った手書きのメモだった。プリントには「料理実習室にある調理器具」、メモには「必要な道具」とタイトルが書いてあって、どちらにも包丁や泡立て器などの調理器具の名前がつらつらと並んでいる。
「ケーキ作るときの道具は大体ここで借りられるんだけどさ、他に足りないやつとかあったら用意しないといけないから書いといてくれない?あと、お皿とかフォークとかそういう使いそうなやつもお願い」
「任せてっ」
そう言ってわたしは気合を込めて握りこぶしを作った。
・
・
・
かおりんは作業中でも気さくに話しかけてくれて、見た目と同様に明るく元気な女の子だった。わたしの周りにもこういうタイプの友達は沢山いるので、共通の話題も多くつい手を動かすのも忘れて会話に夢中になってしまう。そしてお互い口しか動いていないことに気づいて、クスクスと笑いながら作業に戻ったりしていた。それから何かの流れから話題はヒッキーの話になり、かおりんはヒッキーと同じ中学だったということを教えてくれた。卒業してからずっと会っていなかったけどつい最近たまたま遊ぶ機会があって、このイベントでも偶然出会ったらしい。
ヒッキーにも同じ中学の知り合いが居るなんて!……まぁ別に居てもおかしくないか。
「結衣ちゃんって比企谷とよく喋るの?」
「んー、ヒッキー教室じゃ全然喋らないし部室でもあんまり喋らないから…」
どうなのかな。そもそもわたしはよくお喋りをする方で、会話に夢中になって気づいたら最終下校時刻を過ぎて見廻りの先生に怒られるなんてこともある。それを考えるとわたしが一日にする友達との会話の中で、ヒッキーと話す割合は多分一割にも満たないだろう。つまりわたしから見て、わたしとヒッキーはあまり喋らないことになる。けれどヒッキーは恐らく一日の会話の九割以上が奉仕部での会話だろう。ならヒッキーから見れば、わたしとはよく喋るという事にもなる…。
「さっき比企谷たちと一緒に作業してたからさ、仲いいのかなーって」
あぁ、そういうことか。
「最近ヒッキーたちの部活に行くようになって少しは話すようになったかな。かおりんは?」
「えっ!わたし?」
「ヒッキーと仲良かったの?」
「…わたしは普通かな。おな中だったけどほとんど喋ったこと無かったし」
かおりんは記憶を辿るように考えながら言った。ほとんど喋ったこと無いのに、それで普通と言えるのはすごい。どうやらこの子の仲良しの感覚はわたしとは少しズレているみたいだ。
「そういえば比企谷って高校でなんか変わった?結衣ちゃんみたいに可愛い子と話してるし、葉山くんとも知り合いみたいだし。それに、あの雪ノ下さんとも普通に喋ってるしさ。高校デビューでもしたの?」
かおりんは興味津々に訊いてくる。そう言われてもわたしは中学の頃のヒッキーを知らないし、たとえ何か変わってたとしてもその違いは分からない。ただ、高校デビューということで言えば確実に失敗だと思う。
「多分あんまり変わってないんじゃないかなぁ」
それからわたしは高校でのヒッキーの話をして、かおりんから中学の頃のヒッキーの話を聞いた。予想通りと言うか何と言うか、ヒッキーは中学の頃からほとんど変わっていないみたいだった。やる気の無い目、捻くれた性格、人との関わりを避ける態度など、まるで成長していないである。
「比企谷全然変わってないじゃんっ。まじウケる」
かおりんはぷっと吹き出して、あははと笑った。何もそこまで笑うこと無いのに。しかしひとしきり笑ったところで、すっと熱が引いたように笑うのを止め宙空に視線を漂わせて、
「…そっか」
と静かに言った。それは優しく納得しているような、寂しさに呆れているような不思議な表情だった。
「かおりん?」
「わたしさ、比企谷の事昔超つまんないと思ってたんだよね」
「……」
「けど、人がつまんないのって、結構見る側が悪いのかもね」
かおりんははにかみながら笑った。
確かにヒッキーは何も変わっていなかった。けれどわたしの話とかおりんの話から伝わってくるヒッキーの印象はだいぶ違っていた。理由は考えなくてもすぐに分かる。今のヒッキーには奉仕部があって、さきさきや姫菜がいる。それにわたしや優美子もいるし、いろはちゃんだっている。変わったのはヒッキーの周りだ。ヒッキーは全然周りの友達とコミュニケーションを取ろうとしないし、自分のことを分かって貰うために自分の話をする事をしない。高校生として…人としてどうなのって思うこともあるけど、わたしたちはヒッキーの良いところもいっぱい知っている。わたしはたまたま気づけたけれど、そういう人は多分少ないだろう。
「ちょっと休憩しよっか。飲み物買いに行かない?」
「…そだね」
かおりんの微笑みにどんな思いが込められているのかは想像でしかわからないけど、少しだけ胸の奥がチクリとした。
・
・
・
それからわたしたちは飲み物を買いに講習室を出る。かおりんは考え事をしているように何も喋らなかったので、わたしも黙って後をついて行った。多分中学の頃を思い出しているのかもしれない。かおりんの素振りから昔ヒッキーとなにかあったような感じがするけれど、わたしにそれを尋ねる勇気はない。
階段を降りている途中、先を行くかおりんの右手が不意に目の前に飛び出てきわたしの行く手を遮った。
「どうしたの?」
「しっ!」
かおりんは左手の人差し指を口許に当てながら、少し屈んだ姿勢で自販機の方を睨んでいる。わたしも気になって階段の影から顔を出すと、視線の先に見えたのは備え付けのベンチに座っているヒッキーと雪ノ下さんの姿だった。ふたりで何か話ている。その声は聞こえないけれど、雪ノ下さんの表情はとても楽しそうに見える。思わず手にぐっと力が入る。
「ちょっと結衣ちゃん、重いって」
かおりんの苦しそうな声にわたしはハッとなる。気づくとわたしは一段下に居るかおりんの両肩に手を乗せて、壁と挟み込むようにかおりんの背中に身体を押し付けていた。
「わっ、ごめん」
思わず離れる。わたしから開放されたかおりんは身体を膨らませるように大きく息を吸って息を整えた。
「ふぅ。…ていうか結衣ちゃん胸おっきくない?何カップあるの?」
じっとりとした視線が胸元に寄せられる。
「えっと………っじゃなくて、今はあっちだよあっち!」
危ない、思わず答えちゃうところだった!顔を赤くしながら声を殺してヒッキーたちを指差すと、かおりんも「じょーだん、じょーだん」というように手をひらひらさせて視線をふたりの方へ戻す。
「雪ノ下さんってさ、普段あんまり喋ってるとこ見ないんだよね。あんな見た目だし話し掛けづらいって言うか…」
「………」
「別にいじめとかじゃなくてさ、逆に人気だよ?なんか高嶺の花っぽいじゃん。だから比企谷が話してるの見て超ビックリしたもん」
確かにわたしもあんなに話をしているヒッキーは見たことがなかったのでびっくりした。それにあのふたりの会話は全く相手に合わせないで本音を言い合っているのに、それでいて楽しそうに聞こえる。普段周りの顔色を伺いながら話をしてしまうわたしからすると、ふたりの関係はとても魅力的で羨ましいものに思えた。わたしもあのふたりと一緒に居たら、あんな風に話せるのかな。
わたしたちが見ている間もふたりはずっと会話をしている。あっ、雪ノ下さんが笑った。
「何話てるんだろ?」
「なんか、仲良さそうだよね…」
「だねぇ」
雪ノ下さんの笑顔につられてか、ヒッキーの顔もいつもより楽しそうに見える。本当に仲がよさそうだ、これじゃまるで……
「…付き合ってるのかな、あのふたり」
「えっ」
思わず口に出していた。かおりんの驚いた声に、わたしは反射的に両手で自分の口を抑える。
すると、突然背後から声が降ってくる。
「やだなぁ、そんな訳ないじゃないですか」
びっくりして振り返ると、いつの間にかわたしたちと同じように壁際からヒッキーたちを覗き込むいろはちゃんが居た。
「一色ちゃんっ!」
「いつから居たのっ?」
「雪ノ下先輩みたいな美人で完璧な人似合いませんよ。先輩にはわたしくらいが丁度いいんです」
いろはちゃんはわたしたちの驚きをよそにヒッキーたちを見つめたまま言う。そして本音が漏れちゃってる気がする。
「ていうかあのふたり、顔近くないですか?」
眉を顰めるいろはちゃんの言葉にわたしとかおりんが振り返ると、雪ノ下さんはまるで猫のようにヒッキーの方に身体を寄せていた。ふたりの顔がどんどん近づいていく。
「うわぁ」
遠くてわからないけれど、ここからだともうくっついてさえ見える。
「ちょっといいんですか、結衣先輩」
「えっ!わたし?」
「あのふたり付き合ってないんですよね!?」
いろはちゃんがわたしの肩を大きく揺する。
「あ、離れた」
「よかった。付き合ってないことに気づいたんですね」
「まぁ、たぶんあのふたりは付き合ってないから大丈夫だよ」
かおりんはなだめる様にそう言った。しかし、いろはちゃんは混乱しているのか逆に頬を膨らませる。
「そんなのわかんないじゃないですか!なんでかおり先輩そんな事言えるんですか?」
「まぁまぁいろはちゃん。落ち着いて」
「だって雪ノ下さん付き合ってる人いるし」
その一言に、気を立てていたいろはちゃんもわたしも驚いて目を丸くする。
「そうなの!?」
「誰ですか?」
「結衣ちゃんたちの学校にいるじゃん、超イケメンの葉山くん。あのふたりが付き合ってるって噂だよ」
数秒の沈黙の後、コミュニティセンターの1階を駆け抜けるようにわたしといろはちゃんの叫び声が響き渡った。
---------------------------------
〈八幡にマッ缶を貰ったときのガハマさん〉
どうしよう!?ヒッキーからコーヒー貰っちゃった。しかもこれフタ開いてるし!つまりこれって、か…間接キス!ってやつだよね?けど、なんでそんな事……色々な想像が頭の中を駆け回り、思わず顔が熱くなってくる。
いや、ヒッキーに限ってそんな事ないし。ただのお礼だからっ!わたしはブンブンと頭を振って妄想を吹き飛ばす。
…けど、お礼なら普通飲みかけとか渡さないよね?つまりこれは飲みかけという事も含めてお礼なのでは…?
潰れるくらいに管を握りしめながら飲み口に注目する。管の中では茶色の液体がゆらゆらと揺らめいて、甘ったるい香りを放っている。ヒッキーはここに口を付けたんだよね…。
自分も同じ管に口を付ける姿、と同時にヒッキーとキスをする自分を想像している事に気付き、わたしは一人悶え苦しんだ。
やっぱりこれはヒッキーに返そう。そんな恥ずかしい事わたしには無理だし……うん、そうしよう。お礼なんて貰うほどでもないよーって言って返せばいいよね?さすがに飲んだよって嘘付いて捨てちゃうのは悪い気もするし…だから一口だけ飲んで返そう!
あれっ?なんかわたしの思考回路おかしくなってない?
ハムスターの回す滑車の様にぐるぐると思考を巡らせ、もう何を考えているのかよく分からなくなった所で、わたしは飲み口にそろりと唇を近づける。
「あれ、結衣何やってんの?」
「ひゃいっ!」
管に口を着けるすんでの所で、突然背後から声をかけられる。驚きのあまり変な声が出てしまったが、振り返るとそこには明るい表情の優美子がいた。登校して来たときの沈んだ様子はなくなっていて、完全にいつも通りの優美子だった。
「ゆ、優美子?どうしたの急に?」
周りに聞こえるんじゃはないかと思うほど高鳴る鼓動と恥ずかしさを隠し、わたしは平静を装って優美子を見返す。
「え?別にただ教室に戻ろうとしただけなんだけど…」
「あ、あーそっかー」
「それより結衣それ…」
優美子はわたしの手の中にある缶コーヒーをじっと見つめている。まさかわたしがヒッキーと間接キスしようとしてた事に気がついたんじゃ…
「えっこれ!?これはっ、さっきヒッキーがお礼ってくれたンだけど、フタが開いててちょービックリなノ!」
若干声が上擦って変になっちゃったけど、優美子はそんな事気にする様子もなかった。そしてしばらく管を見つめた後、何か納得した様に呟いた。
「あぁ、ヒキオのやつ間接キスなんか気にしてたんだ。中学生かよ…。あーし別に気にしないのに」
「えっ!間接キスなんてわたし別に……え?どゆこと?」
「それあーしが一口飲んで返したやつだよ。ヒキオそんな甘いの良く飲めるよね。糖尿病になるっつの」
笑いながら話す優美子を見て、自分がものすごい勘違いをしていた事に気付いた。恥ずかしさと同時に、何とも言われぬ虚無感が押し寄せてくる。
「アーソーユーコトカー」
「結衣?どうかしたん?」
「いや、なんでもないよー」
優美子には恥ずかしくてとても言えたものじゃない…。
「そ?ならさっさと教室戻ろ」
「そだねぇ」
わたしは優美子に付いてゆたゆたと教室へ戻った。途中歩きながら飲んだ缶コーヒーの犯罪的な甘さは、目が覚める程強烈なものだった。