雪ノ下雪乃の消失   作:発光ダイオード

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「それでも俺は……本物がほしい」

 

擦れる様な声で絞り出された言葉が、オレンジ色に染まる部室にぽつりとこぼれ落ちた。それは理性という名のダムに小さな穴を穿ち、じわじわと広がり、やがて決壊したした感情は涙というかたちになって俺の眼からぽろぽろと溢れ落ちる。

悩み、悩み、考えた末に見つけた答え。

相手を完全に理解したいなんて、ひどく独裁的で、独善的で、傲慢な願いだ。だけど互いにそう思える関係が存在するなら……相手の本心まで理解するなんて事はできないのかもしれないが、うわべだけでない、本物の関係を築けるのなら…。

正直、それがどういうものかなんて聞かれても俺にだって解らない。だがこれは紛れもない本心であり、俺が導きだした確かな気持ちだった。

 

目の前には雪ノ下と由比ヶ浜の姿があった。二人とも、俺がこんな醜態を晒すとはこれっぽっちも思ってもいなかっただろう、とても驚いた様子でこっちを見ていた。

しかし、雪ノ下は表情を曇らせ戸惑いの声を上げる。

 

「私には分からない…ごめんなさい…」

 

そう呟いたかと思うと、雪ノ下は目を逸らし逃げる様に部室を飛び出してしまう。

雪ノ下の突然の動きに俺の身体はピクリとも動かず、開け放たれた扉からはただ拒絶されたという実感だけが、俺の心に流れ込んできた。

 

「行かなきゃ!」

 

呆然と立ち尽くす俺に向かって由比ヶ浜は叫ぶ。

 

「いやでも…」

 

恐らく、俺が本気で他人に何かを求めたのはこれが初めてかもしれない。

 

「一緒に行くの!ゆきのん分かんないって言ってた!どうしていいかも分かんないんだと思う!」

 

この二人なら受け入れてくれるんじゃないか…受け入れてほしいと願った瞬間、その思いは両断された。

 

「私だって全然分かんない。でも分かんないで終わらせたらダメなんだよ!」

 

由比ヶ浜はそう言って俺の手をぎゅっと掴んだ。

 

「今しかない!あんなゆきのん初めて見たから………だから今、行かなきゃ」

 

真剣な表情でこっちを見つめてくる由比ヶ浜のその手は、俺の腕をきつく握り小刻みに震えていた。

 

しかし、俺は由比ヶ浜の手を握り返す事ができなかった。

やがて力の入らない俺の手は、するりと由比ヶ浜の指から零れ落ちる。その様子を見た由比ヶ浜は、恐らく俺と同じ様な、拒絶されたことへの悲しみや諦めの入り交じった……今にも泣き出しそうな顔をしていた。

しかし由比ヶ浜はすぐに顔を上げる。その瞳からは、何かを決意したような強い意志が感じられた。

 

「…わかった。ヒッキー、私…ゆきのん探しに行くから」

 

そう言うと、そのまま雪ノ下を追って部室を出て行く。俺は由比ヶ浜の後ろ姿を、ただ無言で見送る事しかできなかった。

 

 

二人が去って一人部室に取り残された後も、俺はしばらく動けず立ち尽くしたままだった。

それが一分か、あるいは一時間か…長いのか短いのか判別のつかない時間が流れた時、不意にチャイムが鳴った。その大きな音にはっと我に返る。

 

とにかく今は二人を追いかければ……いつまでもこんな所でビビってる訳にはいかない。

そう自分を奮い立たせ、雪ノ下と由比ヶ浜を探す為に部室の扉を開ける。

 

「きゃっ!」

 

ガラリという音と共に悲鳴が聞こえる。目の前には、いきなり扉が開いたことに驚いたのか、目を丸くした一色が立っていた。

 

「いきなり飛び出てこないで下さいよっ!ビックリするじゃないですかっ」

 

「あ…あぁ、悪い」

 

「あの…先輩、この間はありがとうございます、それを言いに。あと…」

 

「すまん、今急いでるからまた後でな」

 

「あっ、ちょっと先輩っ!」

 

一色の話を背中で聞き流し俺はその場を走り去る。後ろでわーわー騒ぐ一色の声が聞こえる。こりゃ後で責任を取れだのなんだの言われるかもしれない……。しかし今は雪ノ下たちを探すのが先決だ。二人を見つけてこの局面を無事乗り越える事ができたなら、その時は責任のひとつやふたつ、幾らでも取ってやる。

 

それから屋上、図書室、体育館裏……最終下校時刻を過ぎるまで必死に校内を駆けずり回ったが、雪ノ下を見つけることはできなかった。

 

 

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地面に吸い付く吸盤の様な足を引き剥がしながら登校した俺はゆっくりと教室の扉を開ける。

結局昨日は雪ノ下を見つけることができないまま、最終下校時刻になり校舎を追い出されてしまった。由比ヶ浜とも部室で別れたきり連絡を取っていない。ぶっちゃけ今日は休みたい気持ちでいっぱいだった。あんな別れ方をして、どのツラ下げて二人に会えばいいのか…。

しかし、それでもこうやって学校へ来たのは部室を出て行った時の雪ノ下と由比ヶ浜の姿が脳裏に焼き付いているからだ。二人の辛そうな顔を思い出せば、一刻も早くなんとかしなければいけない…そう思うのだった。この状況を放置すれば取り返しのつかない事になる。きっと奉仕部は奉仕部でなくなってしまうだろう。

 

…とは言え覚悟を決めて登校するのにもそれなりの覚悟がいるもので、目覚ましが鳴ってからも布団に包まりしばらく悩んでいたり、起き上がってからも小鳥の様に朝食をつついて食べていたりしたので、家を出るのが少々遅れてしまった。俺のいじいじっぷりに小町はため息をついて先に行ってしまうし、そんな小町の後を慌てて追って家を出たもんだからマフラーは忘れてしまうし、もうすでに一日の活動エネルギーの半分くらいは使ってしまった感がある。

まぁ今朝は昨日ほど寒くはなく、マフラーがなくても十分凌げるぐらいの気温だったのだけは幸いかもしれない…。

 

 

教室に入り席に座る俺。当然ここまで誰の目に留まる事もない。

教室の後ろではいつもの様に葉山グループの連中が集まって話をしていた。葉山の姿だけまだ見えないが戸部は相変わらずうぇいうぇい言って、周りの奴らも楽しげに話を聞いている…三浦は席に座ったまま仏頂面でスマホをいじっているが、葉山が居なけりゃそんなもんだろう。

俺はそんな騒がしい輪の中にいる由比ヶ浜の姿をちらりと見る。

結局、あれから由比ヶ浜は雪ノ下を見つける事ができたんだろうか……いや、何の連絡もなかった事を考えると見つけられなかった可能性が高い。きっと落ち込んでるだろうし、むしろ責任を感じているまである。例えその原因が俺にあったとしても、俺たち全員にあったとしても、由比ヶ浜の性格を考えれば雪ノ下を見つけられなかった自分を許せないだろう。そう考えると胸の奥がチクリと痛む。

 

しかし俺の不安をよそに、由比ヶ浜は戸部たちの話を聞いて頷いたり、時折混ざるエスプリの欠片もないジョークに笑顔で答えていた。その普段と変わらない仕草に、思わず拍子抜けしてしまう。

思いのほか元気そうである。予想が外れたが、少なくとも表面を取り繕えない程追いつめられてはいない様子の由比ヶ浜を見て、俺は少しばかり胸を撫で下ろした。

その時、視線を送りすぎていたのか、俺が見ている事に気付いた由比ヶ浜がぱちりと視線を合わせてきた。特に目配せするわけでもなく互いに見つめ合う事数秒、若干の気まずさが流れ始める。

 

「結衣、どーかしたん?」

 

そんな均衡を崩したのは三浦の一言で、尋ねられた由比ヶ浜ははっとして俺から目を逸らす。

 

「えっ!あはは…なんでもない、なんでもないー」

 

「ふーん」

 

三浦はぱたぱたと手を振り否定する由比ヶ浜を傾げながら見た後、再びスマホに視線を戻す。一瞬こっちに鋭い視線を向けられた様に感じた俺は、ギクリとして居直った後背中を丸めて机に突っ伏した。

 

 

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放課後になり、俺は部室へ行くため一日中伏せていた身体を起こす。背中がパキパキと小気味いい音を鳴らし、体中に血液が流れるの感じる。周りを見回すとほとんどのクラスメイトは既に部活動へ向かったり下校した後で、教室には時間を持て余した生徒が数人残っているだけである。その中には由比ヶ浜の姿もあり、三浦と二人でなにやら話し込んでいる。なかなか部室には行き辛いんだろう…。まぁ人それぞれタイミングってもんもあるだろうし、三浦のいる前で声を掛けるのもアレだったんで、俺は一人で教室を出て部室に向かう事にした。

実際俺も雪ノ下と顔を合わせたとして、その時に何を言われるのかも想像がつかないし、何と話しかけていいのかも分からない。恐らく雪ノ下の望む言葉があるのだろうが今の俺はその答えを持ち合わせていない。

そして言葉を見つけてから行こうとすれば、多分俺は一生部室に行く事が出来ないだろう。

 

とぼとぼと部室に向かって歩いていると、不意に後ろから弾む様な声が飛んで来る。

 

「おーい、比企谷くーん」

 

振り向くと、一人の女子生徒が足早に近づいてくる。肩で切りそろえられた黒髪に赤いフレームのメガネを掛けており、顔立ちは整っているがどちらかと言えば大人しそうな印象の少女だ。

 

「海老名…」

 

「教室戻ったら比企谷君いないんだもん。慌てて追いかけてきたんだよ」

 

「そりゃ悪かったな。で、なんか用か?」

 

反射的に身体に力が入り若干の警戒モードになる。

海老名と話したのは修学旅行での依頼の時だ。それ以来会話もしていないし、第一クラスメイトに話しかけられるなんて俺にしてみればかなりの異常事態である。

心当たりと言えば……十中八九由比ヶ浜の事だろう。表情には出ていなかったが、女子同士何か由比ヶ浜の変化を感じ取ったんだろう。

 

「その言い方はちょっと酷くないかな」

 

海老名は肩をすくめながらため息をつく。

 

「比企谷君、部室行こうとしてたでしょ?けど今行っても入れないよ」

 

「は?それどういう…」

 

てっきり由比ヶ浜の事だと思っていたのだがどうやら違うらしい。

 

「ほら」

 

そう言うと海老名はポケットから何かを取り出し俺に見せてくる。それはプラスチック製のプレートの付いた鍵で、プレートには奉仕部が部室として使用している特別教室の名前が記されていた。

 

「なんでお前がコレ持ってんの?」

 

部室にはいつも雪ノ下がいる。それは雪ノ下が常に誰よりも先に部室に来ているからであり、当然部室の鍵だって雪ノ下が持っている筈だ。なのに何故か、鍵は今ここにある。

 

「頼まれたんだよ。なんか職員室に呼ばれてちょっと遅れるから代わりに開けといてって言われたの」

 

「……そうか」

 

ひょっとしたらそれはただの口実かも知れない。昨日の事を思えば、雪ノ下だって部室には行き辛いはずだ。そんな事も察する事ができなかった自分に腹が立つ。

 

「それじゃあ行こっか」

 

「あ……おぅれ…」

 

鍵は俺が開けとくからおまえはもう帰ってもいいぞ、と言おうと思ったのだがぼっちゆえのコミュニケーション能力不足の為か言葉がうまく出なかった。て言うか、おぅれって何だ。恥ずかし過ぎんだろ。

俺が心の中で赤面しているその間にも海老名はすたすたと先へ行ってしまうので、俺も仕方なくその後を追うのだった。しかし、雪ノ下が海老名に頼み事をするとはなんとも意外だった。

 

 


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